教育学を考える15 単元の配置について

 義務教育で学ぶ内容の大きな枠組みは、ほとんど国民の間で意見の相違はないように思われる。算数は不要だとか、自国の言語をきちんと学ぶ必要はないとか、そういう意見をもっている人は、まずいないといえる。しかし、細かな内容、例えば歴史の「慰安婦」などは、教えるべきだという人たちと、教えるべきではないという人たちが、長い間争っていて、双方が譲らないから、いまだに表面的には決着がついていない。こういう問題は、「教育の自由」という論点の領域で議論することといえる。(多様性のところで考察した。)
 教育内容に関しては、更に、ある内容が合意できるとしても、それをどう配列するかという問題がある。
 現在は主要な教授方法となっていないが、経験主義のカリキュラムは、教科という編成を採用しないので、教科によって教育内容を構成する場合と、基本的に異なる。現行の学習指導要領では、「総合的学習」が経験主義カリキュラムに相当するが、ここではとりあえず考慮の外に置いておく。
 私の知る限り、教材の配列に関する議論はあまりないように思われる。それはおそらく学習指導要領が「法令化」され、教科や単元の配列をあまりに明確に決定している時期が長いために、議論を起こしても、意味がないように感じられるからだろうか。柴田義松編の『教育課程編成の創意と工夫』においても、教育内容の系統性について論じているが、実際の単元をどう配列していくべきかという議論はなされていない。単元の配列問題は、系統性の議論では納まらない部分があるのだが、専門の教育内容研究者にとっても、それを論じることは難しいことなのかも知れない。そこで、私としては、「学年ごとの配列は必要か」という問題設定のみに限定して考察したい。

 最も細かく学年配当を決めているのが、「漢字」である。そして、これは国語教育にけっこう見逃し得ない悪影響をもたらしている。漢字の学年配当によって、文学教材が、原文のかな・漢字の書き方を変えられてしまう例が多いのだ。文学作品の「かな・漢字を作者は、無意味に漢字にしたり、わざわざかなにしたりするわけではなく、その表現意図に沿って決めているに違いない。しかし、ある文学作品が教科書に取り入れられると、教科書の学年の漢字配当にあわせて、書き換えられてしまうのである。文学的な意味などはまったく無視されているとしか思えない。習っていないのだから、当然だという考えもあるだろうが、まだ習っていない漢字ならルビをふればいいだけだし、かなで書いてあるのを、わざわざ漢字に書き換えてしまう意味などまったくない。習った漢字は、きちんと使えるように、などという指導を絶対視しているとしたら、それは文学教育としては、初歩的な謝りというべきだ。
 そもそも国語の内容に関する学年配当が必要だろうか。(おおざっぱな漢字の配列は、あってもいいと思うが、それを文学作品の書き換えまで適用するのは、よくない。)学習指導要領を読むと、かなり無理した作文を読まされる感じである。「話すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」という領域ごとに、学年があがっていくにつれて、高度になっていくわけだが、私には、ほとんど無意味な区別がつけられているように思われる。教えるときに、「かな」から入り、少しずつ易しく、身の回りにある漢字から入って、文字を教えていくことは、別に学習指導要領に規定されていなくても、誰だってそういう順番を守るだろう。無理に小さな違いを設けて、配列するのではなく、6年間の間に、どのような「話す」「聞く」「書く」「読む」力をつけるかを大枠として決めておけばよい。細かく決めることは、かえって、おかしな形式的理解や妙なチェックなどを喚起するのではないだろうか。そして、実際にどのように、学年にそって発展させていくかは、教師たちに任せるのがいいのだ。そういう風にしてこそ、教師の教授能力も向上するはずである。

