丸山が、突如として有名人になったのは、1946年3月に執筆し、『世界』(岩波)の5月号に掲載された「超国家主義の論理と真理」である。しかし、矢内原は、終戦からまだ間もない1945年10月に、長野県木曽福島の国民学校において行った講演「日本精神への反省」で、戦争をもたらした「日本精神」の分析を行っている。これは、11月の講演「平和国家論」と合わせて『日本精神と平和国家』と題する岩波新書として、12月に公刊されている。矢内原が東大に復帰したのは11月であるから、最初の講演はそれに先立っている。つまり、矢内原は、戦争が終了して、直ぐに自由な身分のままで、戦争をもたらした日本の精神構想の分析を行い、その対策を示していたのである。丸山は、論文の最初に、日本国民を戦争に駆り立てたイデオロギー的要因の実体について、「十分に究明されていないよう」だと書いているが、「十分」であるかどうかは、個々人の主観であり、レトリックのようだから、まだまったくなされていないと言いたかったのだろう。しかし、それはあまりフェアではないといえる。
ここでは、戦後間もない時期に、矢内原と丸山がそれぞれ行った「戦争に駆り立てた」あるいは「戦争を支えた」日本の「精神」や「論理」の分析を比較検討してみよう。
まず矢内原を検討しよう。「日本精神への反省」と題する講演で、国民学校で行ったものなので、非常に簡明であり、わかりにくい部分はない。(全集19巻のページを示す)
民族精神は、歴史的に変化するがそれは二つの方向がある。外圧への抵抗として「原始的精神への復帰」と、新しい事態に新しい要素を加えて発展する場合である。(10)矢内原が書いているわけではないが、その変化は、江戸時代から明治に、両方が起こったと考えられているように思われる。では、どうやって民族精神を知るのか。ひとつは、共通の感情を観察すること、そして、典型的な人物の思想を分析することである。前者は、大衆的な民族意識を知る方法であり、後者は、民族精神の理想像が描かれる。(11)
では、矢内原の考える「日本的精神」の端的な表現は何か。それは有名な西行の歌だ。
何事のおはしますかは知らねども
かたじけなさに涙こぼるる
伊勢神宮に参拝したときに詠んだものとされるが、これが「日本精神の発露」とされる。ここには、「祈り」という長所と、「知らないのに」感激してしまうという短所が、ともに示されている。(14)
「祈り」とともに「清浄」が日本精神の中心となるのだが、思想として体系化したのが、本居宣長であるとする。
江戸時代の正統の思想である「儒学・朱子学」に対して、国学を体系化した宣長であるが、基本は、この「祈り」と「清浄」であり、それを具体的に日本の「古典」から導き出す。後世に影響を与えた側面は、日本を「基つ国」として、選ばれたものと考えた点にある。(21)
では、なぜ「基つ国」なのか。米がとれること(米は他の穀物に比べて栄養価が高いと宣長は考えた。)、そして、中心に天皇がいて、一貫した系統であること、つまり、王朝の交代がなかったことによる。
さて、このように簡単に整理したあと、矢内原は、宣長の思想の批判を行う。もちろん、その批判は、宣長批判それ自体ではなく、宣長の思想が昭和において与えた「思想的特徴」として批判している。(24-30)
第一に、現状是認の思想であるということ。これは、神の概念に因っている。古事記の世界では、神は多数存在し、神と人間の区別があいまいである。しかも、神のなかにも、善い神と悪い神がいる。これでは、いかなる事態が起こっても、何かの神が対応していることになり、神がやったことだから、批判がおきる余地がない。もともと、宣長は、批判したり、論理的に思考することを、カラゴコロとして退けていたわけであるが、それが、神の認識と相まって、常に現状肯定になるというのである。軍部の暴走にずるずると引きずられていったことへの批判であろう。
第二に、責任の観念がないこと。いろいろな神がいるということから、善悪の明確な識別がないことになる。だから、善人が不幸になったり、悪人が幸福になったりすることを、ごく当然のことのように扱い、深く掘り下げない。しかし、この問題は、古来の哲学や宗教は、非常に大きな問題として考察してきたことであるのに、宣長は、考察すべき課題と考えない。
