矢内原忠雄と丸山真男7 天皇制について(矢内原1)

 現在は、戦後東京裁判で天皇の訴追がなされないことが決定するまでとは、その意味は違うが、天皇制の危機である点では、同じくらいだといえる。敗戦直後は、天皇の戦争責任が問われ、天皇という制度が消滅するかも知れなかったといえるが、もし、占領軍がそのように決めたら、本当に国民は、占領軍に抵抗しただろうか。一旦敗戦という解放感に浸った国民が、占領軍という絶対的な権力が行ったことに、どれだけ抵抗したかは、私にはわからないが、おそらく、大きな抵抗はなかったに違いない。しかし、占領軍は、天皇というシステムをより合理的に利用する道を選択したわけである。そして、天皇は神から人間に、そして、主権者から、主権者たる国民の総意に基づく象徴になった。そして、その後は、紆余曲折はあったが、象徴天皇制が危うくなったことは、二度あった。
 二度目は、今上天皇が皇太子のとき、皇太子妃に対する「人格否定発言があった」という記者会見で述べた時期を前後して、皇太子に対して、保守派からの攻撃がおこったときである。皇室離脱の勧告すらあった。しかし、これは、保守層からの見解であり、そもそも保守層は皇室擁護が基本だから、単なる論壇の出来事であったと見ることもできる。
 現在は、第三の危機といえる。真子内親王の結婚問題に端を発して、秋篠宮家に対する批判が、市民レベルで少なからず起こっている。おそらく、支配層にまったく関係ない人々から、天皇継承権をもつ宮家に対して、皇室離脱要求も含んだ批判が巻き起こるなどということは、歴史上全くなかったことである。支配層内部における皇位をめぐる争いは、日本史上いくらでもあったが、そこに一般庶民がもの申す事態は初めてであり、更に、皇室予算にまで大きな関心が寄せられ、無駄遣いを指摘する意見が多数公表されることも、これまでなかったのではないだろうか。こうした事態を前にして、天皇というシステムについて考えざるをえないと感じている。
 
