東大を辞職した後、矢内原は、主にキリスト教の伝道を行っていた。それまでの『通信』という個人雑誌を『嘉信』と改め、日曜集会、土曜学校講義、そして各地での講演を掲載していった。これには当局の妨害もかなり入ったようだが、最後まで発行し続けた。また協力者が、紙を提供してくれるなどのこともあって、戦争が終わるまでだし続けた自体驚異的なことである。更に、岩波書店から3冊の新書を出すなどの出版もあったが、いずれもキリスト教的な観点の書物であった。研究をやめたわけではなく、大東亜問題に関する研究を、何人かの専門家と行っていたというが、空襲ですべての資料が燃えてしまったので、その成果は結ぶことがなかった。
戦争に負け、矢内原が予言したように、日本は国家的に滅び、新しく踏み出すことになったが、矢内原は、いち早く、日本人の啓蒙活動に乗り出す。前に紹介した木曽福島での10月の講演「日本精神の反省」から始まって、日本中を回っての講演活動である。そうするなか、東大へ復帰することになり、多忙になるが、焦土となった日本の再生のために、なすべきことを示していったわけである。
そのなかで、当然天皇制について、多く語っている。
マッカーサーの来日から、翌年の5月3日に極東軍事法廷が開廷され、天皇の戦争責任が占領軍によって取り上げられることがないと、正式に決まるまで、天皇制は、大きな危機にあったといえるし、また、天皇制解体という議論も行われた。そのなかで、矢内原の天皇制への議論の仕方は、極めて異例だったといえる。それは、戦前主張していたことを、より分かりやすく、砕いて示したのだが、内容は基本的にまったく変化がなかったという点である。骨の髄までの、戦前の現人神としての天皇を主張していた人たちは、裁かれたり、口をつぐんだりした。あるいは、蓑田胸喜のように自殺した者もいた。
しかし、新憲法による象徴天皇制が規定されるまでは、矢内原のように明確な象徴天皇制に近い考えを示した者は、あまりいなかったのではないだろうか。政府の新憲法案であった松本私案は、大日本帝国憲法のほぼ焼き直しであったのだから、天皇主権にたった論陣を張った者も少なくなかったわけである。そのようななかで、敗戦直後から、現憲法の趣旨に近い天皇観を提示した矢内原は、やはり異色だったし、戦前の主張そのままであったことも特筆すべきだろう。
9月27日に、昭和天皇はマッカーサーを訪問する。そして、当初、そのことは記事として出すことが、日本政府によって禁止されたが、占領軍当局によって解禁され、マッカーサーと並んだ昭和天皇の姿を国民が見ることになった。もちろん、当時私は生まれてもいなかったので、よくわからないが、国民の多くは、かなりのショックを受けただろう。正装している天皇とラフな服装のマッカーサーが並び、しかも、背の高さがまったく違う。多くの国民は、天皇がどうなるのだろうかと思ったに違いない。
10月4日、政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限除去が命令され、11月20日には、ドイツでニュルンベルク軍事法廷が開廷している。日本における民主化と、第二次世界大戦に対する戦争犯罪を裁く法廷が開始され、やがて日本でも同様のことが起きると予測される時期であった。
そういう中、12月12日に、山形県で「日本の運命と使命」と題して、矢内原は講演を行った。そのなかで、戦前の天皇制に関して、ふたつの間違いがあったとする。(全集19)
「第一には日本の国体であります。今日新聞やラジオ等によって「天皇制」といふ事が色々論議批評せられて居ります。併し皆さんも御承知のやうに、制度としての天皇といふことを我々はこれまでに多く考へもしなかったし言葉にもしなかった。即ち天皇を制度として見るか、国民の生活として考へるか、ここに大きな見方の違ひがあるのであります。外国人は天皇制として、制度の問題として見ます。併し我々にとっては天皇は制度上の存在ではなくして、国民生活の中心として、国民生活上の存在である。丁度家庭に於て親といふものを制度であると考へるか、生活であると考へるか、そこに考へ方の大きな相違がある如くであります。過去に於て天皇の地位を強める為め色々極端な右翼的論議が為されました。これは有りのままの天皇の地位を却って隠蔽したのでありまして、今日のやうな反動を招いた原因はそこにあるのであります。」(P125)
前回述べたように、矢内原は、戦前の論文で、天皇の神性を否定し、人性を認めたわけだが、それがここではよりやさしく述べられている。「制度ではなく、生活の中心だ」という説明、特に天皇を親に置き換えた説明は、非常に分かりやすい。国家制度として政治を動かす存在ではなく、人間として、人々の意識や生活・活動の中心にいる存在。つまり、間もなく成立する象徴天皇制とほぼ同じである。