第三に、以上のことから、理想の追求という姿勢がない。
以上のような本居宣長の思想が、昭和に大きな影響を及ぼしていると矢内原は考える。では、その太平洋戦争時の日本精神の特徴とは何か。
・日本的科学なるものを押し出したこと。
・国体の押しつけ。神社参拝を強要し、特に、植民地である朝鮮において、それは深刻な問題をもたらした。
・特攻隊の実施。特に特攻隊員を神と扱うこと。(38)
こうした精神の特質から、何故日本は戦争に負けたのかという理由をあげる。
・官僚の腐敗。それは責任感の欠如であった。
・国民の道義の低下。善悪の区別のなかった宣長思想の表れである。
・科学の未発達。批判精神の否定。
太平洋戦争とその敗戦をもたらした要素は、いずれも宣長の思想とつながっているというのが、矢内原忠雄の分析なのである。
満州事変の収まりがつかなかったことが、支那事変、そして太平洋戦争へと拡大していったのだが、大東亜共栄圏などの標語は、途中で政治工作上の必要からもち出されたもので、そのために戦争したわけではないと批判したあと、次のように述べている。長いが引用しておこう。
「朝鮮とか台湾とかに於ける日本の政策を見れば、共栄圏理念の不明瞭・不徹底がわかる。大東亜共栄圏の理念をなぜ朝鮮台湾に適用しなかったのか。朝鮮とか台湾に於いては神社参拝を強要したり、創氏改姓と言いまして姓名を日本流に改めさせる。又朝鮮語台湾語の使用を禁ずるやうなことをした。最も著しくありましたのは、国民学校や中等学校の生徒を利用しました、創氏改姓や神社参拝を家庭に強要したのであります。姓を変えてこない子供は学校に入れてやらない。又は明日から学校にこなくてもよい。さういふことを言って、家庭の日本化を強要し、それが日本精神だと為したのです。ところが、フィリッピンやビルマやに対しては、それぞれの地方の民族を解放し、その生活の自主性を尊重することが日本精神だと言った。八紘為宇の国策と言っても、さういふ矛盾した政策が行われたのであります。」(47)
これは、戦争が終了して間もない10月の講演であり、東京裁判などで占領地の実情が暴露される前の発言である。矢内原がこのような話ができたのは、彼が植民政策の専門家であり、朝鮮や台湾の植民地政策を実際に調査したことがあるからである。
結局、宣長に代表される「日本精神」の特質としての「無責任」「現状追認」ということが、軍部によって日本全体が戦争に引きずられて言った精神的要因であるとするのである。
ここでは、矢内原は、宣長の思想の核でもある、天皇の問題をほとんど対象にしていないが、戦前、「日本精神の懐古的と前進的」という論文において、天皇の神性を否定しており、そのために軍部からにらまれることになったわけだが、この講演の時点では、「人間宣言」はなされておらず、触れる必要がないと考えたのだろう。矢内原にとって、人間宣言は、自分の主張そのものであり、やっと、まっとうな天皇像が示されたと受け取っただろう。
次に丸山真男の検討に移ろう。戦後比較的早い時期に、戦時の分析を行った文章は、実は「超国家主義の論理と心理」だけといってよい。(著作集3巻所収)
いままで何度も読んだし、今回も数回読み直したが、実は、他の戦前精神の分析が不十分であると批判しているにもかかわらず、私は、この論文が、超国家主義の「論理と心理」を十分に分析したとは思えなくなっている。
カール・シュミットを引いて、ヨーロッパの近代国家が、価値を含まない中性国家であるのに対して、日本の超国家主義は、中性国家ではなかったというところから分析が始まる。江戸時代は、精神的君主のミカドに対して、政治的実権者将軍がいて、二重権力だったが、明治国家は、そのふたつを一元化して、内容的価値の実体たることに支配根拠をおこうとしたというのである。(20)
丸山は、そうした一元的国家に対する抵抗として、自由民権運動とキリスト教をあげているが、前者は、一元的国家に収斂していき、結局は自由を軽くみていたから、敗北してしまう。後者は、国家との対決を回避した。その結果、戦前の体制は、自由、特に信仰の自由は事実上なかった。(22)
