『教育』が第二特集として「能力・発達・学習と教育実践」というテーマを設定して、勝田守一の名著『能力と発達と学習』を論じる文章を掲載した。その論文に対しては、別途論評する予定だが、それと並行して、私自身の読書ノートとして、何度かに分けて、考察しようと思った。考察というよりも、この名著(以下、本書 ページ数は、著作集6巻のもの)から何を学びとるかということの整理にしかならないかも知れない。
本書は、『教育』に一年間連載された文章をまとめたもので、「教育学入門」であるが、「教育研究の成立する前提とその本来の領域」を明らかにすることを志して書かれた。私自身は、あまり読書家ではないので、大量の本を読んでいるわけではないが、私の読んだ「教育学入門」「教育学概論」のなかで、戦後最高の書物であり、これを凌駕するものは書かれていない。私自身、生涯のなかで、この本を越える「教育学概論」の書物を書くことは、夢であり、また、最大の努力目標として、ずっと念頭にある。しかし、先の論文は、この名著を、面白くない、新味のないもので、最近流行りの論の先駆けに過ぎないなどと評価している。前のことだが、最近の若い教育学研究者は、勝田守一という人を、かなり低く評価していると聞いたことがある。その典型的な事例を、『教育』の論文でみたわけだが、その論評は別途行うので、それとは無関係に、本書を読み進めたい。
まず、最初に私の本書を読む心構えを書いておきたい。
「教育論」と呼ばれる本は、いくつもあるが、根本的なところでは、論じていることは、ほとんど同じであって、それはプラトンのころから変わらない。教育は「りっぱな人間」(と執筆者が考える人間)を育てるには、どうしたらよいか、何を教えたらよいかということを、その時代、その社会の特質を土台にして論じている。時代的要請、社会の要請、そして、属している社会層、階級の要請に応じて、論じ方が違うだけで、それを具体的に考察しているのが、「教育論」なのである。だから、「新味」などは、どんな優れた書物には、それほどないのである。プラトンの『国家論』は、プラトンの考える、優れた哲人政治家を育てるための考察であり、ルソーの『エミール』は、没落していく貴族を、新しい社会のなかで、自立的に生きていけるような人間を育てるための教育論なのである。ルソーは「自然教育」を主張したなどというのは、まったく一面的な読み取りであり、貴族の息子であるエミールを、発達段階に応じて育てつつ、大人に近くなれば、市民社会のなかでいきていく知識や技能を教えている。
だから、本書を読むときにも、勝田が直面していた日本の状況の、どのような難題に取り組むために、この著作を書いたのかを、十分に踏まえながら、その回答として提起したことが、適切であったのか、別の回答こそ出すべきだったのか、そのことを学びとることが大切なのである。
本書が書かれたのは、1964年である。私が高校一年に入学した年だ。私は、いわゆる団塊の世代なので、成長する各段階で、「史上初」というレッテルを貼られ続けた。高校一年ということは、そのまえに受験があったわけで、当然、史上最大の受験地獄と言われたものだ。当時は、まだ高校進学率が、今に比較すれば、かなり低く、みなが受験したわけでもなく、また、受験した生徒でも、どこにも入れない者もいた。そして、私が中学生のときに受けた、模擬試験としての「市販テスト」で、始めて「偏差値」が導入された。(大学に導入されるのは、共通一次以降である。)まだ、文部省の「全国学力テスト」が実施されており、そして、高校には、「多様化政策」が進められていた。「期待される人間像」などが、話題になっていた時期でもある。そして、このあとも数年間、中卒で就職する生徒たちの「集団就職」列車が運行され続けた。
これだけ見ても、当時の教育問題の深刻さがわかるだろう。本書は、こうした教育の状況と、当時の論争課題に、避けることなく切り込んだものだ。「序章 未来にかかわる時点で」は、最も基本的な問題を整理して、以後論じるための土台となる課題を明らかにしている。「私が立っているのは現在の日本であり、私の眼の前にあるのは日本の社会とその教育と、そしてなによりも日本の子どもである」と書いている通りである。(p20)
では、どういう基本的な課題なのか。
