矢内原忠雄と丸山真男13 内村鑑三の継承

 矢内原忠雄も丸山真男も、系譜的には内村鑑三とつながっている。矢内原は、主に新渡戸稲造と内村鑑三という二人を「教師」としている。新渡戸には植民政策を教わり、その講座の後任となった。内村は信仰の師である。丸山のふたりの教師は、長谷川如是閑と南原繁であるが、南原の二人の師が、小野塚喜平次と内村鑑三であった。つまり、南原と矢内原は内村の信仰の弟子であったが、東大の聖書研究会は主に矢内原が指導しており、南原はあまり関わらなかったようだ。南原と矢内原のつながりは、連続して東大総長になって、東大改革に尽力したことのほうが強いのかも知れない。こうした系譜のなかで、内村鑑三は、矢内原とも丸山ともつながっているという点で、とりあげる価値があると思われる。矢内原は、直接の弟子であり、人生のあらゆる時点内村について語っているから、文献は膨大であるが、丸山も内村について、頻繁に触れている。しかし、当然のことながら、二人の継承する中身はかなり異なっている。

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矢内原忠雄と丸山真男12 講和問題

 日本が占領統治されていた時期の最大の政治課題は、いうまでもなく「独立」であり、それは講和条約の締結であった。しかし、ポツダム宣言を受け入れ、占領が始まった時点から、次第に国際情勢が変化し、戦争中は連合国として協力しあっていたアメリカとソ連は対立関係となり、東アジアは共産主義革命の進行が顕著になっていた。そのために、日本との講和条約は、単純に連合国全般と締結することが難しくなっていた。政治家はもちろん、多くの知識人も、この講和問題をどう考えるか、立場の選択を迫られていたといえるだろう。矢内原忠雄も丸山真男も、それぞれの立場を明確に出している。しかし、それはかなり異なるものだった。二人とも、講和問題を議論する知識人たちの集まりであった「平和問題談話会」の中心的存在の一人であったが、実は、その中心的声明の原稿を書いたのは、丸山であり、実は、矢内原は、多少その談話会の傾向とは異なる言論活動をしていた。

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矢内原忠雄と丸山真男11 天皇制について(丸山2)

前回は、終戦から間もない時期に書かれた「超国家主義の論理と心理」によって、丸山の天皇制認識を検討した。今回は、戦後10年余経過した時点で書かれた「日本の思想」を検討したい。(丸山真男集7巻所収)このあと、丸山は、もちろん天皇制問題をずっと追求していくわけだが、戦後の天皇制については、私が知る限り、本格的に触れることはなく、ひたすら古代まで立ち返って、歴史貫通的に流れる思想を追求していったといえる。しかし、古代天皇制からずっと継続する思想を問題にすれば、それが敗戦と戦後の象徴制の天皇というシステムにも、継続しているのか、あるいは、やはり、断絶があったのかという点については、無視することはできないはずである。1500年にわたって続いた制度と、それを支える思想が、単なる一度の敗戦で消えてしまうことは、考えにくい。特に昭和天皇の逝去の前後に生じた大記帳運動ともいうべき事態を、丸山はかなりショックをもって受けとめたが、それは、まったく新しい戦後的なもので、丸山の批判する性格ではないのか、戦前体制の残滓ともいえるのか。この点に関する分析をしなかったことは、やはり、大いに不満をもたれてしかるべきだろう。

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矢内原忠雄と丸山真男10 敗戦の迎え方とフィヒテの読み方

