矢内原忠雄と丸山真男5 大学での紛争への対応2 ポポロ事件

 矢内原忠雄は、戦後東大に復帰してからは、社会科学研究所の所長、経済学部長、教養学部長、そして総長を歴任した。特に教養学部長、そして総長として、激しい学生運動と対峙せざるをえないことになった。1970年くらいまでの学生運動は、今からは考えられないほど、過激なものだった。そして、学生がストライキをすることも稀ではなかった。矢内原は、そうした学生の運動に理解をもってはいたが、学生が学ぶ権利を侵害したり、あるいは、学ぶ環境を阻害するような行為には、断固とした措置をとった。何度か紹介しているように、それは「矢内原三原則」と呼ばれて、学生のストライキを指導した学生は、必ず退学処分となった。尤も、学内規則を守るという誓約書に署名し、復学を申し出れば、確実に復学することができたのだが。
 そうした教養学部長時代のことは、以前に書いているので、今回は、総長になって経験した最大の学生問題である「ポポロ事件」について考えてみる。
 東大の医学部側に面した隣接部分に、警察署があり、それは、戦前、東大の教授や学生の思想を取り締まることを、大きな任務としていた。戦後、そうした学問の自由を侵す行為は、憲法によって否定され、特高警察も廃止された。そして、東大と警察署の間で、警官が学内に入って、教授や学生の調査・捜索などをしないという協定が結ばれていたとされている。その協定書を資料でもみたことはないが、ポポロ事件を討議する国会で、そのことは度々触れられているから、事実と考えてよいだろう。
 1952年、東大の学生の演劇サークルであるポポロ劇団が、松川事件を題材とした演劇を上演した。法文25番教室で公演が行われたが、入り口のところでチケットを販売していた。市民も入場料を払ってはいることができるという解釈で、私服警官3名がチケットを購入して、劇をみていた。休憩時間に、学生がその私服警官の存在を発見し、学生たちが警官を取り囲み、外につれだして、詰問した。その際、警察手帳を取り上げた。3人のうち1人は、学生たちの囲みから逃げたとされている。そうこうする内に、20名程度の警官が正門外に集合し、学内はものものしい雰囲気になったようだ。厚生部長が駆けつけて、中に入り、警察手帳を返還するように学生に説得したが、学生たちは返還に同意したが、そこにはもっているという学生がおらず、後日説得して返すということでおさまった。しかし、2名の学生が警官によって逮捕された。逮捕された学生は、以後起訴され、長く裁判が続くことになる。
 事態を重視した政府は、東大、警察関係者を国会に参考人として招請し、衆議院と参議院でかなり長い質疑討論を行った。以下の論点は、参議院での議事録によるものである。長い審議なので、論点整理の形で考察する。(1952年3月4日の参議院法務委員会の議事録による)また、衆議院で矢内原が行った冒頭の説明は、「国会と大学」という題で、『大学について』(全集21巻)に収録されている。

 私服警察が、東大の学生劇団の公演に、市民として参加することが認められるのか。
 警察は、入り口に入場券を売る場所があって、入場券を購入すれば、市民でも入れるという形だったので、当然私服警察は入って観劇することができると主張した。しかし、矢内原は、それに異議を唱えている。学内団体が学内で催す公演は、原則として教職員と学生だけが入場を認められている。例外的に、その家族が認められるが、一般市民に開放しているわけではないと説明している。警察は、入り口で入場券を販売していることを根拠にしているが、矢内原は、一般社会のチケット販売所などで扱っているわけではなく、あくまでも学内の教室・建物の入り口での販売だから、一般市民宛ではないとした。
 警察は、あくまでも観劇という趣味の範囲と言い張るのであるが、実際には、その私服警官は、頻繁に構内を見回っていたので、学生は私服警官であることを知っており、それで取り囲んだわけだが、取り上げた警察手帳には、学内の教授や学生団体の動きが、細かに記入されていたとされる。学生は、返却の際にコピーをとっていた。また、矢内原は、尾高法学部長が警察署に出向いて確認したところ、署長が、指示して私服警官が構内に入っていたといっていた、と説明したが、警視総監と警察署長は、それを頑なに否定している。
 (ただ、矢内原が前日衆議院で説明した文章には、ポポロ劇団の公演に際して、警察署の署員が、昼間に確認のために大学にやってきて、大学として許可しているのかと質問していったと明らかにしている。つまり、たまたま市民として、趣味の演劇を見たのでないことは、間違いないところだ。)
 こうした形式的なことは、もちろん、議論されたが、本質的な議論は、学問の自由と大学の自治と、私服警官が構内で調査していることの関係であった。
 羽仁五郎が質問に立ち、大学の自治を尊重する立場から討論をしていたが、そのあと一松定吉氏が登場して、矢内原を攻撃した。大学の自治や学問の自由を尊重することに異議はないが、憲法に反したり、破壊活動を扇動するようなことも、学問の自由なのかと矢内原に迫っている。矢内原は、研究は対象について何ら制限するものではなく、その方法が科学的であることが重要であると応酬する。すると、一松議員は、ポポロ劇団が扱っている公演の劇は、松川事件が題材であり、劇団は、松川事件は警察のでっち上げだと主張し、そういう考えによる演劇をしている。しかし、松川事件の被告たちは、死刑判決も多数でており、極悪人である。そんなものまで許すのかと迫っている。それに対して矢内原は、結核の研究や犯罪の研究などを例にだして、題材そのものが反社会的であったり、生命を脅かすことを研究することはあると説明して、一歩も退かない姿勢を保持している。(ちなみに、松川事件は、裁判にかけられた被告たちの仕業ではなく、誰かが仕組んだことであることが、最終的に確認され、被告は無罪になっている。従って、この時点の判決は、一松のいう通りだが、歴史的には、一松の主張はまったくの誤りであった。)

 矢内原にとって、これは晩年の極めて大きな事件だったから、いくつかの対談や文章で回顧しているか、当時学生の中央委員会議長だった吉川勇一氏を、非常に誠実な人物であったと回顧している。警察手帳を奪った学生は、なかなか手帳を返還しようとしなかったのだが、吉川氏が大学との約束を守って、学生を説得したわけである。
 国会での論議は、保守党の議員の質問は、かなり激しいもので、矢内原が、普段、学生団体の活動に関しては、学内ルールをきちんと守ることを条件に許可している姿勢を堅持していたから、切り抜けることができたといえる。当時の学生運動の激しさから、警察もまた、戦前の体質をまだもっていたのか、学内で教授や学生の調査を密かに行っている時代であった。矢内原は、当然確固たる自由主義者であったから、大学の自治を守る立場を貫いており、国会でのやりとりをもかなり激しいものがあった。
 「大学の自治と学生の自治」という、衆議院での冒頭説明の補充的文章で、大学は決して治外法権ではないが、警察も以下のことを認めたとして3点をあげている。
(1)学問の自由、大学の自治は尊重する
(2)特高警察は復活しない
(3)次官通達は存続する(大学の要請のみによって、警察は大学にはいる)
 矢内原が南原繁の後任として、東大の総長に選出されたのが1951年12月であり、ポポロ事件が52年2月だから、総長になったばかりの時期に起きた事件だった。

 さて、丸山真男は、法文25号教室で行われた、いわば自分たちの庭で起きた事件であったにもかかわらず、少なくとも公表された文章の中では、ポポロ事件についてほとんど書いていない。論壇に登場し、日本の知識人たちの姿勢を批判的に分析していたことを考えると、多少不思議な気がするのである。次回、丸山の自身の大学での問題との取り組みについて考えてみる。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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