矢内原忠雄と丸山真男12 講和問題

 日本が占領統治されていた時期の最大の政治課題は、いうまでもなく「独立」であり、それは講和条約の締結であった。しかし、ポツダム宣言を受け入れ、占領が始まった時点から、次第に国際情勢が変化し、戦争中は連合国として協力しあっていたアメリカとソ連は対立関係となり、東アジアは共産主義革命の進行が顕著になっていた。そのために、日本との講和条約は、単純に連合国全般と締結することが難しくなっていた。政治家はもちろん、多くの知識人も、この講和問題をどう考えるか、立場の選択を迫られていたといえるだろう。矢内原忠雄も丸山真男も、それぞれの立場を明確に出している。しかし、それはかなり異なるものだった。二人とも、講和問題を議論する知識人たちの集まりであった「平和問題談話会」の中心的存在の一人であったが、実は、その中心的声明の原稿を書いたのは、丸山であり、実は、矢内原は、多少その談話会の傾向とは異なる言論活動をしていた。

 矢内原は、1949年12月24日に、東大聖書研究会と今井館聖書集会のクリスマス講演で、「講和問題と平和問題」と題する講演を行っている。(全集19巻)キリスト教徒たちを前にしたクリスマスの記念講演という性格からなのか、最終的には、「祈るしかない」という結論になっており、現代の日本人が読んでも肩すかしとしか感じられないかも知れない。しかし、そこに至る現状分析は、やはり、非常に正確、かつ、信念で歪む認識という側面を微塵も感じない冷徹なものである。
 まず、何故このような題で、繰り返し話をするのかを説明する。
 「如何なる場合に於いても平和を愛し、平和の為めには一歩も譲らないといふ、たじろがない性質の平和を、日本の人々の心の中に深く植えつけて、己が生涯の凡てを賭してこのものを守り通す、さういふ人を我々の国民の心の中に、五人でも十人でも、五十人でも百人でも確実にもちたいからであります。」(448)
 この講演が収められた著作のまえがきに、戦争が終わったとき、これからは平和のために活動するのだ、という決意をしたことが書かれているが、「平和」は矢内原の生涯の絶対的な価値であったし、そのためには、どんな犠牲も厭わなかったといえる。
 しかし、平和といっても、実際には厳しい国際関係のなかにある。そして、そのとき「講和問題」に日本は直面しつつあった。日本のとりうる道は、理論的には、全面講和、単独講和、占領継続という三つあるとして、それぞれ検討する。
 占領継続がよいとする見解は、「日本はまだ自立でやっていくことができず、もう少し民主主義を進めてからがよい」「アメリカの援助が継続されるし、アメリカが引き上げたら治安を保つことができない」とする積極的肯定の立場と、「占領が長引けば、アメリカへの反感がたかまって、国際戦略的に好ましい」という共産革命の立場があるとする。
 単独講和の支持理由は、「占領が成功し、自立できる」とする日米の見解と「これ以上の援助は、アメリカにとって負担が大きい」というアメリカ的立場がある。そして、全面講和は理想論に過ぎないという現実主義がある。
 それに対して、全面講和の立場は、世界がふたつの陣営にわかれており、その一方との単独講和は、一方のみに属することになってしまう、だから、対戦国の全部と講和しなければならないという立場である。
 当時、政府は当然、アメリカとの協力を第一とする単独講和に向けて動いていた。そして、矢内原も丸山も、平和問題懇話会に属して、全面講和の立場にたっていた。そして、全面講和というのは、単に、すべての対戦国と同時に講和をするという意味だけではなく、講和条約を結べば、占領軍は引き上げるという前提を含んでいた。従って、その後の防衛や安全の問題が、次に検討されねばならなかった。
 矢内原は、安全保障の問題について、いくつかの方法をあげている。
 まずスイス的な武力中立の立場。矢内原はこれに反対する。理由は憲法に違反するからである。
 次に講和条約を結ぶ際に、個別の国家と軍事条約を結んで、安全を確保する。その拡大として、集団保障の方法もある。例えば、大西洋条約機構である。また国際連合に加盟する方法もある。
 しかし、いずれの方法に対しても、矢内原は結論を出していない。しかし、対日理事会の場で、ソ連抑留者の話がでたときに、ソ連代表団は総退場し、米ソが激しくやり合ったニュースに、矢内原は「暗然として涙を飲んだ」と書いている。実質的に、全面講和は不可能だと感じていたのだろう。そして、次のような結論を述べる。
 「我々はまないたの上に載せられた鯉のようなものであります。日本から、こういふ講和を結んでください、といふことを言い得る立場ではないのであります。心に願うことはありましても、それは申しません。連合国が互いに講和するように、ということであります。」(463)
 日本の立場は「バビロン捕囚」に似ていると、矢内原はいう。キリスト教徒の集会であるから、その次には、泣くこと、神に祈ることが、と述べ、講演を終わっている。
 
