読書ノート『能力と発達と学習』を読む2

 今回は第一章「人間の能力をどうとらえるか」を扱う。
 最初に「知能」を問題にしている。知能とは何か、生まれつきの遺伝的なものか、固定的なものなのか、各知能の関係は何か、測ることは可能なのか、等々様々な検討がなされているが、現在の我々には、あまり切実さを感じさせないテーマである。しかし、1963年当時は、まだ、「知能」は極めてホットで、実際生活にも影響を与えていた重大な問題だったことは知っておくべきだろう。
 一番極端な例はイギリスで、1944年法で、前期中等教育まで義務化されたが、小学校後は3つのコースに区分されていた。しかも、年数も教育内容も異なっていた。それを、イレブンプラステストという試験で振り分けたが、そのテストの重要な柱が知能テストだったのである。つまり、知能テストで、進学する学校の種類を決められる、人生に大きな影響を、知能テストが与えていた。当然、大きな批判が沸き起こり、イギリスを中心とした大論争が起きた。また、DNAが発見されたこともあり、遺伝学が盛んになったことも、教育に影響を与えた。知能や能力は遺伝的に決まっているとか、あるいは人種的に知能の水準は異なっているとか、様々な「学説」が横行していた時期でもあった。かつては日本でも、就学前検診で知能テストが行われ、一定水準以下だと、ほぼ強制的に養護学校にいれられるというような時代もあった。こうした論争を経て、現在の学問では、かなりの部分で学説の一致をえている。既に知能テストを大規模に行うようなこともなくなっている。だから切実感はなくなったのだが、形を変えて、同様の問題は残っていると考えるべきだろう。

 第一章では、まず、何故知能を測るのかを問題にする。第一は、教育的動機。学習成果があがらない原因を探るためである。知能テストの創始者であるビネーは、このために新しいテスト方法を考えた。客観的な裏付けのあるテストなら、確かに教育や指導に役立つだろうと勝田は書いている。
 第二は、選別の道具として。知能テストが広く活用されるようになったのは、アメリカが第一次世界大戦に参戦するとき、急にたくさんの兵士が必要になって募集したが、その役割を決めるために、知能テストを使ったところ、効果的だったことが知られるようになったからだと言われている。つまり、知能テストの普及は、この選別の道具としての有効性だった。日本の就学前検診での使い方もその一例だった。
 ところで、日本では、知能テストの使用は、かなり限定的だった。イギリスのように、進学先を決めるのに知能テストを使うことはなかったが、そのかわり「学力テスト」が使われた。知能テストには、「先天的」というイメージがつきまとったが、学力は、努力の結果が含まれる。従って、イギリスのように、「学力テストで振り分けること」への批判は、ほとんどみられなかった。しかし、本当に学力テストで高校を振り分けるのが、適切であるのか、もっと議論されてもいいのではないだろうか。
 続いて「知能の高低はうまれつきか」という、古典的な遺伝と環境の問題が検討されている。
 生まれつきかどうかを測ることは、実際には極めて困難である。将来、遺伝子の研究で明らかになる可能性はあるかも知れないが、現時点でも、生まれつきの知能の高低を測ることは難しいだろう。ただ、心理学者は、一卵性双生児の研究をすることで、この問題に切り込もうとした。日本では、一卵性双生児を優先的に入学させる東大付属中学・高校もある。余談になるが、この東大付属が設置されたのは、もちろん、この遺伝と環境の研究のためであるが、当時矢内原忠雄が東大の総長で、計画責任者の海後宗臣が矢内原の了承をえるためにいったところ、人間を実験材料にするような学校を認めるわけにはいかない、と当初はかなり強く反対されたらしい。海後は、科学的な研究のためだと、説得して、やっと了承されたと、書いている。勝田は当然、付属のことはよく知っていたはずである。
 しかし、誰にもわかるように、一卵性双生児は、遺伝構造が同じであるとしても、環境もそっくりだから、似たような人間になったとしても、遺伝のためとは結論づけることはできない。逆に「白紙説」のように、ほとんど環境で決まるという考えも、少なからず存在した。
 この点については、現代では、遺伝を柱とする先天的な要素を土台に、環境の作用を受けて能力は発達していくという理解が、ほぼ定着しているといえるだろう。広い意味での環境が、能力の発達を促していくことは、経験的にもわかることで、いくつかの具体例が検討されているが、それは省略する。
 こうした「知能」の検討を経て、「能力」の定義に進む。ここで、勝田が文章で書いている能力の項目と、図で示された部分とで、若干異なる点があるが、ここでは、図の方を示しておこう。認識能力が表現・労働・社会的能力の土台となっていることを確認すればよいだろう。
 
 また、子どもはやがて社会にでて職業をもたねばならないことから、職業と関係して能力構想をたてている。
 勝田が『教育』にこの著作のための連載をしていた時期には、経済審議会が「人的能力政策」に関する審議をしており、「経済発展における人的能力開発の課題と対策」という大部の答申を出している。この答申を、このブログを書くために、久しぶりにざっと読み直してみたのだが、このあとの日本の経済政策や教育政策に、実際に大きな影響を与えたのだということが、よくわかった。そして、かなり詳細に検討をしており、決して、財界の要求をそのまま反映させたものではなく、労働者に対する弊害なども検討されている。しかし、その基本が、ハイタレントとそれ以外をわけ、ハイタレントのための高校や大学教育を整備することと、その他の人たちのための教育を別のものとして構想していたことは間違いない。それは、文部省の多様化政策にも大きな影響を与えたわけである。
 勝田は、この人的能力政策を批判することを意図して、この章を書いていると理解する必要がある。「認識の能力」に「科学的能力」、しかも、自然科学のみならず、社会科学も含めた能力を、発達の全体の中の土台として位置づけていることは、明らかに、ハイタレントとその他を分けて考える人的能力政策に異議を唱えているのである。ただ、勝田も特別な多彩で広範囲な高い能力をもっている人がいることを指摘しているが、ルネサンス的万能人も、社会の規定を受けて生まれたというところで、それ以上には踏み込んでいない。ここは、可能なら、そういう資質をもっていて、意欲もあるならば、積極的に育てるのがよいのか、勝田に聞いてみたいところだ。
  

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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