前回、集団の教育的価値と教育力について、簡単に整理したが、いわゆる「集団主義教育」が、何故、日本の教育運動から消えてしまったかに見えるのか、あるいは、事実として、集団主義教育を主張する人たちがほとんど見られないのか。それを今回は考えたい。
集団主義教育を主張する民間教育研究団体は、主にふたつあった。生活綴り方を推進する「日本作文の会」と、核班づくりを中心とする「全国生活指導研究協議会」( 全生研)である。もちろん、このふたつは現在でも活動しているが、少なくとも、集団主義教育を前面に出してはいない。外から見ている限りでは、やはり、活動に大きな変化があったように見える。(私は、この団体の会員ではないが、その主張や実践例は、大学の講義で毎年必ず紹介してきた。そして、基本的には、変化する以前の教育スタイルを、いまでも肯定的に見ていることを、まず断っておきたい。)
全生研の核班づくりの実践は、四国の教師であった大西忠治氏の提唱であったとされているが、私が、最も共感をもって読んだのは、加藤文三氏の『すべての生徒が100点を』と、能重真作氏の『ブリキの勲章』であった。
加藤氏の実践は、高校に合格することができず、高校に進学できなかった生徒を出してしまった反省から、それまでの教育方法を改め、それまで軽視していた暗記の重要性を認識したこと、それをすべての生徒が100点を取るまで、繰り返し試験の反復をするという手法を取り入れたものだ。班を活用し、班で放課後などを使って復習させる。既に100点をとった生徒がまだの生徒に教える。そうして、最後の生徒がとれるまで継続するという実践だ。講義で紹介すると、賛否両論がでるが、班として、班員全員の成果がでることに責任をもって協力をする。そういう意味で、集団主義教育のひとつの典型であろう。
能重氏の実践は、何度も鑑別所に入り、そこを脱走した生徒を受け入れたあとの実践である。ここでも班活動が重視されているが、加藤氏の実践ではあまり目立たない、「リーダーの育成」がはっきりと追求されている。組織が健全に機能するためには、やはりリーダーシップが重要であるが、リーダーは自然に育つものではなく、意図的に育てる必要があるというのが、 全生研の考えであった。
現在、こうした核班つくりを中心とした実践を、 全生研は推奨していないと思われる。現在の書物やホームページを見ても、そうした主張や実践例は、私が知る限りでは見られない。では、何故消えてしまったのか。それには、いくつかの原因があったと考えられる。
第一は、ソ連の崩壊である。 全生研の理論は、明確に、ソ連の教育理論家マカレンコの集団主義教育の理論を土台にしていた。それははっきりと明示されていたわけである。どの程度、マカレンコの理論が消化され、 全生研の実践に応用されていたのかは、私は、その専門家ではないので、詳細はわからないが、ただ、マカレンコの理論に基づいていると公言していたという事実が、その継続に対して足かせになったことは否定できない。ソ連の崩壊は、ソ連を支えていた諸理論の敗北であると、日本の社会主義理論家によって解釈された。社会主義理論が敗北したというのは、私は誤りだと思うが、少なくともレーニン主義が、それまでのように受け入れがたい状況が生まれ、ソ連で展開していた理論を、その後も依拠することは、できない雰囲気が醸成された。そのために、マカレンコは、否定されたというよりは、捨てられたといえる。そして、マカレンコと結びついていた「集団主義教育」という言葉も使われなくなった。
第二は、 全生研の核班づくりの実践は、多くの亜流を生みだしていた。 全生研の実践は、かなりの研究者の後押しもあったし、また検証の機会も少なくなかった。理論があったから、実践する教師たちは、理論を学びつつ、理論と実践の相互検証をする意識があっただろう。しかし、亜流の実践は、それぞれの場で独自に行われ、特に理論の勉強もあまりなされなかったに違いない。そのために、気をつけなければならない部分がおろそかにされることも多々あった。
実は、私が住んでいる地域で、我が家が移住してくる少し前に、中学生の自殺事件があった。その中学は、この核班づくりの亜流の実践を学校ぐるみで行っていることで有名だった。教師の指示で班長をいやいややっていた生徒が、班員からいろいろとクレームをつけられ、それに苦慮していた。担任に相談していたようだが、「頑張れ」といわれて孤立してしまった。そういうなかで自殺を選んでしまった。 全生研の理論のなかに、班におけるトラブルなどが、生徒の成長を促すというものがあるが、担任の指導が不十分だと、トラブルを班長が中心に解決することが期待されるから、適切な教師の指導が入らず、放置してしまい、悪い結果が生じる危険性が指摘されていた。そのマイナス面を受けてしまったといえるだろう。
ここまでの悲劇ではなくとも、トラブルが多いことが批判されていたという事情もあった。
