矢内原忠雄も丸山真男も、系譜的には内村鑑三とつながっている。矢内原は、主に新渡戸稲造と内村鑑三という二人を「教師」としている。新渡戸には植民政策を教わり、その講座の後任となった。内村は信仰の師である。丸山のふたりの教師は、長谷川如是閑と南原繁であるが、南原の二人の師が、小野塚喜平次と内村鑑三であった。つまり、南原と矢内原は内村の信仰の弟子であったが、東大の聖書研究会は主に矢内原が指導しており、南原はあまり関わらなかったようだ。南原と矢内原のつながりは、連続して東大総長になって、東大改革に尽力したことのほうが強いのかも知れない。こうした系譜のなかで、内村鑑三は、矢内原とも丸山ともつながっているという点で、とりあげる価値があると思われる。矢内原は、直接の弟子であり、人生のあらゆる時点内村について語っているから、文献は膨大であるが、丸山も内村について、頻繁に触れている。しかし、当然のことながら、二人の継承する中身はかなり異なっている。
丸山は内村鑑三について、度々コメントしているし、文章の題名に記したものも2つある。「内村鑑三と非戦の論理」(著作集5)と「福沢・岡倉・内村--西欧化と知識人」(著作集7)である。また、「忠誠と反逆」(著作集8)でも、内村が何度か考察されている。ただ、丸山の関心は、ほぼ「軍国主義」に抵抗したという側面に向けられているが、徹底した抵抗をしたわけではないとして、不満をもっていたように思われる。
「明治の思想史において最も劇的な場景の一つは、自由と民権と平和のわれ人ともに許すチャンピオンたちが二十年代の終りから三十年代にかけて相ついで国家主義と帝国主義の軍門に降って行く姿である」(集5 p319)
これに対して、抵抗し得たのは、万朝報の幸徳、堺、内村だけだった。徳富蘇峰、中江兆民、山路愛山などは、現実と理想は異なるといって、現実の方に自己の理想像を合わせてしまうという転向をした。尤も、内村も、日清戦争のときには、「朝鮮戦争の正当性」という英文の論文を書いて、世界に訴えたのだが、日露戦争では非戦論に転向した。多くの人と逆の転向だった。そして、丸山は、内村の転向が、日清戦争の「勝利の現実から非戦の論理を導き出した」とする。(320) 朝鮮の独立は却って弱められてしまったし、近代戦争が目的を達するための手段としての意義を失いつつあるだけではなく、コストの異常な増大は、正義の戦争と不正義の戦争の区別を非現実的なものにした、と指摘し、内村の非戦論は、キリスト教の立場だけではなく、日本が帝国主義的な転換をしたという認識に基づいていたとする。そうした転換の契機を「日英同盟」にみており、その同盟を結んだ時期に、イギリスはボーア戦争を闘っていた。ボーア戦争は、阿片戦争と同じく、イギリスにとって不名誉な汚い戦争であり、「戦争以上の悪事はない」という認識に、内村は至った。(322)
ところで、丸山は、内村にはやはり全面的に共感はしていない。福沢の矛盾には、かなり寛大であるが、内村の矛盾、あるいは、思想には厳しいように感じる。「福沢・岡倉・内村--西欧化と知識人」(集7)において、最後に、日露戦争にあれほど反対したのに、旅順沖海戦の勝利のときには、大声で万歳三唱をしたということを紹介している。内村の矛盾した姿勢を指摘しているわけである。従って、明治を生きた(といっても、内村は昭和の満州事変の少し前まで、宗教活動をしていた。満州事変から、矢内原忠雄は徹底した時局批判を行うようになったが、「預言者」と言われた内村の活動を、矢内原が引き継いだかのようである。)三人の中で、内村にもっとも厳しい評価があるように感じる。万朝報の時代には、文明の進歩は興国と同義だったと述べ(348)、一高の教師の職を追われ、同時に妻を喪って傷心と孤独感の極にあった際に、アメリカの友人に、神は自分に試練を与えているのだろうかという手紙を送った。そして、ひたすら神のいと小さき忠実な僕としての自己意識から発するようになったとするが(350)、「不敬事件」で一高を追われてから、万朝報の記者になるのであって、内村の歩みが逆になっている。丸山が誤解しているはずはないが、論理の展開として、万朝報時代、非戦論を華々しく展開していた内村が、その後宗教的活動に沈潜していく。その限りでは、正しい展開であるが、内村の苦悩とトラブルと闘いは、矢内原が指摘するように(後述)もっと複雑で、ジグザグな歩みであった。それを若干前後関係を無視した構成にして、闘い敗れて布教に専念という図式にしたのは、キリスト教の活動に集約していくことが、丸山の意にそわないのだろうか。
