今年度で大学も終わるので、大学からのプレゼントとして、歌舞伎の券を贈られた。一度くらい見ておきたいと思ってはいたが、私はオペラファンなので、まあ実際に見に行くことはないだろうとは思っていたのだが、こういう機会はぜひ利用させてもらおうと思って、昨日出かけた。場所は日比谷線の東銀座駅から直接いけるようになっているのだが、直接いけるのは、展示やお土産屋さんの並んでいるビルで、実際に歌舞伎座の劇場に入るには、外に出てから、道路に面している入り口から入る。暑くて、一斉に並んで入るので、かなり不便な仕組みだ。ロビーも狭いし、普段慣れている音楽会場とは違う。だが、この夏いったバイロイトの劇場はロビーがお世辞にも広いとはいえなかったので、似たようなものかも知れない。バイロイトは、休憩時間中は、外に(といっても庭園だが)出て,ビールやワインを飲む。歌舞伎座は、多くの人がお弁当を買っていて、座席で食べていた。休憩時間中は飲食オーケーなのだそうだ。音楽会とずいぶん違うと思ったのは、上演が始まってからも、時間的制限なく、遅刻してきた人を席にまで、係の人が案内していたことだ。クラシックの音楽会では、演奏が始まったら、通常はなかに入れないか、入ったとしても、席にはつけずに、後ろに立って聴かなければならない。
歌舞伎座の舞台は、テレビではみたことがあるが、思ったよりも、横が広かった。普通の劇場だと、座席の横の広がりよりも、舞台は幅が狭くなっているが、歌舞伎座は座席の広がりと舞台の広がりが、横に関しては同じになっている。だから、舞台が見えない人はいないに違いない。オペラ劇場の舞台は、観客席より大分狭いので、一番舞台に近く左右の端のほうだと、舞台がほとんどみえないなどということがあるのだが、その点歌舞伎座は親切だ。
驚いたのは、演目が月変わりになっているが、ほとんど毎日あり、しかも夜の部と昼の部がある。演目は違い、主な役者は両方に出ている。鬼平の吉右衛門さんも、昼と夜で、違う役ででていた。いつもそうなのかはわからないが、9月は昼はすべて貸し切りなのだそうだ。座席は正確にわからないが、だいたい1000くらいではないかと思うが、これが同じ演目で1カ月続くというのは、クラシック音楽のファンとしては、すごいなあと思う。やはり、大衆的な人気があるのだろう。
今回の演目は、「寺子屋」「勧進帳」「松浦の太鼓」で休憩を挟んで、4時半から9時までなので、かなり長丁場だ。もっとも、バイロイトは4時に始まって終わりが10時だったから、バイロイトのほうが長い。ただし、バイロイトは休憩が2回あって、それぞれ60分だった。
「勧進帳」は有名なので、内容は知っていたが、話は単純で、見どころは、通行を許可されたあとの弁慶の演技だろう。踊りというのかどうかわからないが、ゆっくりとしたテンポで型を決めていく。衣装がかなり重そうだから、ずいぶんと疲れると思うが、最後のほうで、片足だちをかなり長く、ピシッと決めていたから、それはすごいと思った。勧進帳だけは、舞台後方の高いところに、囃子や三味線の人たちがずらっと並んでいて、音楽付き芝居というのではなく、「かぶく」からきた名称だというが、それでも、こういう体制で伴奏のようなものがつくと、「歌舞伎」なんだなと思える。しかし、「寺子屋」では、語りと三味線が一人ずつで、歌付き芝居という感じとは遠かった。「松浦の太鼓」になると、それすらいない。録音と思われる三味線がなりつづけていたが。
「寺子屋」は、若君を匿っている源蔵に、若君を斬首せよという命令がくだり、寺子屋の子どもたちでは、若君の代わりになるような品のあるものはおらず、どうしたものかと思っていると、ちょうど年齢姿が似ている子どもを、妻が伴ってくるので、その子を身代わりにしようと決める。その後検分役の松王丸が現れて、検分する。玄番という監督が付き添っている。玄番にばれたら切りかかろうと思っていて構えている松王丸は、確かに若君だといって、玄番に信じさせ、そのままふたりは引き上げる。しばらくして、松王丸が戻ってきて、実は自分が使えている主人から去ろうと思うのだが、検分役を命じられてしまった。若君を助けるために、自分の子どもを寺子屋に行かせたと語る。母親もやってきて、首を切った源蔵が、身代わりになることを喜んで死に臨んだと話し、松王丸も妻も悲しみつつも安堵するという話である。戦国時代でも、あまりありそうにない話だが、歌舞伎としては、人気演目らしい。実話かどうかはわからないが、謀叛を起こした荒木村重を説得にいった黒田勘兵衛が捕虜になってしまい、裏切ったと疑った織田信長が、人質にとってある子ども(後の黒田長政)を殺害するように命じるが、竹中半兵衛が匿ってしまい、別の子どもの首を差し出したという話がある。この話を参考にした創作なのだろうか。長政の当時の幼名は、松寿丸だから、関係があるのかも知れない。
衣装などはすばらしいと思ったのと、有名な役者の演技はさすがだと感心した。セットなども豪華というほどでもないが、きちんとつくってあって、長い間大衆的人気に支えられてきたのが納得できる。歌舞伎は、イタリアオペラに似ていて、ワーグナーは能に似ていると書いてあるブログがあったが、どちらかというと大げさに歌い、終わると拍手喝采するイタリアオペラは、確かに、歌舞伎に似ているかも知れない。筋が既に分かっているものが多いこと、表現が大げさで、型にはまっていること、役者がどのように演じるかの比較ができること、などが、演劇としての人気の秘密かも知れない。
しかし、やはり、私には、オペラの方が魅力的だし、何度も見たい、聴きたいと思う。オペラの主役たちは、連日歌うなどということはできない。声の限界に挑戦しているようなところがあるからだ。何しろ100人のオーケストラの音を突き抜けて響いてくるのだから、オペラの声の格闘技という言葉があるくらいだ。クラシック音楽のもっともすばらしい名曲を、ぎりぎり鍛えた美しい声で歌いあげる魅力は、どうも歌舞伎には感じなかった。もちろん、すばらしい芸だと思ったけれども。
とにかく貴重な経験だった。