福島原発事故 東電幹部の無罪判決は日本の劣化を促進する

 今日(9月19日)、東京地裁で、福島原発事故を巡る判決がだされた。おそらくそうなるだろうとは思ったが、やはりそうかという感じだ。
 福島原発事故に関しては、検察が不起訴にしたので、検察審査会が実施され、そこで強制的な起訴に至ったものである。検察が起訴しないということ自体が、検察の堕落だとしかいいようがない。あれだけの大事故を起こし、近隣の人たちだけではなく、日本中の、そして、国際的な被害を与えたにもかかわらず、誰も刑事責任を負わないというのであれば、地位の高い人は、決して罰せられない、無責任な仕事をしても許されるという、社会全体の弛緩と頽廃を生むに違いない。
 争点は、事故が予見できたか、予見できたとして、回避可能だったかが争われたという。予見できたかというレベルの話ではなく、実際に、何年も前から、警告がなされ、実際に国会で質問もされていたのである。その都度、政府も東電も、そのような心配はない、対策はとらないと答弁していた。そして、実際警告が多方面からなされていたにもかかわらず、対策をとっていなかった。それは記録に残っている。 “福島原発事故 東電幹部の無罪判決は日本の劣化を促進する” の続きを読む

多文化主義は終焉したのか(続き)

 日本で英語が小学校の正式教科になることが決まっているが、決まる前の議論で、日本語が習熟する前に、英語教育を導入すると、日本語が混乱し、日本語の習得にも悪影響があるという反対論が少なくなかった。母語をきちんと習得してこそ、第二言語が習得できるという考えかたは、ヨーロッパのバイリンガリズムに似ている。もちろん、実際の進行は全く違う。
 ヨーロッパでバイリンガリズムの教育を行われているときには、当然住んでいる国の言語の習得をかなり行いながらは、合わせて母語の習得のための補習も実施する。実際に幼稚園や小学校の下級段階では、母語の習得もまだ完全とはいえないだろうから、その時点で第二言語を教え始めた場合に、母語が不完全だと第二言語の習得にもマイナスだというのは、現場の多くの体験からいわれていることだろう。特に母語環境が家庭にしかないのだから、母語の形成が遅れがちになるのは避けられないに違いない。 “多文化主義は終焉したのか(続き)” の続きを読む

多文化主義は終焉したのか

 現在のヨーロッパでは、ポピュリズム政党が大きな力をもつようになっているが、その躍進のひとつの理由が、多文化教育に対するネガティブな感情である。移民受け入れの積極派であるドイツのメルケル首相が、以前「多文化主義は敗北した」と発言したことはよく知られている。少なくとも、多くのヨーロッパ諸国が、政策としての多文化主義教育をやめたことは間違いない。しかし、ことはそれほど簡単ではないようだ。
 多文化主義は様々な定義があるが、共通項を整理すれば、ふたつの要素から成り立つ。
 第一に、公用語以外の言語の尊重である。そして、第二に、マイノリティの文化の尊重である。
 19世紀は、ひとつの民族がひとつの国家をつくるという「国民国家」が成立し、そこで成立した国民国家は、現在多くが先進国としての地位を保持している。しかし、ひとつの民族によって構成されている国民国家といっても、実は少数民族や、国民国家が採用した公用語とは異なる言語を用いている人たちが、ほとんどの国民国家内部に存在した。特に、そうした存在が多かったのがオーストリー帝国である。 “多文化主義は終焉したのか” の続きを読む

大作曲家の作品1

 昨日は、私の所属している松戸シティフィルの演奏会だった。松戸市がオリンピックにおけるルーマニアのホスト市になっているということで、ルーマニアの代表的な作曲家であるエネスク(以前はエネスコと呼ばれていた)の作品を演奏した。そして、指揮者として、ルーマニアのオーケストラの常任指揮者を務めている尾崎晋也さんが振った。海外で活躍されている大変優れた指揮者で、やさしい雰囲気で厳しいことをどんどん指摘することで、私個人としては、普段なら諦めてしまうような難しいパッセージもなんとか弾けるようになろうと、かなり練習したつもりだ。本番も普段よりは弾けたと思う。
 ルーマニア祭のような感じで、新聞(朝日、毎日)が取り上げてくれたために、オケ単独の演奏会としては、けっこう聴衆もたくさん入ったような気がする。
 ブログで、自分のオケの演奏会のことは、いままで書いたことがないが、書く気になったのは、大変珍しい「ルーマニアの詩」という曲が入っていたからだ。CDでも2、3種類しかでておらず、ユーチューブにも2つくらいしかない。交響詩のジャンルにはいると思うが、2楽章で30分もかかる。珍しいというのは、この曲が作品1だということもある。つまり、まだ音楽院の学生だったころの作品らしく、エネスクが、後年苦しいときには、この作品の作曲していたころのことを思い出しながら、自分を励ましていたと、指揮者の尾崎さんが教えてくれたのだが、作品1というのは、みんな青春の思い出なのだろうか。 “大作曲家の作品1” の続きを読む