「内村は神の絶対意思を実現する「道具」たることに己れの使命を感じたからこそ、「何をなすべきか」を不断に問わざるをえなかった。」「内村の第二の宗教改革が、あらゆる宗教観念の転倒を意味したように、彼の「愛国」は対内的にも対外的にも世間的日常的意味での愛国観念の転倒の上にしか考えられなかった。それがやがて対内的には、平民主義として、対外的には戦争と軍備の絶対否定として結晶する。」と内村のキリスト教徒としての特質を示しながら、しかし、その困難さによって、長調と短調が同時に鳴り響いている。そして、最初の旅順沖海戦勝利の歓喜に結びつけている。
「忠誠と反逆」は、内村論ではないが、後半、明治における「反逆」の文脈でしばしば登場する。丸山にとって、忠誠と反逆を論じる際に、最も重要な到達的な概念は「抵抗権」であると考えられるが、内村は最後まで抵抗権という基盤にはたたなかったとする。そもそも抵抗権という思想は、ヨーロッパのキリスト教から生まれたにもかかわらず、日本の伝統に抵抗する伝統がないことに対して、西洋の倫理と、日蓮や西郷など、武士の子としての誇りで対応したという。(集8 237)内村への批判ではないが、日本のキリスト教が速く天皇制に同化したことを、明治のキリスト教が、初期は農村、その後大中都市に集中し、自主的中間層の変貌が、信徒を臣民のなかに吸収させたと、キリスト教の天皇制への同化したという。丸山が明示的に書いているわけではないが、やはり、内村も天皇制に同化していたと解釈していたに違いない。
矢内原忠雄にとって、内村鑑三は生涯の、かつ最も敬愛する師であったために、膨大な内村鑑三論がある。もちろん、それぞれに異なる見解が述べられているわけではない。そこで、『続余の尊敬する人物』(岩波新書 全集24巻)と大塚久雄との対談を素材にしよう。
当初矢内原は、キリスト教信徒の友人からの誘いを断って、なかなか近づかなかったが、一高2年生のときに、入門した。既に万朝報の記者をやめ、ごくわずかな人数を相手に聖書講義をする日々だった。そして間もなく、内村の娘が19歳で亡くなった。そのとき、内村が「これはルツ子の葬式ではない、結婚式である。彼女は天国へ嫁入ったのである」と言ったことに正直を受けて、キリストを信じることは「生命かけだ」と思って、以後揺るぎないキリスト教徒になっていく。
内村の特質として、札幌農学校で学んだ水産学の分野でも優秀であったことを評価する。一例として、日本産魚類目録を編纂したが、日本で最初の目録だった。そして、非常に広範な領域を学んでいるとして、最初の結婚が離婚に終わったあと、アメリカに渡り、アマスト大学で、史学、ドイツ語、聖書文学、鉱物学、地質学、ヘブライ語、心理学、倫理学、哲学などの学科を修め、その後神学校に入学したが、愛想をつかして4カ月で退学し、帰国、しばらく教師生活を送ることになるが、絶えず衝突してしまう。最初の北越学園では、宣教師の教師と意見があわず辞職。次に一高教師として、「不敬事件」を起こすことになる。矢内原によれば、そのふたつの事件は、内村鑑三のキリスト教の特質をよく表わしている。北越学園では、説教ではなく、他の宗教も含めた「講義」を行っていたが、「説教」を求める宣教師と対立した。内村は、単なる「ドグマ」としてではなく、理性的な知識を基にした信仰という立場であるということ。そこから、純粋な信仰からは、教会とか牧師とか、そういう権威的なシステムは不要であるとの信念に達し、そこから無教会主義が生まれた。
