丸山真男は、戦前の超国家主義の分析で、華々しく論壇デビューしたという経歴から、天皇制の分析に関する論文を数多く残していると思われがちであるが、実は、天皇制の分析を主に行ったものは、極めて少ない。有名なものとしては、「超国家主義の論理と心理」「日本ファシズムの運動と運動」くらいのものである。そして、戦後の天皇制に関する分析を論文として残していないはずである。私は、これまで戦後象徴天皇制に関する分析をした丸山の論文には、接していない。しかし、昭和天皇の逝去に伴い、「昭和天皇をめぐるきれぎれの階層」という興味深い文章を残している。そこで、特に戦前の丸山が、昭和天皇に、どのように関わり、また、感慨をもっていたかが、かなり赤裸々に語られている。そして、「超国家主義の論理と心理」に関連して、次のように書いている。
「この論文は、私自身の裕仁天皇および近代天皇制への、中学生以来の「思い入れ」にピリオドを打った、という意味で--その客観的価値に関わりなく--私の「自分史」にとっても大きな画期となった。敗戦後、半年も思い悩んだ揚句、私は天皇制が日本人の自由な人格形成--自らの良心に従って判断し行動し、その結果にたいして自ら責任を負う人間、つまり「甘え」に依存するのと反対の行動様式をもった人間類型の形成--にとって致命的な障害をなしている、という帰結にようやく到達したのである。」
「ようやく」という単語に、わざわざ傍点を付し、強調していることも印象的である。丸山ほどの聡明な学者が、しかも、政治学の専門家が、戦前の天皇のシステムが、自由で自立的な人間形成に障害になっていることを、戦後半年もかかって認識するようになったというのは、驚きを禁じ得ない。そうであるならば、戦後の天皇制が、「甘え」に依存しない行動様式をもった人間類型の形成を阻害していないかについて、ぜひ分析してほしいかったと思うのだが、丸山はそれをしてはいない。矢内原の天皇認識は、反対するひとはいるにせよ、天皇制自体に問題があるというよりは、軍部が恣意的に歪曲して、軍部に都合のいいように利用したことが問題だったのだから、戦後、象徴制になることによって、問題が除去されたという認識である。そのことが、戦後の天皇制の矢内原の位置づけとして理解できるが、丸山の場合には、戦前の天皇制が上記のようなものだったとしても、それが天皇制のもつ本来の姿であるのか、本来は肯定的な制度であるのに、軍部によってねじ曲げられたものであるのかは、明確に分析しているようには見えない。その点は、丸山への不満として表明しても不当ではないだろう。(後述するように、軍国主義的特質は、明治以降の国家機構に内在していた、と書いているから、超国家主義によって、大きくねじ曲げられたものという部分は、大きいとは考えていなかっただろう。)
では、戦前、丸山は天皇をどう思っていたのか。
丸山は大正生まれなので、子どものころ、大正天皇の病気や奇異な行動についての噂話を聞いたということだが、昭和天皇については、摂政就任をかすかに覚えている程度で、「虎ノ門」事件(当時皇太子で摂政になった後の昭和天皇が狙撃された事件)が強い印象に残ったという。
天皇になってからの印象は、丸山にはよかったという。それは、「満州某重大事件」のときに、田中義一首相を叱りつけたことに対してだった。しかし、この点は、後の天皇制やファシズムの分析とは、多少異なる事実が示されている。つまり、天皇の厳しい追求に対して、田中首相は、厳重処分すると約束したのに、首相が軍部に押されて微温な事件処理を奏請したために、昭和天皇が怒ったという場面である。天皇の叱責で、辞職してしまうくらい、天皇の威力があったということだろうが、しかし、処分がその後厳重なものになったわけではなく、結局、天皇の意志そのものは、内閣によっても、また軍部によっても無視されてしまったわけである。
とにかく、丸山は、こうした天皇崇拝の雰囲気のなかで、特に矛盾を感じることなく過ごしたようだ。一高入学後、特高に逮捕されるという経験をするわけだが、それによって、天皇制に疑問をもったわけでもなく、「寄宿寮のなかで便所の壁に、「天皇制打倒」という落書きを見たとき一瞬、生理的ともいうべき不快感に襲われた」と書いている。ただ、ジャーナリストだった父の影響もあり、思想善導とか、国体観念の鼓吹に対しては、反感をもっていたとも書いている。つまり、思想犯被疑者でありながら、リベラルな天皇制への揺るぎない信者であるという、ふたつの側面がひとりの人格の内面に同居していたのが、敗戦までの丸山の「詩と真実」だったという。
そして、戦後になって、1946年の『世界』5月号に、「超国家主義の論理と心理」を発表することで、天皇制に対しての思い入れにピリオドを打ったわけである。