1964年は、東京オリンピックが行われた年であり、高度成長の真っ只中であった。周知のように、新幹線や高速道路が作られ、東京は大改造された。産業構造が大きく変わり、電気製品の普及によって、家庭生活も様変わりした。高校進学率は上昇したが、まだ中卒も多く、大学進学率はまだまだ低かったのである。大企業は、「日本的経営」が行われて、どんどん発展していたが、中小企業の雇用者は、流動的だった。私の友人でも、中卒で働いた同級生は、なんども職を変えている。車社会に移行しつつあり、生活が便利になる一方、公害が目立つようになっていた。「家業」を継ぐ人口は極めて少なくなっていたから、受験に駆り立てられる者が多数になり、勢い受験競争が激しくなっていった。
そういうなかで、勝田は、まず「子どもに対する期待は、親のばあいにはふつうのこととされている。この親たちの期待が結び合って生まれるエネルギーを無視しては、現実に日本の社会の教育的状況を変えていく姿はとらえられない。」と書き、高校進学者の増大、入学準備教育の激化、学習塾や教師のアルバイトの繁昌、育児書の氾濫などは、親たちの子どもに対する期待のエネルギーだとする。(p11)
そういうエネルギーを否定することはできないという立場をとらざるをえない。少しでもいい学校にいきたい、いい教育を受けたいという、親や子どもの願いを「そんなことは馬鹿げたことで、意味がない」などと突き放す教育関係者がいたら、その人の誠実さを疑うべきだろう。
しかし、現実に企業が求めている「人材」のあり方を考えると、「この親たちの期待は、けっきょく、現在の社会の不合理と不幸とを拡大することに結びつくだけではないか」と考えざるをえない。(p12)
では、そういう不合理性とは何なのか。勝田はいくつかの具体例をあげている。まず無駄な包装に大量に紙が使われる。そのために、森林が伐採される。だが、そのことで生活している人もいる。あるいは、ノルマを達成するために、欠陥があっても売らねばならないセールスマン。
当時は、日本製品は、「安かろう・悪かろう」と言われた時代で、現在のような、日本製=高品質というイメージとは逆だった。テレビは頻繁に故障して、修理にきてもらっていたし、だいたい電気製品は数年で壊れるものだった。裕福な人は、車を2,3年で買い換えた。従って、勝田のいうような欠陥品を売らざるをえないというセールスマンは、少なくなかったのである。勝田は、社会的な浪費と呼んでいる。このような、不合理と不条理のある社会に入っていかざるをえないが、そのなかでも、よりよい位置を得たいという切実な願い、そして、そのための激しい競争を避けられない現実。これが、勝田が対決する必要を感じている課題の第一である。
第二の課題は、「選抜」システムである。
明治以来、日本の学校教育は「立身出世主義」を重要な力学にしてきた。私の理解では、立身出世主義教育は、1980年代まで継続する。しかし、戦前と1960年代は、その様相が大きく異なる。戦前の中学進学率は30%代であり、受験競争への参加者は、まだ少数派であった。農家を中心として、家業を継ぐ人たちは多数存在したのである。しかし、1960年代は、多数派が高校受験するようになったが、丁度受験期を迎えた団塊の世代は、高校の定員よりもはるかに多い受験生が存在したのである。
また、戦後の経済復興に続く、高度成長時代には、財界からの人材養成の要求が多数だされ、経済審議会を中心とした人材養成計画が練られた。そして、「ハイタレント」なる言葉が横行し、勝田のいう「人材の上すみと沈下物」(p17)にわけることが、「選抜」で期待された。沈下物は、人材とみなされない。大企業は、高度成長でどんどん拡大していったが、他方で公害をまき散らしていた。大企業と中小企業の格差も拡大していく。まだ、本書には言葉として出ていないが、成長する大企業には、後に「エコノミックアニマル」と呼ばれるようになる、極限まで働く企業戦士が形成されつつあった。また、受験が日常的な学習を支配するようになればなるほど、そこで獲得される学力は、受験が済むと忘れられるようになる。
この選抜システムは、勝つことを当然めざすが、勝者を迎える現実もまた、厳しいものだった。だからといって、競争に参加するな、などという立場をとることは、教育者としてできるはずがなかった。
このふたつの課題は、ずっと基底として続いていく。私自身、勝田が考察していた時期に、受験生であったために、この問題意識は、実感できる立場にある。まさしく、勝田のいうような問題に満ちていた時代だったのだし、私自身、受験勉強をしながら、こんな勉強でいいのか、という思いをずっと抱いていたのも、よく覚えている。