第二特集「コロナ一斉休校と子ども・教育」の最後の論文は、荒井文昭氏の「現場で決める--教育の自由を支える民主主義のかたち」だ。
題名が「現場で決める」だから、まず「現場が決められない」状況から入っているのだが、「パソコンとwifi機器の無償貸与をしながら、双方向性を確保しようとしている一部の学校、NPO」がある一方、多数は、指示待ちの状態に置かれていることが、「深刻な事態」という。確かに、私が聴いている現場の声でも、指示待ち状態が多いが、しかし、それは積極的な提案をしても、上から潰されるという事態もあわせて起きており、強制された指示待ちという、いかにも残念な事態であることが多い。残念ながら、この文章では、積極的な提案が潰されることについてのコメントがないことだ。筆者の職場でも同様なことが起こったというが、それについては、「東京の教育に象徴される教育政策の結果」であると、そのこと自体は間違いではないにせよ、ではどう切り込むかいう視点があまり感じられない。職場の大学での実践を紹介しているが、大学と小学校、中学校では状況はかなり違う。オンライン教育の実施などを提唱しても、待ったがかかるのは、教委の消極性だけではなく、確かにネット環境の整備が遅れていることがある。では、それに対応しようがないとかといえば、私はあったと思っている。例えば、ネット環境がない家庭では、学校に登校させて授業を行う、その授業をZOOMなどを使ってネット配信して、双方向授業とする。そういう案をいろいろなところに提示した。当初は、数人数の登校は認めるところが多かったのだから、可能だったはずである。困難な状況であるほど、創造的に対応を考えねばならない。
日常的なレベルで、現場で決めさせない行政が行われている、それは事実だ。それが、今回のコロナ禍でいかに大きなマイナス面をもたらしたかを、筆者のような立場からすれば、具体的に提供してほしかった。しかし、どうもそれは、筆者の発想法がそれを困難にしているのかも知れないと、なんとなく感じている。
休校によって、当然授業時数の問題が起きるが、そのことについて、ここで書かれていることが、私にはよく理解できなかった。「授業時数」という項目の部分で、東日本大震災の経験での、授業時数確保などを主張する教育委員会に対して、「形式的な学校復興がそんなに大事か」という疑問をもった教師の意見を紹介し、そのあと、「教科等横断的に精選する」という日本教育学会の提言について触れ、「大切なことは、課題に向きあい続けることであり、そのことは子どもたちと現代をともに生活していくこととつながっていることを、私たちが自覚することにあるのではないだろうか。」と結んでいる。
筆者は授業時数の確保について、どうやら教育学会の「教科等横断的に精選する」という提言を支持しているようだが、精選して、これまでの課程をそのまますべて実行しなくてもよいというのは、文科省でもいっていることだ。すると、文科省は、おそらく各地の実情に応じて、削減してもよいということだろうが、荒井氏は、誰が決めるのがいいといっているのか。その場合の「現場」とは何か。授業時数というのは、ある程度国家基準で決める必要があると思うが、どの部分を確保すべきなのか、どの程度確保すべきなのか、それを「学校単位」で決めてよいという見解なのか、教育委員会なのか、どうもわからない。授業時数を節の名称にしながら、結局「子どもたちと現代をともに生活していくこととつながっている」ことを自覚することだ、などという、主題からそれたまとめにしている。これは、私には、「逃げた」としか感じられない。
こうしたあいまいさは、他にもある。
保健所などの公的機関が弱体化させられていると書いたあと、「現在の危機を利用しながら、より徹底した市場化、巨大IT企業と中央政府による管理システムの構築などの政策がすすめられようとしている。」と書いている。私には、これもわからない。
こうした動向は、コロナ禍以前から進展していることは、もちろん承知しているが、現在の危機を利用して、更にそれを進めているようには、私にはあまり見えない。むしろ、やらねばならないことすら放棄して、ただ国民の自覚に責任をなすりつけているように見えるのである。だから、今せっかく収束したかにみえた感染が、第二次として拡大しているのではないか。国民の管理と自由は、常に簡単には決められない側面がある。日本は、コロナ対策の優等生ではないが、また劣等生ともいえない。中国・韓国・台湾のような徹底した隔離政策をすれば、確かに抑えられる可能性が高まる。しかし、それを日本でやったら、もちろん荒井氏も、国民の管理システムの強化として反対するだろう。しかも、それを実行するためには、巨大IT企業を使うことになる。しかし、安倍内閣は、実際にそれをしなかった。しないことを批判する人たちも少なくない。
もうひとつだけ批判しておきたい。
森友事件で自殺した赤木さんの手記に触れたあと、「高校生たちの不安を利用して、「9月入学制」を声高に主張した政治家や、緊急事態に乗じて検事総長人事に政治介入できる仕組みを導入」したことを忘れるなと書いている。
9月入学が、今回話題になったのは、高校生たちが、要望書をだしたことがきっかけのひとつだったことは間違いないが、それを取り上げた政治家が「高校生の不安を利用」したとしか、荒井氏は見ないのか。高校生には、意見表明権など認めない立場とは思えないが、自分たちで討議して、要望書までまとめ上げ、堂々と提起した人たちを「不安」としか見ない、そういう感性に、私はとうてい共感できない。
そもそも、9月入学を支持する声は、前からあったし、また以前にも社会的話題になったことが何度もある。
もし、まともな教育学者であれば、入学時期は、4月のほうがいいのか、9月のほうがいいのか、緊急事態などとはまったく別の次元で、冷静に考えておくべき課題である。何故ならば、国際的に入学時期はわかれているが、9月新学期が格段に多いからである。多いのは、それなりに理由がある。では、日本はこのままでいいのか。そういう問いかけを自らにして、自分なりの答えをもっていることが、どちらの立場にたつにせよ、教育学者の最低限の見識ではなかろうか。だから、今回の主張でも、高校生の主張の前に、9月入学の提案をだしていた人たちは、実際に存在するのだ。
それに、高校生がそうした要望書をだしたとしたら、それを取り上げることは、政治家として間違いなのか。
日本教育学会の声明は、9月入学の検討を潰す上で、最も大きな力をもっただろう。そして、確かに一部の政治家は前向きだったが、文科省の官僚たちは、まったくやる気がなかった。面倒だからだ。官僚のそうした姿勢には、驚かないが、教育学会の声明には驚いた。その声明をだしたひとたちの多くが、入学時期という重要なテーマについて、普段考えていないらしいことがわかったからだ。
研究者である以上、今目の前にある課題と、長期的な課題を、普段から共に目配せしておく必要がある。それができなければ研究者とはいえない。入学時期は、長期的な制度論の問題である。また、私の認識では、4月入学であるために生じている大きな問題がいくつもある。それには前に何度も書いたので、触れないが、そういう意味では、現在の問題を解決するための制度改革でもある。
教育学者である以上、もっと未来の問題をしっかり考える必要があるだろう。そして、「高校生」の意見は、もっとまじめに考えなければならない。