 敗戦直後、矢内原忠雄と丸山真男は、どのような言論活動をしたのだろうか。矢内原については、前に、敗戦後間もない10月の講演を紹介した。「日本精神への反省」で、戦争をもたらしてしまった日本人の精神構造を分析した講演だった。そして、11月には「平和国家論」(全集19巻)と題する講演を行っている。いずれも長野県の国民学校での講演で、主な対象は教師だった。「平和国家論」は、フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」とカントの「永久平和論」を素材にしながら、今後の日本建設のために必要なことを論じたものだった。つまり、東大教授に復帰し、本格的な活動を始める前に、既に矢内原は講演を復活させ、戦争を支えた日本精神の分析と、今後必要なことを示していたのである。
 他方、丸山真男は、1945年には、戦中にも戦後にも公表された文章はない。丸山自身、大いに学ぶ機会でもあった庶民大学三島教室に参加したのは、46年2月以降であるから、やはり、45年の間には、公的な活動や論文の公表はなかったといえるだろう。しかし、『丸山真男講義録2』に、45年11月1日の日付が入っているメモが収録さている。「草稿断簡」と題する文章は、途中で終わっており、もし機会があれば、完成する予定だったかも知れないが、私の知る限り、この文章が、最も早い時期での戦後総括のひとつである。そして、その内容は、フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」を参考に、日本人の精神のあり方を考察しようとしているものだ。

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矢内原忠雄と丸山真男9 天皇制について(丸山真男1)

 丸山真男は、戦前の超国家主義の分析で、華々しく論壇デビューしたという経歴から、天皇制の分析に関する論文を数多く残していると思われがちであるが、実は、天皇制の分析を主に行ったものは、極めて少ない。有名なものとしては、「超国家主義の論理と心理」「日本ファシズムの運動と運動」くらいのものである。そして、戦後の天皇制に関する分析を論文として残していないはずである。私は、これまで戦後象徴天皇制に関する分析をした丸山の論文には、接していない。しかし、昭和天皇の逝去に伴い、「昭和天皇をめぐるきれぎれの階層」という興味深い文章を残している。そこで、特に戦前の丸山が、昭和天皇に、どのように関わり、また、感慨をもっていたかが、かなり赤裸々に語られている。そして、「超国家主義の論理と心理」に関連して、次のように書いている。 “矢内原忠雄と丸山真男9 天皇制について(丸山真男1)” の続きを読む

矢内原忠雄と丸山真男8 天皇制について(矢内原忠雄2)

 東大を辞職した後、矢内原は、主にキリスト教の伝道を行っていた。それまでの『通信』という個人雑誌を『嘉信』と改め、日曜集会、土曜学校講義、そして各地での講演を掲載していった。これには当局の妨害もかなり入ったようだが、最後まで発行し続けた。また協力者が、紙を提供してくれるなどのこともあって、戦争が終わるまでだし続けた自体驚異的なことである。更に、岩波書店から3冊の新書を出すなどの出版もあったが、いずれもキリスト教的な観点の書物であった。研究をやめたわけではなく、大東亜問題に関する研究を、何人かの専門家と行っていたというが、空襲ですべての資料が燃えてしまったので、その成果は結ぶことがなかった。
 戦争に負け、矢内原が予言したように、日本は国家的に滅び、新しく踏み出すことになったが、矢内原は、いち早く、日本人の啓蒙活動に乗り出す。前に紹介した木曽福島での10月の講演「日本精神の反省」から始まって、日本中を回っての講演活動である。そうするなか、東大へ復帰することになり、多忙になるが、焦土となった日本の再生のために、なすべきことを示していったわけである。
 そのなかで、当然天皇制について、多く語っている。 “矢内原忠雄と丸山真男8 天皇制について(矢内原忠雄2)” の続きを読む

矢内原忠雄と丸山真男7 天皇制について(矢内原1)

 現在は、戦後東京裁判で天皇の訴追がなされないことが決定するまでとは、その意味は違うが、天皇制の危機である点では、同じくらいだといえる。敗戦直後は、天皇の戦争責任が問われ、天皇という制度が消滅するかも知れなかったといえるが、もし、占領軍がそのように決めたら、本当に国民は、占領軍に抵抗しただろうか。一旦敗戦という解放感に浸った国民が、占領軍という絶対的な権力が行ったことに、どれだけ抵抗したかは、私にはわからないが、おそらく、大きな抵抗はなかったに違いない。しかし、占領軍は、天皇というシステムをより合理的に利用する道を選択したわけである。そして、天皇は神から人間に、そして、主権者から、主権者たる国民の総意に基づく象徴になった。そして、その後は、紆余曲折はあったが、象徴天皇制が危うくなったことは、二度あった。 “矢内原忠雄と丸山真男7 天皇制について(矢内原1)” の続きを読む