「 第二には偶像崇拝である。満州事変の少し前から、日本に於ては軍国主義者の指導のもとに国粋主義的な国体論が非常に勃興致しました。・・
其の国体論の中心は、率直に申せば、天皇陛下は神であるといふ一言に帰するのであります。・・事苟も天皇を神とするといふ思想に聊かでも抵触する言論であるならば、その片言隻句をも捕らへて不敬罪として処罰したのであります。・・天皇を宗教的信仰の対象たる意味に於て人間ではない、神であるといふ思想は、それ自体間違った神観であるのみならず、日本の歴史に現はれたる国民的意識から見ましても行き過ぎである。」(p142)
生活の中心としての天皇としても、宗教的な崇拝の対象をしたことを否定している。天皇を神であるという思想は、間違っているというのが、一貫した矢内原の主張だった。キリスト教徒としては、ごく当たり前のことだが、それを戦前主張することは、命懸けだったわけであり、また、この講演を行った時期は、天皇の「人間宣言」は行われていない時期であったから、勇気のある発言だったといえる。そして、10日後の12月23日には、東京で「日本の傷を医す者」と題する講演を行い、そこで、大胆にも、「私は訴へます。私は天皇に訴へます。陛下よどうぞ聖書をお学び下さい。基督教の聖書の真理を学んで下さい。之は陛下の御悲しみと御苦しみとを医す薬であります。力でございます。」といって、天皇に聖書を学ぶことを強く進める発言をしているのである。(p157) もちろん、キリスト教徒になることを勧めたわけではなく、あくまで「聖書を学ぶ」ことの大切さを説いたに過ぎない。少なくとも戦後においては、キリスト教と天皇家は、かなり近い関係にあった。1948年から65年まで宮内庁侍従長を務めた三谷隆信は、内村鑑三の弟子で無教会派のキリスト教徒だったし、更に矢内原とは、一高・東大を通じての親しい友人であった。
年が明けて1946年の1月1日に、有名な天皇の「人間宣言」と言われる声明が出た。ここで、矢内原は、おそらくかなり満足感があったのではないだろうか。ずっと主張してきたことだったから。
2月11日、「国家興亡の岐路」と題する講演を大阪で行う。ここでは、何故戦争に負けたのか、国民はどうすればいいのかを論じている。まず天皇制について以下のように述べる。
「デモクラシーに思想と制度の両面があるやうに、天皇制といふ問題も色々な角度から考へなければならないのです。アメリカ人などが申してをる意味を観察して見ますと、専制政治の体系としての天皇制が考へられているやうであります。軍閥、官僚、財閥等特権階級による専制政治の体系の絶頂に天皇がをる。天皇制は即ち専制政治であると考へられてある。」(p169)
天皇制が軍国主義の専制政治となってしまったのは、軍国主義者が統帥権を利用して、思うように政治を動かしたからである。吉野作造や美濃部達吉などが争ったが、反動勢力に圧倒されてしまったのだ。更に、信仰としての天皇の問題があった。天皇は神であるとして、もし天皇は人間だなどといったら、不敬罪になった。こうしたことは、本来の宗教からの逸脱だった。
ここまで戦前を批判するが、では、万世一系の天皇というのは、日本の復興の妨げとなるのかと問題を投げかけ、神話は歴史ではないが、古代の当時の理想の表明だったのだ、それは、聖書の創世記と同じ性質をもっている。だから、民族の理想としては、決して妨げにならないと、矢内原は主張する。
そして、次に、何故日本は戦争に負けたのかと考察して、3つの理由をあげる。戦前の日本は、
1 個人の責任観念が希薄であった
2 国民の道義心が低級であった
3 科学が発達していなかった
から、戦争に負けたのだと矢内原は考える。そして、徹底的に日本の国際的評価が下がってしまった現実をしっかりと認識して、日本人の自覚をもって勤め励むことが必要であると、聴衆を励まして講演を終えている。
このように見ていくと、矢内原は、「期待される人間像」の支持者、あるいは、天皇中心主義者と思われるかも知れないが、それは矢内原の天皇認識とはまったく違う。矢内原はあくまでもキリスト教徒であり、天皇を人間として尊敬するが、宗教的存在としては、まったく認めない。「天皇を愛することは日本を愛することである」という、天皇と国家を一体とみる考えこそ、戦前から徹底的に批判してきた考えなのである。
事実として2000年もの間継続している王室は、世界にないわけだから、そのように続いてきた天皇という存在を、国民の敬愛の中心として位置づける、それが平和国家として有効であると認識していたのだと、私は考える。