NHKスクランブル放送化を考える

 N国党が当選者を出すことによって、NHKをめぐる状況が変わっていくだろう。通勤で使う駅で時々演説していたので、パンフももらったし、存在はよく知っていた。しかし、あまり賛成はできないと常々思っていたが、いよいよ現実的な課題になり、また、NHKのスクランブル放送化に関する世論調査も行われた。だいたい賛否が3割ずつで、拮抗しているらしい。政党では規制の主な政党はだいたい反対の姿勢なので、当分N国党の主張が通ることは、しばらくの間ないだろう。
 スクランブル放送とは、許可した者だけが視聴できる仕組みで、NHKの受信料を支払った者だけが視聴できるということだ。スカパーがそうだ。アナログ放送では不可能だが、現在のテレビ放送はすべてデジタル化しているので、技術的に可能になっている。私はデジタル化した理由が、スクランブル化のためだと思っていたので、もっと早く問題になるのかと思っていたが、これは私の判断ミスだった。しかし、技術的に可能なことは、必ず実行しようとする者が現れるし、大きな流れで見れば、実現の方向に進んでいくものだ。 “NHKスクランブル放送化を考える” の続きを読む

水泳授業の民間委託

  毎日新聞9月12日の地方版(福岡)に、「水泳授業の民間委託検討 久留米市小学校、プール老朽化などで/福岡」という記事が出ている。全46校にプールがあるが、20校が築30年以上となっていることが原因で、検討をしているということだ。既にいくつかの自治体で行われていて、調査したところ「天候に左右されずに授業ができる」「専門家の指導で学習効果があがる」というような結果がでたという。
 この記事を読んで、以前私自身が経験したことを思い出した。
 私の家の近くに鉄道が通ることになり、ある小学校が駅近くになるために、開発を主導しているところから移転要請があり、近くに移転することになった。その際、私の妻が教育委員会と交流があったので、その学校をどのようにするかの検討チームにはいり、私も部分的に参加した。その際議論になったひとつが、プールだった。とにかく大規模開発する地区だったので、移転先の敷地もそれほど広くなく、また、公民館との併用の複合施設となることが決まっていた。だから、プールを作るのは、けっこう無理があったのである。私たちは、オランダに家族で一年間住んでいて、娘たちが現地校に入っていたから、その経験なども踏まえ、プールは学校に作る必要はなく、近くの駅前にスポーツクラブがふたつもできることになっているので、そこと契約して、そこのインストラクターに指導してもらったらどうかと提案した。 “水泳授業の民間委託” の続きを読む

『週刊ポスト』韓国特集 嫌韓を煽っているようには思えない

 小学館の『週刊ポスト』9.13号の韓国特集を読んでみた。吊り広告をみて、流石に買う気がしなかったのだが、T-Magazine に週刊ポストが入っているので、早速加入して、そこで読んだ次第。「韓国は要らない」というような刺激的な見出しがついているので、何人かの常連寄稿者が、執筆拒否を宣言したことで騒がれた。二回連続の韓国特集で、第一回が「韓国要らない」で、ふたつの記事からなる。第一は「厄介な隣人にサヨウナラ 韓国なんて要らない」という題で、日韓両国のメリット・デメリットを徹底調査するという記事になっている。 
 しかし、すべてが日本が得するという内容で、
・GSOMIA破棄なら半島が危機になり、ソウルが金正恩に占領される悪夢となる
・サムスンのスマホ、LGのテレビ、現代の自動車が作れなくなる
・東京オリンピックボイコットなら、日本のメダルは2桁増
・韓国人旅行客が日本で使うお金は米中の3分の1。だから、たいした損ではない
・韓流グループは、日本市場がないと食べていけない
という見出しで、説明文がつくが、確かにそうだと思うのは、オリンピックを韓国がボイコットすれば、それは日本のメダルが増えるということくらいで、他の記事は、あまりに日本を買いかぶり、韓国の力を過小評価しているように思えてならない。 “『週刊ポスト』韓国特集 嫌韓を煽っているようには思えない” の続きを読む

