前回は、終戦から間もない時期に書かれた「超国家主義の論理と心理」によって、丸山の天皇制認識を検討した。今回は、戦後10年余経過した時点で書かれた「日本の思想」を検討したい。(丸山真男集7巻所収)このあと、丸山は、もちろん天皇制問題をずっと追求していくわけだが、戦後の天皇制については、私が知る限り、本格的に触れることはなく、ひたすら古代まで立ち返って、歴史貫通的に流れる思想を追求していったといえる。しかし、古代天皇制からずっと継続する思想を問題にすれば、それが敗戦と戦後の象徴制の天皇というシステムにも、継続しているのか、あるいは、やはり、断絶があったのかという点については、無視することはできないはずである。1500年にわたって続いた制度と、それを支える思想が、単なる一度の敗戦で消えてしまうことは、考えにくい。特に昭和天皇の逝去の前後に生じた大記帳運動ともいうべき事態を、丸山はかなりショックをもって受けとめたが、それは、まったく新しい戦後的なもので、丸山の批判する性格ではないのか、戦前体制の残滓ともいえるのか。この点に関する分析をしなかったことは、やはり、大いに不満をもたれてしかるべきだろう。
さて、「超国家主義の論理と心理」では、権限は上にあり、自分にはなく、最上の権限も歴史の彼方にあり、責任は下に回される構造が、無責任体制を構成していた、また近代国家では価値と権力は分立しているが、明治以降は天皇という存在によって統括されていたために、国民には信教の自由(価値を選択する自由)はなかったという天皇制批判であった。「日本の思想」は基本的に同じことをいっているが、違う部分を確認していこう。
ポツダム宣言、つまり日本に対する降伏勧告を受け入れるかどうかについて、ドイツもイタリアも降伏している時点で、日本が闘い続けることなど不可能であったことは、誰もの目にも明らかだったが、受諾までにはかなり揉めていた。揉めた理由は唯一、受け入れたときに「国体護持」が可能かどうかだったことは、広く知られている。だが、丸山が最も驚くべきこととしてあげているのは、それだけ国体護持が選択するか否かの基準であったにもかかわらず、国体とは何かという点について、決める人たちの間で共通の認識がなかった点である。(p216)どうなれば、国体は護持され、どうなれば、護持されなかったことになるのか、それが会議をしている人たちの間で明確でないのに、受け入れるかどうかを、国体護持の如何で決めることができないのは明らかだ。結局のところ、想像するに、ソ連参戦が現実に起き、ソ連軍が日本の本土を占領する事態を恐れ、ポツダム宣言で国体護持が可能かどうかはわからないが、ソ連の占領部分が大きくなれば、確実に国体護持は不可能になるという認識で、降伏を受け入れざるをえなくなったということだったろう。国体護持は、条件ではなく「目標」になったわけだ。
更に驚くべきことは、丸山も指摘しているように、天皇の決断(御聖断とされる)があり、降伏を受け入れ、そのことを告げる天皇自身による放送が録音され、レコードが制作されたが、天皇の決断を認めず、レコードを奪い取る試みが、最も天皇に忠実だとされる軍隊の一部によって計画されたことである。つまり、天皇主義者は、天皇自身の意志に従う気持ちなどはなかったということだ。
そういう、誰もわからない「国体」とは何だったのか。それを解きあかすことが、「日本の思想」の特質を解きあかすことであるとするのが、この論文の課題である。
では「日本の思想」(日本思想ではなく、日本人が思想を形成していく上での特質という意味に近い)は、新しいものがはいってくると、伝統的なものにズルズルと堆積していく。すると、ヨーロッパのある思想と、日本のある思想は同じだという類推が生まれ、新しく入ってきた思想を受け入れる際の、従前の思想との対決が行われない。「一定の時間的順序で入ってきたいろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけでいわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう。・・新たなもの、本来異質的なものまでが過去との十全な対決なしにつぎつぎと摂取されるから、新たなものの勝利はおどろくほどはやい。過去は過去として自覚的に現在と向きあわず、傍におしやられ、あるいは下に沈降して意識から消え「忘却」されるので、それは時って突如として「思い出」として噴出することになる」というわけである。
新しい思想が入ってくると、伝統的な思想にズルズルと堆積していき、対決が行われないということを、そのまま肯定することは難しい。日蓮や親鸞などは、やはり、自立的な思考の結果として、新しい宗教を生みだしたといえるだろうし、伝統との対決をした思想家が存在しなかったとはいえない。新しい思想が入ってくれば、それを受け入れる人がいれば、ヨーロッパのある思想と日本のある思想が似ているものがある、というような現象は、日本に限らないはずである。そもそも、思想的対決などは、ごく稀な人間だけが行えるものだ。
さて、こうした「機軸」のない状況で、帝国憲法を作成するとき、伊藤博文はどうしたか。
「伊藤は日本の近代国家としての本建築を開始するに当たって、まずわが国のこれまでの「伝統的」宗教がその内面的「機軸」として作用するような意味の伝統を形成していないという現実をハッキリと承認してかかったのである。」(p214)そして、伊藤自身の言葉を引用している。
「我国ニ在テ機軸トスヘキハ、独リ皇室アルノミ。是ヲ以テ此憲法草案ニ於テハ専ラ意ヲ此点ニ用ヒ君権ヲ尊重シテ成ルヘク之ヲ束縛セサラン事ヲ勉メリ。」
しかし、天皇が機軸となったといっても、またそれが価値を担うといっても、天皇を中心とする宗教があったわけではない。神道には、宗教に不可欠ともいうべき「聖典」が存在しない。だから、神道は古代の習俗だという研究者の主張は事実であったし、そうした研究者を罰しても、ずっとそうした研究は継続的に発表された。だが、学校教育を主な舞台として、教育勅語を中心とする「天皇の神性」を醸しだすツールが制度化されていった。厳粛な儀式はそのために不可欠の行事だった。教育勅語を読み間違えた校長が自殺したというような逸話は、天皇の神性を高める上で大きな役割を果たしただろう。
結局、不敬事件、大逆事件、虎ノ門事件等の天皇にかかわる「事件」の処罰を通じて、(処罰はこの順に厳しくなる)そして、厳粛な儀式と教育勅語の暗唱、治安維持法などによって、「国体」を守らねばならないという雰囲気は確実に国民のなかに形成されたが、しかし、「国体」とは何か、国体を否定すると死刑にもなるという治安維持法によっても、明確な国体の定義はなかった。だからこそ、大きな呪縛力をもったのだろう。
さて、もう一度戻る。丸山のここでの主張を認めたとして、戦後の教育の状況は、軍国主義時代は極端であったとしても、古来続く「日本の思想」は、現在でも続いていると、丸山は主張しているように見えるが、その場合、学校教育において、厳粛な儀式が、学習指導要領で指示され、そこでは君が代を斉唱する事態は、この「国体」の継続なのか、あるいは違うのか。
丸山は最後にこう書いている。
「戦後の変革はこのエセ「精神的機軸」を一挙に転落させた。ここに日本人の精神状況に本来内在していた雑居的無秩序は、第二「開国」によってほとんど極限にまてあらわになったように。見える。思想界の混迷という言葉は明治以来支配層や道学的保守主義者の合い言葉であった。しかし思想が現実との自由な裕福交通をする条件は戦前には著しく阻まれていたことを思えば、今にして私達ははじめて本当の思想的混迷を迎えたわけである。」
この点についての丸山の認識は、私自身の今後の課題としたい。