教育学を考える17 集団の教育的価値と意味1

 ここしばらく、教育について議論する場で、「集団」について考えてきた。ある参加者は、教育は個人の差を重視し、個人に応じた教育が理想であり、個人を無視した集団教育は、誤りであるだけではなく、気持ち悪いという。この議論にも、大いに頷ける部分がある。例えば、多くの日本人は、北朝鮮の軍隊の一糸乱れない行進の映像をみると、どこか気持ち悪くなる。そういう声を実際に聞く。しかし、スポーツとしての行進があり、様々な形を作りながら、かなりの大人数で行進する。これも一糸乱れずというものだが、これは、美しいと感じる。私はテレビで日体大の学生によるこうした行進の映像をみて、すごく感心した。同じ一糸乱れずの行進でも、気持ち悪く思ったり、感動したりするのは、何が違うのだろうか。ぴったり揃った行為として美しいと感じるのは、バレエの群舞なども同様だ。もし群舞で足をあげるタイミングや飛ぶタイミングが乱れたら、失望するに違いない。尤も、これは、感じ方が違うかも知れないので、深入りはしない。ただ、集団行動について、気持ち悪いと感じる感覚があることは、確認しておいてよいし、日本の教育は、気持ち悪さという集団行動がないかどうかは、省みる必要があると思われるからだ。

 Waveという映画を以前紹介した。(http://wakei-education.sakura.ne.jp/otazemiblog/?p=1472)歴史の授業でナチスの時代を教えるために、ナチス的な授業スタイルを取り入れたところ、生徒たちが過度に適応して、その教師を崇拝するようになり、トラブルが生じるという内容だが、実際にアメリカのある高校教師が行った実践が、小説となり、ドイツで映画化されたものだ。実は、これが日本で慣習的に行われている授業中に行う作法とそっくりなのだ。挙手するときの手のあげ方、答えるときの作法、授業開始と終了の挨拶など(日本では、さすがに手を斜め上にあげないが)形式をしっかり決めて、それを守らせる。日本の日常的な風景をみても、日本人はあまり感じないが、映画上でそれを見ると、妙に感じるし、日本的な教室作法が、実は、かなり特殊なのだということに気づく。アメリカ人は、こういうやり方をみて、気持ち悪いと感じたから、小説になったのだろう。映画を見た人の多くもそうだろう。
 全体主義の特質のひとつとして、「均整化」が言われる。これは、行動や外見(服装等)を同じパターンにしていくことをいう。そして、日本の学校のなかでは、「同質化圧力」と言われる雰囲気があり、かなり多くの均整化が実施されている。制服、同じスポーツウェア、鞄、スポーツバッグのような外的なものから、授業中の行動まで、教師の指示によって、同質なものにされる。
 私が学校に通っていた時期には、こうした同質化圧力は、まだほとんどなかった。いつごろからは判然としないが、挙手の仕方、違う意見のときはグー、賛成意見のときはパーとか、そうした意思表示も形を決めるなどのやり方が、少しずつ進行し、かなり広範なクラスで実行されているように感じている。そして、近年は、「考える」ことが重視され、「さあ、このことをとなりの人と考えましょう」という号令で、対話が始まり、タイマーがセットされて、3分たつとタイマーが鳴る。そして、「考えたことを他の人に伝えましょう」、誰かをつかまえて自分の意見をとうとうと述べる、タイマーが鳴る。こんな調子で授業が進むことが、非常に多い。そして、見事に同一様式なのだ。今や、クラスで揃っているのではなく、多くの学校で同じ行動パターンが普及している。これは私でも、気持ち悪いと思う。こうした「均整化」は、教室から無くすべきである。こうした行動統制をなくしたときに、本当に考えたり、自由に発表できたりするようになるものだ。
 では、集団の教育はよくないのか。もちろん、教育は集団的に行われるのが効果的であり、学ぶ集団を育成できる能力が、教師に求められる。しかし、近年、個別教育がベストであるとする風潮があり、特に学習塾は、多くが個別指導になっている。
 もちろん集団は、それ自体が教育的価値がある。それをここではまず確認しよう。
 第一に、集団自体に教育力がある。
 クラシック音楽ファンには有名なエルシステマという、ベネズエラのオーケストラ運動がある。既に数十年の歴史があるが、オーケストラに参加したい子どもは、誰でも、無料で参加することができる。4歳くらいから参加して、職業につけばやめていくし、そのまま音楽家になる者も少なくない。今ベネズエラは、大変な苦境にあるので、いろいろと制約はあるだろうが、国民的な運動なので、継続しているだろう。とにかく、ここから優れた音楽家が続々と育っているし、犯罪から子どもを守り、また、犯罪に手を染めてしまった若者だけではなく、刑務所に入っている大人も、エルシステマに参加することによって、かなり更生している。音楽的力を育てる力もあり、また、人間的な成長を促す力もある。
 通常クラシック音楽の楽器の練習は、プライベートレッスンから始まる。しかし、本人に才能がある、あるいは、教師に恵まれるという条件がなければ、なかなか上達しないものだ。個人的に練習しているから、上達もせず嫌になれば、多くはやめてしまう。ほとんどの人は、たいした上達をせずに終わるのである。
 しかし、エルシステマに参加すると、多くの子どもたちが上達し、また、楽しく練習する。それは、最初からオーケストラに参加して、集団で練習するからである。1万時間の法則という言い方があるが、何事も一人前の水準に達するためには、1万時間程度の練習が必要ということだ。もちろん、科学的な証拠はないが、経験的には、なんとなく正しい気がする。楽器の練習に限らず、初心者からの上達は、だいたい練習量にだいたい比例するものだ。もちろん才能の有無が影響するだろうが、いくら才能があっても練習しなければ伸びない。毎日、1時間練習すると、27年かかる。3時間だと9年、4時間で7年弱となる。個人で練習していれば、ほとんどは1時間以内の練習量であって、4歳から30歳を越えるまで継続しないと、それなりに弾けるようにならない。しかし、エルシステマに参加すると、毎日4時間一緒に練習するから、11,2歳でかなり一人前の水準に達する。普通の子どもたちが、毎日4時間も楽器の練習が可能なのは、一緒にやるからに他ならない。才能のある子どもは、更に続けるから、優れた音楽家が続々育つことも納得できるのである。集団には教育力がある。これがまず第一の集団の教育的価値である。
 第二に、集団には、個人で学ぶことが難しい教育可能性を提供することだ。それは、多様性を学ぶことだ。学ぶことのほとんどは、多様な解釈、多様な解答がある。数学のように、正解がひとつある領域でも、解法は複数あることが多い。そのような多様性こそ、人の柔軟な思考、知識を可能にするのであって、個人的な学習では、そうした多様性に触れる機会は少ない。また、多様な意見をぶつけ合う討論はもちろん不可能である。それは、コミュニケーションも個人ではできない。協力し合うこともできない。従って、集団は教育にとっては、不可欠の要素なのである。
 このように書いていけば、ほとんどの人は、集団の教育的価値を認めるだろう。しかし、かつて集団主義教育を標榜していた、民間教育研究団体は、あまりそれを強調しなくなっている。その点こそ、考えねばならないことなのである。(以下つづく)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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