不敬事件は、現在の常識では考えられないことの強要から起きたものだ。まるで江戸時代の「絵踏み」のようなものだろう。内村は、矢内原によれば、教育勅語を否定していたわけではない。「教育勅語は実行すべきものであって、礼拝すべきものではない」というのが、内村の立場だった。矢内原の得た知識では、内村は、まったくふんぞりかえるような姿勢をとったわけではなく、礼をほんの少ししかせず、それは迷った末での行為だった。そして、問題になったことで、校長との間に、再度礼をすることで了解がついていたのだという。しかし、事件後心労のためか病気になり、回復しないうちに、免職になってしまったというのが、真相だと矢内原は述べている。しかし、内村が、礼拝を自覚的に拒否したことは間違いない。
不敬事件のあと、数年の流浪のあと、万朝報の記者となった。丸山が触れていないこの時期の活動として、足尾銅山の鉱毒問題に対する抗議活動に参加して、田中正造を助けて論陣を張った。実際に、こうした抵抗運動に参加していることをみれば、「抵抗権」の概念がなかったということは、必ずしも正しくない。そして、日露戦争に際して、非戦論をとったが、内村鑑三の平和論は「絶対平和論」つまり、あらゆる戦争に反対するという立場だった。だから、日露戦争中、そして終戦後の世論に失望し、華々しかった万朝報記者をやめ、聖書研究という道に専念することになる。これは、安逸のためではなく、「この道こそ彼が日本に尽す最大の道であり、この道に由らねば日本の救ひは根本的に来らないことを確信したから」だと矢内原は評価している。しかし、多くの弟子の裏切りにもあったとする。
矢内原は、内村の性格と人物を以下のようにまとめている。
第一に、内村の神学的思想は発展があった。時代の影響の下に苦闘しながら、古い十字架の信仰を守り抜いた。
第二に、審理のある一面に100%の絶対的重要性をおく人で、相対的な関係はとらなかった。だから、体系的な人ではなかったが、カントを、ダンテを誰よりも深く理解した。
第三に、多くの人と衝突したが、それは独立心のためであった。自分だけではなく、他人の独立も尊重した。
そして、総括的に、「戦闘の人であり、自由の人であり、悲哀の人」だった。生涯、様々な不幸に見舞われたが、「苦難に抗わず、神に対して従順であった」とする。
「内村鑑三と現代」(19614.15 全集24)と題する大塚久雄との対談は、論点を絞って議論する形になっている。
最初の話題は、ナショナリズムで、内村は、もともと「ふたつのJ」を標榜しており、愛国者であったから、「精神的な面あるいは文化的な面を見て、日本を立派な国にしていこう」という意味でのナショナリストだったとする。高崎藩の藩士という出自から、反藩閥的ではあったが、むしろ、矢内原は、札幌農学校の卒業生は、だいたい東大卒とは異なる「アウトサイダー」だったとし、それが体制的ナショナリズムとは異なるものにした。
非戦論については、丸山が矛盾を指摘したが、矢内原は、もっと複雑な問題だという。内村は絶対的平和論だったが、招集があれば、赴くべきだという。それは、国法に従うべきだからだ。しかし、戦争にいって死ぬ以外にはない。もし、良心的反戦論(良心的兵役拒否のことか?)があれば、内村は賛成したろうという。ただし、「無抵抗主義」だったとする。
最後に、「武士道の台木に接木されたキリストの福音」という言葉を内村は、よく言ったというが、内村は、「義理」という面での武士道を高く評価していて、そういう強さがないと、キリスト教は、単なる「甘やかす愛」の宗教になってしまう、だから、嘘を言わない、礼儀を尊ぶという武士道から来る価値を重視したとする。
丸山は、あくまでも内村を、戦闘的なキリスト教徒として論じている。もちろん、矢内原もそれは同じだが、武士道の精神が土台にあったことを強調している。不断内村がそのように述べていたことを、直接聞いたからだろう。丸山は、福沢・内村・岡倉がすべて、譜代の藩士であったことを共通点としているにもかかわらず、武士道の影響については触れていない。丸山は、内村の非戦論を、帝国主義認識と、神の僕に徹することによって、愛国の転倒を不可避のこととした点に求めているが、矢内原は、よりキリスト教徒らしく、内村の「預言者」であることに求めている。預言者とは、社会の支配的動向に異を唱えることで、迫害され、それに徹底して闘う存在である。内村が亡くなった勅語に、満州事変が起き、預言者としての内村を継承したのが、矢内原である。