私は、経済学者でも政治学者でもないので、二人の学者としての業績を評価することはできない。だが、第二次大戦を体験し、戦後も大きな役割をになった知識人として関心をもっている。前にサイードの『知識人とは何か』の「自分のだした結論が自分にとって不利であったとしても、その結論を保持・主張できる人」という命題を紹介した。私は、その前に、ごく当たり前のことだが、「周囲で起こっていることに対して、自己の見解を提起できる人」ということを前提条件として加えたい。その点から見ると、二人とも、戦前から戦後にかけての代表的な知識人であるが、提示の仕方は多少異なっている。今回はその点を見ておきたい。特に、自分の所属する大学で起こった事件に対する対応と見解の表明に絞ってみる。
矢内原は、大学における「紛争」に比較的たくさん遭遇している。
最初は、一高時代、新渡戸稲造校長が責任を問われて辞職したとき、擁護運動の先頭にたったのが矢内原である。第二は、自身が大学を追われた「矢内原忠雄事件」の当事者として。そして、戦後東大に復帰して、教養学部長時代の学生のストライキ、そして、総長として「東大ポポロ事件」の対応である。関わり方も多彩であったといえる。
丸山は、やはり一高時代、長谷川如是閑の講演会に出席したところ、特高警察に捕まった経験がある。これは、助手時代まで、特高の監視対象となるということで引きずることになった。そして、助手時代に、東洋政治思想史講座が開設され、その最初の講義担当として呼ばれた津田左右吉が、最後の講義のあと右翼学生の意図的な質問責めにあったとき、津田を抱えてつれだすというトラブルに見舞われた。戦後の矢内原が大学運営者として遭遇した事件には、ほとんど関わっていないし、また、見解を述べてもいない。(談話等で述べることはあったかも知れないが、今後資料を入手することになるので、今の段階ではわからない。ただし、見解を公表したことはない。)そして、丸山真男という知識人の偶像が落ちたとまで言われる、東大紛争の法学部研究室封鎖時の対応がある。
二人の処し方を見ると、相違は小さくないと感じる。
まず矢内原忠雄を検討しよう。
矢内原が一高に入学する前に、徳富蘆花が一高に招かれて「謀叛論」という講演をするという大きな事件があった。大逆事件で幸徳秋水ら12名が死刑となって処刑されたすぐあとのことであり、「謀叛論」は、幸徳秋水らが純粋な人間で、新しいことはすべて「謀叛である」として、彼等を擁護した演説だった。時の校長が新渡戸稲造だった。しかし、このときには、誰も処分されてはいない。このあと矢内原が一高に入学し、そして彼が3年生のときに、新渡戸が校長を辞職する事態になった。これは、新渡戸が交換教授としてアメリカに行き、留守が長いということで、学生から非難が起きていた。おそらくリベラルだった新渡戸をやめさせる好機として、文部省が辞職させたものだろう。一高学生のなかに、新渡戸の留任運動が起きて、矢内原はその中心だったと考えられる。弁論部だった矢内原は、数回新渡戸擁護の演説をしたとされる。その内ふたつの原稿が、全集24巻に収録されている。しかし、新渡戸自身が、校長を何度か辞めようと思ったことがあること、今回の辞職が不本意なものではないことを学生に示して、決着している。辞職の日に、一高生一同が新渡戸宅まで徒歩で見送り、矢内原が分かれの演説を、日本語と英語でしたということだ。英語での演説は人生初めてだと、矢内原自身が語っているが、(「私の歩んできた道」全集26巻 18)新渡戸の夫人がアメリカ人だったことによる。
その後、矢内原が大学生の時期には、紛争はなく、教授になって、日本の政治が軍国主義に向かって進んでいく過程で、激しい時局批判をしたことによって、大きな事件に発展していくわけである。私の理解では、矢内原事件は、他の弾圧事件とは同列に並べることはできないものである。滝川事件、天皇機関説事件などは、当初支配的学説であったものが、時代が急速に軍国主義化したために、支配的勢力の許容範囲から外れてしまい、弾圧された事件である。だから、大学の歴史のなかで意味がないというわけではないが、滝川幸辰や美濃部達吉が、軍国主義的な政策を正面から批判したために起きたものではない。しかし、矢内原事件は、満州某重大事件から、一貫して軍部の批判を行い、また、植民政策の研究者として、自覚的に政府の植民地政策を実証的なデータに基づいて批判していたために、いずれ追われることは、誰にも予想されるところだった。そういう状況のなかで、どのように、矢内原は、時局を批判していったのか。
