BC級戦犯の記事 8.15を機会に

 戦後、戦犯として裁かれた人は、圧倒的にBC級が多い。条約で禁止された戦争犯罪や捕虜に対する不当な扱いで裁かれた人たちだ。東南アジア現地で行われたものも多く、死刑判決をくだされた場合も多い。私が大学で学んだ教授は、学徒動員で出征した人だったが、BC級戦犯として処刑された戦友が多く、ときどきそのことを講義で話された。多くは、上官の命令で行わざるをえなかった行為で裁かれたもので、当然裁かれるべき上官は、うまく逃げてしまった事例も少なくないようだ。丸山真男が批判した、責任は下に負わせるという日本軍国主義の(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/61689)(日本ばかりとはいえないかも知れないが)汚点が刻印されている。
 JBpressの2020.8.15号に、「B29搭乗員を処刑、「戦犯」だった父の胸中」と題する吉田典史氏の文章が掲載されている。B29の搭乗員で、墜落して日本軍の捕虜となったアメリカ兵を処刑した罪で、戦後裁判にかけられ、死刑判決を受けたが、減刑されたという人物の記事である。A氏とする。

 発端は、1945年6月20日の米軍による福岡大空襲だった。記事によると、211機による爆撃で、被災人口6万以上、死者902人だった。そして、A氏の母が死者のなかにいたのである。A氏が部隊に戻ると、B29の搭乗員が処刑されるところだったので、母親を殺害されたということで、自ら執行者として志願して、4名を斬首したという。もちろん、捕虜の殺害は国際法違反だから、許されるはずもないが、日本軍は、残念なことに、捕虜を虐待したり、殺害した事例が少なくなかった。それが、あとで戦犯容疑で裁判にかけられたのである。しかも、この場合、軍法会議にかけられた結果として、捕虜の処刑が決まったわけではないことが、後にA氏に知らされたという。敗戦後、A氏は、自分が裁判にかけられ、死刑となることを覚悟したそうだ。裁判では、「命令があった」「命令した覚えはない」などというやりとりがあって、判決が出るのが遅れたと書かれているが、それでも48年には死刑判決が出された。BC級裁判での死刑判決は、かなりはやく実行されるのではないかと思っていたが、A氏の場合には、そうではなく、50年に朝鮮戦争が始まり、占領軍の政策転換で、減刑され、56年に釈放された。出所後、自宅の敷地内に地蔵をたてたというが、後悔、反省、懺悔ではなかったと、A氏の息子さんは述べている。
 息子さんによると、A氏は、弁護人から「死刑判決になる可能性がある」と言われ、自分でもそう思っていたようが、罪人とは思っておらず、勝者による復讐と心得ていたようだという。インタビューに、たまに応じたが、それは、死刑になった戦犯への供養と考えていた。それから、A氏は、アジアの国には迷惑をかけたという理由で、アジアからの留学生を積極的に世話していそうだ。息子さんの話が取材源だから、ある程度割引して受け取る必要があるかも知れないが、Aは、なかなか豪胆でりっぱな人だったように思われる。
 日本兵による捕虜虐待とか処刑が裁かれるという構造は、決して珍しいものではない。東ドイツが崩壊したとき、壁を超えた者を射殺した東ドイツの警備の者はたくさんいた。また、現在でも、北朝鮮を逃れようと、川を渡っているところを見つけると、北の警備の兵士は容赦なく射殺する。そういう命令を受けているからで、逃亡する者を見つけながら、撃たなければ、自分が罰せられる、最悪処刑が待っているわけだから、そうせざるをえなかったと、弁明する。その対処は、国によって、また時代によっても異なるのだろう。
 ただ、日本のBC級裁判で処刑された人たちは、ほとんどが下の階級だったもので、上の者ほどさっさと逃げてしまったということが、悲劇的だった。日本の軍隊の上層部の腐敗という点も、記憶されなければならないと思う。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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