多文化主義は終焉したのか(続き)

 日本で英語が小学校の正式教科になることが決まっているが、決まる前の議論で、日本語が習熟する前に、英語教育を導入すると、日本語が混乱し、日本語の習得にも悪影響があるという反対論が少なくなかった。母語をきちんと習得してこそ、第二言語が習得できるという考えかたは、ヨーロッパのバイリンガリズムに似ている。もちろん、実際の進行は全く違う。
 ヨーロッパでバイリンガリズムの教育を行われているときには、当然住んでいる国の言語の習得をかなり行いながらは、合わせて母語の習得のための補習も実施する。実際に幼稚園や小学校の下級段階では、母語の習得もまだ完全とはいえないだろうから、その時点で第二言語を教え始めた場合に、母語が不完全だと第二言語の習得にもマイナスだというのは、現場の多くの体験からいわれていることだろう。特に母語環境が家庭にしかないのだから、母語の形成が遅れがちになるのは避けられないに違いない。
 しかし、日本での状況は、大部異なる。英語が外国語活動として始められたのは、5年と6年であり、教科として英語が導入されるのも、5年と6年である。外国語活動が3年と4年に降りてくるわけだが、それでも、1年と2年は英語の授業はない。
 また、日本では、近年幼稚園で英語教育を取り入れているところが少なくない。あくまでも日本で生活している日本人の子どもが、幼稚園や学校、あるいは英語塾で英語を学んでいる。その場合に、早期の英語教育が、日本語の習得を阻害するか、あるいは、日本語が十分に発達していないと、英語を習得することは理論的に不可能なのかという点である。
 日本語が十分でないと、英語を学んでも無駄であり、かつ害があるとする人たちが論拠にしている本のひとつに、市川力氏の『英語を子どもに教えるな』(中央公論社)である。いかにも、小学校での英語教育に反対している本に思われるが、実際には、そうではない。市川氏が、アメリカ滞在中に日本人の子どもたちに多く接したが、英語も日本語も中途半端になる者が少なくなかったという。日本に帰国したときに、日本語も不十分なので、苦労している。そういう話をしているが、これは、日本で英語を学ぶ事例とは、状況が異なっている。いろいろと探してみたのだが、例えば幼稚園で英語教育をうけた子どもが、その後日本語の習得に何か影響があったのかを調べる研究は、見当たらないのである。まだ探し方が十分でないとは思うが、大学の図書館で、言語学習の領域の本を調べてもそれらしいものがない。おそらく、悪影響などはないと思われる。なぜなら、言語は、まわりで話されており、自分も話している言語を自然に習得するのであって、家庭でも、地域でも、学校でも日本語を話して、学校で日本で学んでいる子どもたちが、英語をある時間帯習っているからといって、日本語の習得を阻害するとは思えないのである。もし、日本語の習得に問題があるとしたら、それは英語のせいではなく、日本語を使用して、興味をもたせたり、考えさせたりすることが不十分なのではないだろうか。あるいは、国語教育そのものに問題があるとも考えられる。
 とすると、問題はやはり、早期に英語を学習することの効果だろう。
 実は市川氏は、そのことを原則的に否定しているわけではない。自分の子どもを日本語、英語、スペイン語を使いこなすトリリンガルの子どもに育てた北村崇郎氏を例にあげて、「幼児の外国語学習には、環境が極めて重要で、生活体験を通じて身につけるのが最適である」ということに同意している。北村氏は、外国語を学ぶのに適した環境がない場合には、早期の学習はしないほうがよいと主張しているということだ。
 これは、実は、ごく常識的なことだろう。日本人の英語会話力が、学校で学んでいるにもかかわらず、なかなかつかないのは、そういう環境が乏しいからである。しかし、環境が英語に接する機会が多くなっている今では、若いひとたちの英語力は、確実に向上している。だから、早期に学ばせる親が、そういう環境をしっかりとつければ、かなり効果はあると、私は思う。
 以前読んだ話であるが、有名な辞書編纂者であるウェブスターは、家庭にいる人たちが言語を分担して、例えば、父親はドイツ語で、母は英語で、祖父はフランス語で、祖母はイタリア語で(これは、例えばの話なので、適当に組み合わせているだけ)、常に話しかけるようにして、4カ国語をネイティブのように習得させたというのである。分担を厳密にしたのは、言語間がごちゃまぜにならないようにしたということらしい。ヨーロッパには、多言語をごく自然に話す人たちが珍しくないが、それは、多言語環境が生活圏にあるからだろう。
 だから、学校で英語教育を取り入れる場合、単に週何度かの授業をするだけでは、あまり効果がないことは、十分に予想される。家庭でも英語に接する時間帯を多くつくる。そういう環境が作られれば、私は英語の早期教育は効果があると思うし、日本語の習得との間に矛盾が起きるとは思わない。
 私が子どものころは、ネイティブの英語を聴く機会は、ほとんどなかった。メディアとしても、レコードがあったくらいである。カセットテープは大分たってから現れた。英語耳を形成するのには、繰り返し聴くことが必須だろうが、レコードは繰り返し聴くことができないツールだから、レコードはあまり役にたたなかった。当時、英語力のある大人は、映画で鍛えたという話をしたものだ。今のように入れ替え制ではないから、終日繰り返し同じ映画をみるわけである。子どもが外国映画を映画館でずっと見ているなどということは、無理なことだろう。
 生活圏に英語のネイティブのひとが住んでいて、親しくするなどという幸運な人は滅多にいなかった。
 今では、人が住んでいなくても、メディアを活用すれば、英語環境はかなり作れる。そのように環境を作っていくことが重要なのだと思う。小学校で英語を教えるから、それだけで英語力が向上するというものではないだろう。しかし、音をそのまま聞き取る能力は、幼児に消えてしまうと言われているので、早期教育は、環境を整えることを条件に推進すべきである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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