まず何よりも、専門である植民政策の研究からである。
「朝鮮産米増殖計画に就て」(『植民政策の新基調』所収全集1巻)と題する論文で、朝鮮における土地改良事業の実体を明らかにしている。最初、河田嗣郎博士の「食料問題と朝鮮の米作」という論文が、日本と朝鮮の米事情をともに発展させることが必要という論文を、好意的に引用しつつ、米増殖計画で起きた結果を統計的に示している。結局、灌漑等の施設の改良などを行って、米の増産は実現したけれども、朝鮮の人々の米消費量は減っていることを示し、次のような結果になっていることを明らかにしている。つまり結局は河田批判になっている。
(1)内地及び事実上内地人たる資本家階級の直接の利益に帰する。
(2)右の利益あるが為めには、少なくとも過渡期的には、朝鮮に食料問題を生じ、また、朝鮮人の生活を向上せしめず、却って之を無産者化するの虞がある。
そして、日本の議会で、このような影響について議論する人が現われることを願ったが、誰もいなかったと最後に書いている。
この書物の次の論文「朝鮮統治の方針」では、より直接的に、朝鮮統治そのものを批判する。植民政策は、従属政策、同化政策、自主政策の3つがあるとして、朝鮮統治が、同化政策であると規定して、同化させることは不可能であり、誤りであるとする。つまり、矢内原は、自主政策を推奨している。そのために参政権を認める、つまり朝鮮議会を設置することを提唱している。それは、日本のとったいわゆる文化統治路線での、制限のある半島における地方選挙を認めることではなく、より権限のある議会とその選挙を矢内原は主張している。
そんなことをしたら、朝鮮は独立してしまうではないかという危惧について、おそらく朝鮮の人はそうした方向をとらないだろうとしつつ、独立したとしても敵国になるわけではなく、協調していけば、日本にとって不利益ではないとする。結局、矢内原は、政治的に従属させる植民地を原則的に否定していたわけである。
第二に、徹底した平和の主張であった。矢内原は、現実に起こっている戦争に関しては、植民政策の立場から、詳細に取り上げ批判している。そして、彼の基本的認識として以下のような文章を見いだすことができる。
「戦争は国家の繁栄を来らすといふが、戦争によって国家を滅亡さしめた例も少なくない。又戦争は勇気とか犠牲とかの道徳を発揮せしむるといふが、戦争によって暴力及虚偽の悪徳が宣伝発揮せられる事は恐るべきものがある。戦争によって富む者もあるが、多数の庶民はこれによりて苦しむ。戦争に利益があるとしても、それは常に不利益の一面を伴うのであり、且つ之によって失う所は得る所よりも通常はるかに大である。之に反して平和は庶民を安らかならしめる。そして、庶民が安らかであることは国家繁栄の基礎であって、国家の繁栄ということは民の安らかである事以外には求める事が出来ないのである。又勇気犠牲の美徳は平和の中にあっても十分養われる。相互扶助の為めに行われる勇気と犠牲は生存競争に置いて現われるものに勝りて強く美しい。」(「平和について」全集18 253-254)
軍国主義化していく中で、『民族と平和』『民族と国家』などの著作をだし、平和を訴え、戦争政策を批判していった。そして、その究極の批判が、「神の国」と題する講演だろう。無教会派のキリスト教徒であった藤井武の記念講演会での講演であるが、当初公表しない予定であったが、個人雑誌『通信』に発表し、官憲の目にも触れることになった。
「今日は、虚偽の世に於いて、我々のかくも愛したる日本の国の理想、或いは理想を失ったる日本の葬りの席であります。私は怒ることも怒れません。泣くことも泣けません。どうぞ皆さん、若し私の申したことが御解りになったならば、日本の理想を生かす為に、一先ず此の国を葬ってください。」(「神の国」全集18 653-654)
実際に、大日本帝国は滅び、新しい日本に生まれ変わったわけである。(戦後は次回)