第三に、核班づくりは、班競争をひとつの手法として取り入れることが多かった。加藤氏の実践でも、どの班が最初に全員100点を取るか、ということが、特別重視されていたわけではないとしても、競争があった。ずっと続いてきた過度な競争主義の教育への批判に対して、「競争」を前面に出す実践方式への批判があったことも、原因のひとつであろう。
これに対して、生活綴り方は、集団主義の教育ではあったが、マカレンコの理論を応用したものではなく、日本の戦前の教師たちが創造した実践方法であったために、ソ連崩壊が影響したとはいえない。違う原因で、集団主義的手法をとりずらくなったといえる。
生活綴り方は、戦前、科学的思考を教えることができなかった体制のなかで、唯一指導内容や方法が規定されていなかった作文を活用して、事実を見つめ、考え、表現するという最も重要かつ基本的な認識機能を高める手法として、教師たちが、独自に作り上げたものである。海外でも高く評価されている。当然、戦前は弾圧されたが、戦後「やまびこ学校」などを契機として復活し、科学的な認識を形成するための方法としてのみなず、生活指導上にも有効性を発揮するとして、教師たちが実践したし、多くの研究者に支持されていた。
日常的に作文を書いて、学級通信などで適宜選択されて印刷されていくが、学級で共有したり、あるいは解決する課題をもっている作文は、学級のなかで読み、感想をだし、共有する。それを媒介にして、課題が解決されていくことをめざした。
この手法が、個人情報保護法の制定とともに、保護者たちからの疑義が寄せられるようになり、子どもの作文を印刷して皆に配布したり、それをもとに討論する、というようなことが、非常にやりずらくなってしまった。もちろん、保護者や子どもたちとの信頼関係があれば、可能だが、大きな壁ができたことは否定できない。その後、次第に生活綴り方実践は、生活指導や科学的認識という契機を欠いた「作文教育」となっていったように思われる。
さて、こうした動向に対して、どのように考えるのか。
まず必要な視点は、ハンナ・アレントが指摘したように、プライバシーとは「奪われる」という語から出た概念であり、過度のプライバシーの強調は、人間相互のコミュニケーションを阻害する。個人情報とかプライバシーを無条件的に保護していると、学級という集団は、いかにも味気ないものになるし、集団の教育力を活用することができない。最初から、プライバシーを無視してはならないが、相互の信頼関係が成立するに従って、フライバシーという壁は低くならねばならない。もちろん、信頼関係が先行する。アレントのいうように、相互に多様な存在として認め合う関係になり、そこに自由な討論が成立するとき、人間的条件に近づく。生活綴り方実践は、そういう目標を掲げることで、単なる作文教育を越えることができるのではないだろうか。
まだ活発だったころの全生研や集団主義教育の文献を読んでいると、社会主義や階級の教育というカテゴリーから出発している。(明示図書『講座集団主義教育第一巻 集団主義教育の基礎理論』)こうした理論展開では、ソ連を始めとして、東欧諸国がこぞって社会主義国家として崩壊してしまえば、理論の説得力は喪失してしまう。しかし、集団の教育力を基礎にした教育学は、ソビエト教育学だけではなく、新教育運動の多数の理論にも見られるのである。「教育学」は、教育の最も基礎的なカテゴリーから積み上げていくべきもので、階級や社会理論からの演繹的な論理で構築するのは、間違っていたのではないかと、私は考える。
私が、教育学部に進学したときに、当時の学科主任は五十嵐顕教授で、その講義で最も印象的だったのは、公選制教育委員会の調査に関するものだった。ジャーナリズム的な説明では、公選制の教育委員会は、政治色の強い選挙になってしまったために、政党によって政策が決まり、そこに政治的対立が持ち込まれて機能しなくなった。だから、任命制に変えたというものである。もちろんこれは歴史的事実の説明としては正しくない。冷戦の開始による、日本の政治の「逆コース」の一環として、教育委員会そのものの「作り替え」が行われたのである。ただ、そういう説明ではなく、五十嵐さんは、公選制教育委員会の実際の働き具合を調査してみると、実は、政党による対立はあまりなかったということがわかる。つまり、当時はまだまだ学校の設備等の水準が極めて低く、なんとかして、学校の状態を改善したいという願いは、保守党であろうと革新党であろうと、ほとんど変わりがなく、そういう点では政治的党派の違いを越えて、協力しあっていたのだ、それが「実態」だったと、説明してくれた。
「自分が受けたい理想的な教育」を考えたとき、それは、階級的に異なるものだろうか。もちろん、教育に対する期待は多様だから、同じイメージではないだろうが、しかし、階級や階層によって規定されるとは、私は思わない。アスリートや芸術家をめざす教育も、学者をめざす教育も、対象は違っても、教育学的な論理は、重なっているのではないか。そう考えれば、社会理論として、階級を前提にしても、教育学理論としては、教育的な基礎カテゴリーから出発することが妥当である。そういう形で、集団主義教育の理論を再構成できないかと、私は考えている。