歌舞伎を初めて見た

 今年度で大学も終わるので、大学からのプレゼントとして、歌舞伎の券を贈られた。一度くらい見ておきたいと思ってはいたが、私はオペラファンなので、まあ実際に見に行くことはないだろうとは思っていたのだが、こういう機会はぜひ利用させてもらおうと思って、昨日出かけた。場所は日比谷線の東銀座駅から直接いけるようになっているのだが、直接いけるのは、展示やお土産屋さんの並んでいるビルで、実際に歌舞伎座の劇場に入るには、外に出てから、道路に面している入り口から入る。暑くて、一斉に並んで入るので、かなり不便な仕組みだ。ロビーも狭いし、普段慣れている音楽会場とは違う。だが、この夏いったバイロイトの劇場はロビーがお世辞にも広いとはいえなかったので、似たようなものかも知れない。バイロイトは、休憩時間中は、外に(といっても庭園だが)出て,ビールやワインを飲む。歌舞伎座は、多くの人がお弁当を買っていて、座席で食べていた。休憩時間中は飲食オーケーなのだそうだ。音楽会とずいぶん違うと思ったのは、上演が始まってからも、時間的制限なく、遅刻してきた人を席にまで、係の人が案内していたことだ。クラシックの音楽会では、演奏が始まったら、通常はなかに入れないか、入ったとしても、席にはつけずに、後ろに立って聴かなければならない。 “歌舞伎を初めて見た” の続きを読む

読書ノート『木のいのち木のこころ』西岡常一

 個性を伸ばすといっても、実際には極めて難しい。特に日本の学校では、言葉では言われても、実際には一定の方向にもっていこうとする、つまり、同質性を求める。おそらく、よい教育をしようと思っている人ならば、そうではなく、人間はみんな違うのだから、それぞれの個性、よさを伸ばしたいと思っているに違いない。しかし、それは本当に難しいのだ。まず、じっくりと育てる時間がなければ無理だろう。それに、それぞれ違うものをもっている子どもたちの特性や資質を見抜く力がなければならないし、それを伸ばす方法も、異なる特性や資質に応じて違ってくるはずである。それは教育する者に相当の力量を求める。
 だから、往々にみんなを同じ枠のなかに押し込むような教育が、横行してしまうことになる。現在のほとんどの学校では、教師と子どもは2年程度しか師弟関係にはない。そして、卒業していってしまう。その後のことはわからないし、また責任もとりようがない。本書は、宮大工の仕事を通してであるが、みんなを同じに促成栽培するような教育が、いかに間違っているかを教えてくれる書物である。教師の人には、ぜひ読んでほしい。 “読書ノート『木のいのち木のこころ』西岡常一” の続きを読む

ポピュリズム政党の教育政策(2)

オランダ
 オランダの自由党(Partij voor de Vrijheid)をみてみよう。 
 オランダは、長い間、移民政策の優等生と言われ、移民に対する寛容政策が最もうまくいっていると考えられてきたが、2001年の911同時多発テロで空気が一挙にかわる。労働党の論客だったフォルタインが移民への制限を訴える主張をひっさげて、フォルタイン党を結成、2002年の総選挙に挑戦した。選挙の1週間前に暗殺されてしまうのであるが、第二党となったフォルタイン党は入閣した。その直後にオランダに一年の海外留学にいった私は、その当時の政治的混乱をつぶさにみることになったが、フォルタインの人気はかなり大きなものだった。モスクやイスラム学校への暴力的介入などがおき、次第に、社会の反移民的雰囲気も少しずつ強くなっていった。そういうなか、EUへの懐疑も大きくなり、オランダでは、2005年のEU憲法を国民投票で意志を問うことになり、60%が否定し、結局、EU憲法は成立しないことになった。その反対運動の先頭にたったのが、ウィルダースで、自由党を結成し、今では有力な政党として、オランダ政治に大きな影響をあたえている。 “ポピュリズム政党の教育政策(2)” の続きを読む