こうして、明治国家は、価値を内在する国家となったとするが、丸山は、では、明治から太平洋戦争にいたる国家が、いかなる「価値」を体現していたのかについては、その内容を示していない。一元的国家であることによる、支配機構の形式を分析することに集中している。
たとえば、以下のようである。
・私事の倫理性が自らの内部ではなく、国家的なものに合一化していた。その結果、国家のなかに私的な利害が無制限に入り込むことになる。(23)
・国家は国家を超えた道義的基準に服しない。主権者が自らの内に絶対的に価値がある。(24)
・官僚や軍人は、合法性ではなく、絶対的価値との距離によって決まる。遵法は下に対する要求であった。(28)
・皇軍の意識は、横の分業ではなく、縦の関係で決まる。そのためにセクショナリズムが支配した。(29)
こうした特質によって、次のような現象が起きていたとする。
国家を超えた道義的基準に服しないことから、如何なる暴虐も許されることになる。だから、俘虜に対する虐待などがおきるが、他方では、誰もが俘虜の待遇の改善に努力したと弁明する。慈恵行為と虐待行為が共存しうるのである。(27)
ナチは、開戦を「決断」したが、日本では、ずるずると引きずられて戦争に突入したのは、こうしたセクショナリズムと、いかなる部分も主体的な意識をもつのでなはく、上級の者によって規定されているという意識構造によって生じたものであり、それは、封建時代から引き継いだと、丸山は主張している。(33)
後年丸山は、この論文は、天皇制への決着をつけたものだという趣旨の解説をしている。引用しておこう。
「この論文は、私自身の裕仁天皇および近代天皇制への、中学生以来の「思い入れ」にピリオドを打った、という意味で--その客観的価値にかかわりなく--私の「自分史」にとっても大きな画期となった。敗戦後、半年も思い悩んだ揚句、私は天皇制が日本人の自由な人格形成--自らの良心に従って判断し行動し、その結果にたいして自ら責任を負う人間、つまり「甘え」に依存するのと反対の行動様式をもった人間類型の形成--にとっての致命的な障害をなしている、という帰結にようやく到達したのである。・・一行一行が、私にとってはつい昨日までの自分に対する必至の説得だったのである。」(15巻「昭和天皇をめぐるきれぎれの回想」35)
そして、天皇制からの呪力からの解放は容易ならぬ課題だったと書いている。
丸山の個人的意味は理解できるとしても、では、天皇制とは、骸骨みたいなものだったのかという疑問が残る。価値を内包した国家だったというが、その価値の中身は分析されていない。教育勅語が重要な意味をもったと書かれているが、しかし、教育勅語は、国家を支える、あるいは国家主義を支える価値の内容だろうか。一枚の紙に印刷される程度の文章であり、軍隊への説諭的な部分を除けば、常識的な道徳が書かれているに過ぎない。矢内原のいうように、太平洋戦争に引きずりこんだような日本精神が、本居宣長の思想が基礎になっていたというのが、正しいかどうかは別として、矢内原は、そうだと示している。しかし、丸山は、江戸時代に二重国家から一元国家になったとしており、一元化された国家の頂点にたつのは天皇であったわけだが、超国家主義の意識構造は、封建時代から引き継いだと主張している。江戸時代の天皇は、日本人を支配する精神を体現していたわけではないだろう。江戸時代の支配的な精神構造は、朱子学によって提供されていたことは否定しがたいし、皇国の思想、尊皇攘夷論などは、徳川幕府、封建制度を否定する思想であったはずである。明治以降の学校教育で、国民に注入された道徳は、武士道徳が中核であったことは事実だが、しかし、江戸時代の武士の行動様式が、丸山が分析する主体的意識によって行動しない無責任体制であったといえるだろうか。
結局、超国家主義とは、価値の実体がない「形式」だけが動かしていたということになるのだろうか。丸山が、そこをどう考えていったのか、次の課題としたい。