敗戦直後、矢内原忠雄と丸山真男は、どのような言論活動をしたのだろうか。矢内原については、前に、敗戦後間もない10月の講演を紹介した。「日本精神への反省」で、戦争をもたらしてしまった日本人の精神構造を分析した講演だった。そして、11月には「平和国家論」(全集19巻)と題する講演を行っている。いずれも長野県の国民学校での講演で、主な対象は教師だった。「平和国家論」は、フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」とカントの「永久平和論」を素材にしながら、今後の日本建設のために必要なことを論じたものだった。つまり、東大教授に復帰し、本格的な活動を始める前に、既に矢内原は講演を復活させ、戦争を支えた日本精神の分析と、今後必要なことを示していたのである。
他方、丸山真男は、1945年には、戦中にも戦後にも公表された文章はない。丸山自身、大いに学ぶ機会でもあった庶民大学三島教室に参加したのは、46年2月以降であるから、やはり、45年の間には、公的な活動や論文の公表はなかったといえるだろう。しかし、『丸山真男講義録2』に、45年11月1日の日付が入っているメモが収録さている。「草稿断簡」と題する文章は、途中で終わっており、もし機会があれば、完成する予定だったかも知れないが、私の知る限り、この文章が、最も早い時期での戦後総括のひとつである。そして、その内容は、フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」を参考に、日本人の精神のあり方を考察しようとしているものだ。
つまり、矢内原も丸山も、敗戦後、日本人がどのように新たな事態に対して踏み出すべきかを考えるとき、共にフィヒテに立ち返っている。しかし、フィヒテの用い方には、微妙な差があった。
丸山は、日本の「あてがわれた自由」の矛盾にどう対応するのかを最初に問題にする。
「外国によって「自由」をあてがはれ強制された。しかし、あてがはれた自由、強制された自由とは実は本質的な矛盾である。自由とは日本国民が自らの事柄を自らの精神を以て決するの謂に外ならぬからである。」
ここでは、「独立」というよりは、「自由」つまり、「自らの精神を以て自分の事柄を決する」という「精神的自由」に重きをおいている。そうした精神的自由を獲得するためには、「血みどろの努力を続けなければならないのである」という。そして、こうした状況が、フィヒテが講演したときの状況と同じであるとした。そして、自由・平等・博愛の精神をもたらしたナポレオンに対して、プロシャは絶対主義の君主制国家だった。ナポレオンの軍隊が、瞬く間にヨーロッパを席巻したのは、迎えた地域の民衆にとって、ナポレオンは、自分たちを支配している絶対王政よりも好ましいと感じたから、民衆はどちらかということ、ナポレオンに反抗するよりも、歓迎したからと言われている。戦前の日本は、ヒトラーのドイツとムッソリーニのイタリアと同盟を結ぶ、ファシスト同盟の国家であり、それに対して、反ファシズムで民主主義国家のアメリカが占領政策を担っていた。だから、日本国民の多くは、戦争から解放されたと感じていたわけである。「あてがわれた自由の矛盾」などという、難しい感覚を、多くの日本人はもっていなかっただろう。しかし、丸山はそこに拘る。丸山が引用したフィヒテの次の文章の引用に、拘りの対象が示されている。
「若し国家の事を荷ふ精神が人民のなかに、人民の多数のなかに既に存していたならば、吾人は今日の如き境遇に陥って協議し合ふごときことには立至らなかったであらう。即ちこの精神はまだ人民のなかにはない。吾人は今よりこれを人民の心に導き入れなくてはならぬ。換言すれば、吾人は人民の多数をしてこの精神を抱かしむる教育をしなければならぬ。」
このあと、フィヒテは、「国家を自らの国家として感じ、国家の運命を自らの運命として受け取り、国家の動向に責任を以て関与する精神であり、それはただ国民大衆の自由な自発性、自主的な精神を前提としてのみ期待しうる」ような精神を、教育によって育成しなければならないと主張する。プロシャが負けたのは、自分さえよければ、利己心のせいであり、そういう人間は奴隷の状態さえ慣れてしまうのであり、昨日まで自国の権力者に阿諛迎合していたのに、たちまち外国人の前で卑屈さを発揮し、それまでの権力者に悪罵を浴びせ、戦争責任を追求する、そういう姿勢を批判しているとする。
これは、まさしく丸山が想定する当時の知識人の醜い姿が、フィヒテによって表現されているという丸山の解釈であろう。つまり、昨日まで軍国主義だったのに、今日は民主主義者になって、誰それを戦争責任者として批判する、そういう姿勢を「与えられた自由という矛盾」を感じず、「血みどろの努力」をしていないと非難する気持ちを表明したのだろう。やはり、丸山は、当時の知識人を念頭に、この文章を書き、彼等への批判を表現したと考えられる。