 算数や理科はどうだろうか。
 算数は、「数と計算」「図形」「測定」という領域で、少しずつ内容が高度になっていく構成になっている。理科は、「物質・エネルギー」と「生命・地球」である。双方とも、それぞれの領域が、更に小さな項目に分かれ、それぞれが上の学年につながることになっている。私には、比較的ひとつの項目のひとつの学年での扱いが小さいように感じる。もちろん、これが適当だという考えもある。しかし、どちらが正しいかは、科学的根拠として決められるものではない。従って、その配列をめぐっての対立も生じている。
 単元の配列が大きな問題となっているのは、たとえば、「仮説実験授業」だ。「仮説実験授業」は、非常に優れた理科教育の方法である。しかし、現場にはなかなか広まっていない。教師が実践しようとすると、保護者によってクレームが付けられてできなくなることすらある。実際に私の子どもの担任が、そうした目にあった。今でも優れた仮説実験授業の教師として活躍していると聞いているので、安心しているが。
 仮説実験授業が優れていることは、子どもたちが、ほぼ確実に理科の授業を楽しいと感じるようになり、また、授業で解放される気持ちになり、そして、理科に対する理解が確実に深くなることでわかる。
 では、何故この優れた実践が、保護者や学校管理者に、よく思われず、中止に追い込まれたり、あるいは、極めて不十分な形で妥協して行わざるをえないようになるのか。それは極めて単純な理由で、単元を教える順序が全く違うからである。理想的に行うとすると、小学校・中学校で習うある「分野」を、仮説実験授業は、最も基礎的なところから、応用的なところまで、まとめて教えることになる。仮説実験授業は、授業書という自作のテキストがあるが、それは、単元ごとにひとつの冊子になっており、それをまとめた形で教えることを想定している。
 こうした配列については、やはり、もう少し緩やかな指定で、現行のような小さなまとまりでも可能だし、仮説実験授業のようなひとつの単元をまとめて扱うことも可能なような決め方があるのではなかろうか。

 私が日本の教育で配列に一番疑問を感じるのは歴史教育である。
 小学校6年生で一周、中学で一周、そして高校でまた一周する。段々詳しくなるが、高校であっても、それぞれの時代を深く学ぶことはない。なぜ、このような学びかたをさせるのか。ヨーロッパでは、むしろ、小学校では古代、中学で中世、高校で近代というように、だんだん時代を上がってくるような学びかたをすることが多い。だから、とても詳しく学ぶことになる。どんなことでも、薄っぺらの知識を学んでも面白く感じることなどはない。小学校の教科書は当然だが、中学の歴史教科書も、ごく重点しか書かれておらず、歴史の流れとか、背景を深く学ぶことはとうていできない。
 義務教育も考えれば、私は、小学校で古代から中世前期、中学で中世後期から現代までを学習し、高校は、いくつかの別の科目にわけて、選択可能にすればよいと思う。時代別にわけてもいいし、政治経済の歴史、文化生活の歴史なとのように、領域別に設定しても構わない。
 学校種があがるごとに、全時代を学ぶという方式は、歴史に対する興味をまったく喚起しないと思う。

 単元の配列には様々な種類がある。もっともユニークさで有名なのは、シュタイナー教育だろう。最初の8年間だが、エポック授業という基礎科目については、午前の授業で、ひとつの科目の単元を約一月連続して行う。日本の科目でいえば、算数の比例をやるとすれば、それを一月ずっと算数の比例の授業が続き、他の基礎科目はやらない。こういう話を学生にすると、それでは、前にやった同じ科目は、かなり経過してからやることになるので、忘れてしまうのではないかという疑問をもつ。シュタイナーによれば、忘れることは構わないのだ。本当に大事なことは、一時的に忘れたように思っても、必ず記憶に残っているもので、そのように残っている内容こそが重要なのだ。この方法のメリットは、一月継続してやるのだから、かなり深く理解が進むことだ。
 こうして考えていくと、学習指導要領のように、学年配列まで詳細に決めてしまうのは、教育方法の工夫を阻害するものであり、子どもたちの自由な発達にとって好ましいとは思えない。より柔軟な実践が可能なように、配列も大枠を決めておくことが好ましい。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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