教育学を考える16 試験を誰が作るか 市販テストを考える

 私が小学生の頃、試験問題は担任の教師が自分で作成した。内容も自分で考え、印刷も行っていた。当時は、ガリ版刷りであったので、非常に大変だったはずである。もちろん、教師用の指導書なども参考にしたのだろうが、とにかく、自分で行った授業を、子どもたちがどれだけ理解したのかをチェックするためには、やはり、授業を前提にした試験問題であることが、最も的確な評価が可能である。だから、中学以上は、今でも担当教師が試験問題を作成していることが多いのではないだろうか。小学校は、全教科を実施するとすれば、非常に負担が大きいから、市販テストが登場すると、急速に自作の試験をせずに、市販テストに変えていく流れになり、今では、小学校の教師が試験問題を自分で作成することは、ほとんどない状況になっている。
 実は、日教組は、1970年代初頭に、市販テスト反対運動をしている。また、教育科学研究会の機関誌である『教育』は、72年に市販テストの特集を組んでいる。何故、日教組は反対し、『教育』も批判的論文を並べたのか。それは以下のような認識があったからである。
 戦後直後、参考にすべき試案として公表された学習指導要領を、文部省はその後法的拘束力をもつものだというように位置づけを変え、教科書検定を学習指導要領に適合しているかをチェックする場とし、更に、指導要領がどれだけ理解されているか、あるいは教室で、指導要領の内容が教えられているかを確実にするために、全国学力テストを実施した。しかし、不正が目立ち、過度な競争が行われて批判が強まったので、中止に追い込まれた。そこで、文部省は、全国学力テストに代わるものとして、日常的なテストを「企画された」市販テストに変えさせ、市販テストが学習指導要領に準拠しているように指導することで、目的を達しようとしたのだ。
 このような理由で、反対し、逆に、教育内容を自主編成していこうという運動を展開した。
 しかし、こうした政治認識を前面にだした運動では、現場を動かすことはできなくなっていた。というのは、小学校教師にとって、試験問題を作成することは、やはり、相当な負担であり、市販テストで代替できるなら、多くの教師が歓迎したからである。そうして、市販テストは、急速に普及し、現在では、ほぼ全公立小学校で実施されているといえる。
 だが、そのことで失われたものは、非常に大きい。教育という行為は、普段に「評価」とそれに基づく次の「選択」を繰り返していくものだ。今教えたことが、理解されていると評価できれば、次に進むだろうし、まだ理解が不十分だと評価すれば、更に説明したり、練習を増やしたり、理解度に応じて臨機応変に対応するだろう。そういうサイクルを正確に行うことが、教師には求められる。そして、当たり前のことだが、理解度、習熟度を評価する能力や、臨機応変な対応をする能力は、実践のなかで鍛えられるものである。授業のなかでの反応を見るような評価であれば、日々の実践のなかで、誰でも鍛えることが可能だが、豆テストを含めて、まとまった理解度の調査をするには、やはりテストが必要だろう。そのテストを、他人が作ったものを利用していれば、テストを使って評価する能力の向上が、妨げられてしまうことは明らかだろう。
 それから、もうひとつの弊害がある。必要なテストは、実際に行った授業の理解度を測るために行うものだ。しかし、市販テストの内容が、各教師が行った授業に正確に対応する保障はどこにもない。むしろ、ずれることのほうが多いだろう。そのずれを小さくするためには、市販テストに合わせた授業をすることになる。少なくない教師がそうしているに違いない。しかし、それは本末転倒というべきだろう。
 更に、市販テストの問題として、その費用を保護者が負担している点がある。市販テストは、ほとんど成績をつけることを目的に実施している。とすると、成績をつけるための手段を、保護者が費用負担するのは、いかにも奇妙に思われるのだが、保護者から疑問の声はないのだろうか。
 日教組や教科研は、政治的意図ではなく、教育学的な理由で、市販テストの採用を批判すべきであったと思う。また、今からでも、全面的にやめることは難しいとしても、市販テストの回数を減らし、学期に一度程度は、主要教科のテストを作成するようにできないものか。それによる教育効果は非常に大きいと思うのだが。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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