では、「超国家主義の論理と心理」で、丸山は天皇制をどのように分析し批判したのだろうか。
ヨーロッパは中性国家であるという、カール・シュミットの規定を前提に、日本は、国家主権としての法機構と価値の主体が統合されているという点に、明治以降の国家的特質を見いだす。この点については、自由民権運動も、価値の問題を軽視することで、事実上その体制に飲み込まれ、キリスト教と国家教育の間で一時争いが生じたが、結局キリスト教が対決を回避した。こうして、私的な存在が認められず、私生活も臣民の道に従うことを強制された。「私事」の部分がなくなり、「今年初頭の詔勅で、天皇の神性が否定されたその日まで、日本には信仰の自由はそもそも存立の地盤がなかったのである」と結論する。
それは、「何が国家のためかという内容的な決定をば「天皇陛下及天皇陛下ノ政府ニ対シ」(官吏服務紀律)忠勤義務を持つところの官吏が下すという点にその核心がある」が故に、『臣民の道』において、「私生活の間にも天皇に帰一し、国家に奉仕するの念を忘れてはならぬ」という内容から、「私的なものは、即ち悪であるか、もしくは悪に近いものとして、何程かのうしろめたさを絶えず伴っていた」とする。しかも、こうした体制は、決して全体主義が流行したからのものではなく、日本の国家機構そのものに内在していたというのである。丸山は、超国家主義においては、私生活においても、天皇への奉仕が必要であり、特に官吏は、それを強く求められたとする。
その国家機構における権力の強さは何によって生じるのか。それは「究極的価値たる天皇への相対的な近接の意識」、つまり天皇との距離だという。では、天皇は、唯一の主体的自由の所有者なのか。「無よりの価値の創造者」ではなく、「無限の古にさかのぼる伝統の権威を背後に負っている」。だから、答えは否ということになるのだろう。
「日本ファシズムの思想と運動」では、「統制派の連中こそ、国体国体といいながら、自己の政治的イデオロギーの貫徹のために天皇の権威をたえず利用しようとする。「陛下が許されねば短刀をつきつけても云ふことをきかせるのだ」というような不敵な言辞を平気ではいている」と書いて、天皇主義者こそ、天皇を無視していた実態を明らかにしている。
これだけの素材で、丸山の天皇論を考察することは、もちろんできないのだが、とりあえず、ここでは、いくつかの疑問を提起しておきたい。
1 法機構と価値の主体を天皇という存在において統合されていたという「軍国主義の論理」は、確かにそうだろうが、日本において「信仰の自由はそもそも存立の地盤がなっかた」と断定することは疑問である。大日本帝国憲法も、制限付きではあれ、信教の自由を認めていた。(第二十八條 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス)矢内原は、大日本帝国憲法の論理と、軍国主義の論理とは異なっており、その間には対決する内容もあったと理解している。臣民としての義務に反しない限り、信教の自由はあったと考えるほうが、事実に合っているのではないだすうか。内村鑑三は、確かに不敬事件で一高を追われたが、その後もキリスト教徒としての活動を熱心に行い、そのことを妨害されたわけではない。内村と特殊の状況2 天皇との距離という問題は、少なくとも実際の権力の強さが、それで決まったわけではなく、あくまで権力層を構成する人々の心理という意味では、そうだったのだろう。しかし、そういう意味であれば、別に戦前の天皇制だけの特質ではない。徳川幕府における将軍との距離も、似たような状況だったし、それは権力者にまつわる、ある程度普遍的な現象ではないだろうか。そして、実際の権力という意味では、天皇との距離によって権力が決まるということでは説明できない事実は、多数あったといえる。丸山自身があげている満州某重大事件における、実行者の処分においては、天皇に近い田中首相より、遠い軍隊の、それも必ずしも中心的ではない部分のほうが実質を決めたわけである。この場合、天皇も、また、天皇の側近も無力だったわけだ。を設定されてしまったといえるが、東大の教授にキリスト教徒は、何人もいたのである。また、この論文は、「超国家主義」についての分析であるが、明治以降の国家機構に内在するものとしている以上、明治から既に、超国家主義だったということになるが、天皇大権の中核である「統帥権」のあり方は、やはり、かなりの変化があったと考えられる。(戦後直後以降の丸山の天皇論については、まとまった論文はなく、いろいろな文、特に座談会などで断片的に語っているので、時間をおいて書きたい。)