矢内原忠雄と丸山真男6 東大紛争と丸山真男

 丸山が、大学との関連でトラブルに巻き込まれたのは、一高生のときの逮捕と助教授のときの津田左右吉への攻撃的質問ぜめで津田を脱出させたこと、そして、東大を辞職するきっかけとなった東大紛争における学生との対応である。
 前のふたつは、既に触れたので、最後の東大紛争時の丸山の行動について考えてみる。
 東大紛争(中にいた学生としては、東大闘争といわなければならないのかも知れないが、既に50年経っており、より客観的に見る必要がある時期になっているのでそのように書くことにする)は、私にとっても、中にいて、私なりの活動をしたという点で忘れがたい事件である。尤も、私は当時1年生だったし、駒場の教養学部の学生だったので、丸山の法学部の動向は、ほとんど知らなかった。丸山に関しては、息子が日大の全共闘の活動家で、丸山真男とは対立しているらしいというような「噂」が聞こえてくる程度で、それ以外の情報には接していない。 “矢内原忠雄と丸山真男6 東大紛争と丸山真男” の続きを読む

矢内原忠雄と丸山真男5 大学での紛争への対応2 ポポロ事件

 矢内原忠雄は、戦後東大に復帰してからは、社会科学研究所の所長、経済学部長、教養学部長、そして総長を歴任した。特に教養学部長、そして総長として、激しい学生運動と対峙せざるをえないことになった。1970年くらいまでの学生運動は、今からは考えられないほど、過激なものだった。そして、学生がストライキをすることも稀ではなかった。矢内原は、そうした学生の運動に理解をもってはいたが、学生が学ぶ権利を侵害したり、あるいは、学ぶ環境を阻害するような行為には、断固とした措置をとった。何度か紹介しているように、それは「矢内原三原則」と呼ばれて、学生のストライキを指導した学生は、必ず退学処分となった。尤も、学内規則を守るという誓約書に署名し、復学を申し出れば、確実に復学することができたのだが。
 そうした教養学部長時代のことは、以前に書いているので、今回は、総長になって経験した最大の学生問題である「ポポロ事件」について考えてみる。 “矢内原忠雄と丸山真男5 大学での紛争への対応2 ポポロ事件” の続きを読む

矢内原忠雄と丸山真男4 大学での紛争への対応1

 私は、経済学者でも政治学者でもないので、二人の学者としての業績を評価することはできない。だが、第二次大戦を体験し、戦後も大きな役割をになった知識人として関心をもっている。前にサイードの『知識人とは何か』の「自分のだした結論が自分にとって不利であったとしても、その結論を保持・主張できる人」という命題を紹介した。私は、その前に、ごく当たり前のことだが、「周囲で起こっていることに対して、自己の見解を提起できる人」ということを前提条件として加えたい。その点から見ると、二人とも、戦前から戦後にかけての代表的な知識人であるが、提示の仕方は多少異なっている。今回はその点を見ておきたい。特に、自分の所属する大学で起こった事件に対する対応と見解の表明に絞ってみる。
 矢内原は、大学における「紛争」に比較的たくさん遭遇している。
 最初は、一高時代、新渡戸稲造校長が責任を問われて辞職したとき、擁護運動の先頭にたったのが矢内原である。第二は、自身が大学を追われた「矢内原忠雄事件」の当事者として。そして、戦後東大に復帰して、教養学部長時代の学生のストライキ、そして、総長として「東大ポポロ事件」の対応である。関わり方も多彩であったといえる。 “矢内原忠雄と丸山真男4 大学での紛争への対応1” の続きを読む