 天皇のあり方について考えることが、必要な時代になってきたのだ考えると、矢内原忠雄と丸山真男が天皇制とどう向きあったのかを検討することは、有意義なことだろう。両者ともに、天皇という存在に関して、戦前、戦中、戦後に真剣に向きあったからである。
 今回は矢内原の天皇認識を取り上げる。
 矢内原の天皇認識は、戦前も戦後も大きな相違はない。乱暴な言い方をすれば、戦前から、矢内原は「象徴天皇制」の信奉者であった。だから、軍部や右翼から見れば、危険思想家であって、私は、矢内原が治安維持法違反に問われなかったのが不思議だと思う。以前にも書いたが、立花隆は、矢内原事件で槍玉にあがった論文は、3つあるが、表面上は、「国家の理想」と「神の国」で、特に、「一旦この国を滅ぼしてください」という「神の国」の結びの部分を「弁護できない」として、東大の長与総長は、矢内原の辞職やむなしとしたというが、実際に、最も危険な論文は、もうひとつの「日本精神の懐古的と前進的」という『理想』に執筆した論文であり、これが前面に出ることを防ぐために、「神の国」を前面にだして、矢内原を守ったのだという解釈をしている。そして、この論文は、『理想』という地味な雑誌に掲載され、かなり難解な論文なので、簡単に読むことが難しく、右翼からの攻撃も大きくはなかったので、「偽りの理由」で矢内原を、安全圏に避難させたということだろう。(立花隆『天皇と東大』4参照)
 この「日本精神の懐古的と前進的」という論文を、じっくり読んでみて、私も立花の解釈に納得できる。はっきり言えば、この論文は、当時の「国体」概念の否定であり、その意味で治安維持法違反を問われても仕方ない内容をもっている。(全集19に収録されている。戦前は『民族と平和』岩波書店に収録されていたが、矢内原辞職の後、発禁処分になっている。)
 具体的にみてみよう。
 1931年に柳条湖事件によって始まり、満州事変、日本の国際連盟脱退へと続く、日本の軍国主義化と国際的孤立が顕著になっていく時期に、矢内原がそうした政治動向を批判するために書いたのが、「日本精神の懐古的と前進的」である。32年、東大理学部の谷津教授がヨーロッパ視察で、民族主義の勃興を感じ、その必要性を主張したことをきっかけに、筆をとったとまず記されている。大戦後、民族主義が盛んになったのは、帝国が崩壊することによって、民族独立が進行したこと、そして、帝国主義国の間でも敵対国に対して、民族主義が高揚したというふたつの理由がある。そして、民族主義には、難関を打破するための前進的自覚という側面と、国際的に孤立したことによる懐古孤立反動思想という側面があり、日本で進行している民族主義は後者であると断定している。そして、そこには3つの特徴がある。
 1 世界的精神世界的制度たる左翼運動に対する保守的社会の防衛として
 2 世界精神の子たる資本主義の重圧に対する前資本主義的諸階級の防衛として
 3 満州事変に関連する国際的圧力に対する我国家の防衛として
実際的基礎をもつという。そして、民族主義と国家主義を主張する4つの論文の検討を通して、当時進行していた民族主義を批判する。吉田熊次『国民理想の確立』・田中義能『日本文化の特色』・紀平正美『国体の真意義』・安岡正篤『日本の国体』の4論文である。
 吉田熊次の論は、日本の問題を修身教育の欠陥に見いだし、「教育勅語を今日まで奉戴だけして居って夫れを理論的に理解することには何等の努力をも傾けなかった嫌ひがある。」という認識から、主権の永久の持続、皇室による統治の主張と整理される。
 この説に対して、矢内原は「我国民一般誰か天皇を尊崇しない者があらうか」と切り返す。そして、日本人の天皇に対して宗教的性質の尊敬を抱いているが、国家の道義・道徳性と天皇への神性という宗教性の徹底が必要であるという、一般的な必要性を拡張することを、矢内原は主張しつつ、実はそれが限界をもつことを示す。田中説に関しては、特に説明がない。
 紀平は、我が国民の特徴は、秩序統一を愛すること・主権の永久普遍の法則にたつこと・国家の中心が堅実であることであるとし、日本ではその中心が天皇であり、天皇が純粋な善である。至善たる天皇は我が国家であるという。紀平にとって、一番大切なものは国家である。
 これを受けて、矢内原は、紀平の国家に源泉があるものとして、財産、名誉、権力、生命があるとする説を検討し、財産、名誉、生命は国家によって初めて生じるものではないし、また国家がそれを保護することもあるが、侵害することもあるとして、紀平説が間違いであるとする。そして、国家主義は、理想の国家と現実の国家を混同し、国家の利益を道義とするが、浅薄な見方に過ぎないと断定し、安岡説をより深いとする。
 安岡は、人間は至尊をもつ必要があり、国家も同様である。その至尊は天皇であるということから、4つの定式化をする。
1 宇宙に道義がある
2 天皇は国家において道義を表現する衣体である
3 天皇は宇宙の道義即ち至尊に従わなければならぬ
4 天皇は至尊そものものである。
 矢内原はこの4つには矛盾があるというのである。1と2でみると、天皇は、宇宙の道義の国家的領域のみを表現しており、全宇宙を表現しているわけではないことになる。宇宙の公義を表現するものではない。3と4は、天皇は、至尊そのものなのに、宇宙の道義に従わねばならないというのは、矛盾するではないかという。つまり、理想と現実、神性と人性との関係が不明確であるとして、特に後者について検討を進めていく。
 矢内原によれば、天皇を現人神とするには、ふたつの考慮が必要である。
 1 妥当する範囲が国家であること
 2 妥当する本質は、国家の中心たる位体においてであり、現実の天皇の生活及び人格ではない。
 なぜなら、国家は宇宙の道義の一方面であって、国家以上に、国家自らが守るべき宇宙的道義があることを認識すべきであり、国民はこの宇宙的道義を体得することによって、現実の国家をば理想国家たらしむるために努力すべきであるからである。
 つまり、現実の天皇は国家的位体において神性であり、人格的に神性であるわけではないことになる。矢内原は、国家を認め、天皇への敬意を示しながら、結論的に、天皇の人格的神性を完全に否定したのである。つまり現人神ではない。
 そして、結論として次のように述べる。
 「此の期に当たりて世界と絶縁し世界を超脱する民族主義は、懐古的反動的であって、到底現在の難局を転回する実力をもち得ない。・・進歩的なるは世界精神世界正義世界神への発展に存する。・・世界的なる制度若しくは道徳若しくは宗教へと進展することによって国民の生活及び思想を向上飛躍せしめ、又国民的生活及び思想の特殊性の最善をば発揮することによって世界的生活及び世界的道義宗教を体現することが、真の国民精神でなければならない。」
 つまり、満州事変を起こして、国際的に非難され、孤立の方向に向かって進む日本の政府やそれを支持するかに見える国民を、それは懐古的反動的な民族主義であって、そうではなく、前進的な民族主義でなければならないと主張したのである。
 世界情勢と日本の政治、思想状況を批判しつつ、天皇の神性を否定することを、これほど明確に示した論文を書いた人が、他にいるかどうか、私は知らないが、1925年に治安維持法は制定されていたから、国体を批判すると解釈されるこの論文を書くことは、矢内原にとって、相当の覚悟があったに違いない。矢内原は、以前から日本政府の植民政策に対して、痛烈な批判をしてきたが、満州事変を境として、それを徹底し、キリスト者として「預言者」として行動する決意をしたと言われている。

 矢内原は、天皇に関わる批判的論文を、戦前もう一度書いている。1937年4月号の『思想』に書いた「民族と伝統」である。(全集19巻)ここでは、長い民族と皇室のあり方について触れて、最後に「国体明徴」について批判している。天皇の主権者たることと、臣民翼賛の道を、実際に行われている「国体明徴」は狭めているが、それは「不明徴」であり、日本の国体ではなくなっている。必要なことは、帝国議会の権限を拡大し、機能を発揮させむることこそ、必要であると主張している。もちろん、現在の帝国議会の組織制度が最善の道ではないのだが、と断っている。そして、この年の12月に、矢内原事件が起り、東大を追われることになる。天皇機関説事件が起こって、学者たちは、ほとんど政府や軍部の批判の口を閉ざしていた時代だった。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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