それに対して、矢内原は、講演対象が国民学校(今の小学校)の教師たちだったので、もっと広い国民的問題として論じている。
まず「敗北だ」と強調した上で、「軍事経済的のみでなく、道徳的においても我が国民は如何に脆弱であるということを暴露しつつある。政治も経済も外交も、日本の国は殆ど独立を失っている。精神に於いてすら独立を失う危険に曝されている」とまず述べ、少なくとも精神の独立は維持しなければならないとして、政治経済的独立を失っても、国民がどうやって精神の独立を守ることができるのかを、その後考察していく。
丸山と同じように、フィヒテが、ナポレオン軍に包囲されているベルリンで行った講演を取り上げる。フィヒテの述べている要旨を3点にまとめている。
1 従来の国民の考えを支配したのは利己心であるが、利己心の発揮でおのれ自身を滅した。利己心のために敗北したので、新しい人間を創造しなければならない。第一義的な存在は「理念、思索」である。
2 ドイツ国民は優秀である。原始国民であり、純粋性を保った国民である。
3 武器による戦争に負けたが、これからは徳の闘いになる。真面目さ、重厚さ、厳かさでは負けない。そのためには、敵の軽蔑を買わないことが大事である。軽蔑される原因となることは
ア 戦争責任について感情的な非難をあびせること
イ ドイツ的なものを捨てて、外国の思想に諂うこと
1については、丸山とほぼ同じまとめになっている。丸山はこの1で終わっている。丸山は普段から、原稿を書くときには、一気に書いたと言われている。あの「超国家主義の論理と心理」も数日で書いたという。従って、ここでやめたのは、少しずつ書いていこうと思って休止したというよりは、このままフィヒテ論を続けても、行き詰まると感じたからではないだろうか。私の勝手な想像だが。それは、2に「ドイツ人の優秀さ」が出てくることである。しかも、ドイツ人は、混血が少なく、純潔を保っており、言語などの統一性に優れた民族であると、フィヒテは述べて、ドイツ人の優秀性に、新しい人間の創造を託している。そのことが、ナチスとの同一性を感じて、丸山はその後続けることを放棄したと考えても不自然ではない。
しかし、矢内原はここで、ナチスとの比較を直接論じる方向で進んでいく。
フィヒテとナチスは確かに似た面がある。それは、
・ドイツ人の純粋性と優秀性を強調していること
・理念の力を強調していること
・教育を重んじていること
だが、相違も明確になるとする。
・フィヒテは自由のための闘いを主張したが、ナチスは領土拡大のための闘いを主張し、実行した。
・フィヒテの理念は哲学的・宗教的の本源性であるが、ナチスは、自然的、血の本源性を重視した。ナチスの理念は、キリスト教的な普遍宗教ではなく、ドイツ民族の神話の復興を強調した。
・フィヒテの教育については触れておらず、単にナチスの教育は、党内でのみ通用するような教育だったとしていた。
そして、結論的に、フィヒテとナチスは根本的に異なっていたとして、フィヒテ的な訴えを積極的に学ぼうとしたわけである。
このあと、矢内原は、カントの「永久平和論」を紹介し、その結果を踏まえて、新しい人間とは如何なるものであるのかを説明する。
フィヒテと同様に、今後の日本にとって重要なのは、「新しい教育の目標は何か」ということであり、それは「新しい人間をつくる」ということである。では、その新しい人間とはどのような人間か。
1 民草という言葉があるが、それではない。民草は風でどちらにも靡いてしまう。そうではなく、 真理のなかに生きているという自覚をもった人格である。
2 正しい日本人をつくる。外国の理念ではなく、日本の理念によることが重要で、 忠君愛国これも日本的だが、そうではない、揺るがない日本人が必要である。
3 平和人をつくる。平和は決して、柔弱な無気力な消極的なものではなく、平和こそ真に勇ましいもの、生産的なもの、厳粛なものである。そういう意味での平和の担い手をつくることだとするのである。そして、そういう教育をしてほしいと、国民学校の教師に語りかけていた。
結局、矢内原は、最初からごく普通の市民、そして教師たちに語りかけ、「靡かない」人間になる、そして育てる必要を説いたが、丸山は、知識人のあまりの節操ななさに怒りを感じて、それを表明しようと考えたが、思い止まったということだろう。「戦争責任について感情的な非難を浴びせること」が、軽蔑される要因であるというフィヒテの主張も影響したかも知れない。(丸山は、フィヒテについては、ナチスにつながる軍国主義者という見方には、戦前から与していなかった。)
丸山が、市民に近い感覚で発言するようになるのは、三島の学習運動に参加してからだった。