 丸山真男はどうだったろうか。
 丸山の書いた「三たび平和について」(1950.12『世界』に発表。著作集5巻)は、平和問題談話会としての文章であり、丸山が4章分の1,2章を書いている。討議のまとめだから、丸山の考えと完全に一致しているかどうかは、丸山にしかわからないだろう。平和問題談話会は、全面講和をめざすことを表明しているから、当然、全面講和が何故正しいのかを説明している。文章には、小見出しが付けられ、その見出しだけで内容が鮮明にわかるように書かれている。そして、その理論構成は簡単明瞭である。
 
 戦争は、本来手段であるが、もはや手段としての意味を失い、原子力戦争という現実を前にすれば、逆説的に理想主義にならざるをえない。その点で、憲法の交戦権の放棄は、現代戦争の現実認識に最も則したものだ。平和のためには、思考方法が重要であり、国際関係が急迫すると、一部の力によって現実の危機を濃化していく。米ソの対立という思考から、平和をより危殆ならしめる現実的効果しか生まれないのであり、問題提出の仕方を変えることが必要なのだ。
 イデオロギーの対立は直ちに戦争を意味するわけではなく、世界の有力国が米ソと同じ幅と深さで対立しているわけでもない。ソ連の市民的自由の伸張とアメリカの計画化という両体制の接近も見られることから、イデオロギー対立を固定的に理解するのは間違いである。
 中立は孤立ではなく、一切の国際紛争に日本から進んで介入することはないのだ。幻想はもたないが、他にどのような道があるのか。
 
 以上がごく簡単にまとめた丸山の趣旨である。全体として、全面講和、中立、非武装という主張こそが、理想であり、かつ現実的であると主張している。社会党の「非武装中立論」がここから出ていることも、容易に想像できる。
 日本は、まな板の上の鯉だ、といって、我々が決めることはできないのだ、という述べた矢内原と、全面講和、非武装中立こそが平和をもたらすと明確に主張した丸山と、どちらが正しかったのだろうか。またどちらが、的確な現状認識と勇気ある提言をしていたのだろうか。丸山は、立場を鮮明にし、明確な論理で立場を表明したきに対して、矢内原は、結局日本が決められる立場にはないという現実を受け入れるとしても、平和の闘いは、また別の次元で行わねばならないし、また、すべきことがあるという考えだったのだろう。丸山が、本当に当時の日本で、世論が盛り上がれば、全面講和が可能だったと考えていたのだろうか。丸山ほどの明晰な頭脳をもった「政治学者」が、本気で可能性を確信していたと考えるのは、かなり難しい。ということは、心にもない「空理空論」を主張したのだろうか。あるいは、言うべきことを言うのが、知識人の役割で、結果は政治の責任だと考えていたのだろうか。しかし、後年、大学紛争で、全共闘を「心情倫理」と「責任倫理」というウェーバーの論で批判し、結果に責任を追わないことを非難した。また「戦争責任の盲点」では、共産党が、ファシズムに負けた責任を追求している。とすれば、丸山は、「戦争責任論の盲点」を書いたとき、全面講和論が負けた責任を負う必要があると認識していたのだろうか。
 今後究明しなければならない課題が、また増えた。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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