矢内原忠雄と丸山真男6 東大紛争と丸山真男

 丸山が、大学との関連でトラブルに巻き込まれたのは、一高生のときの逮捕と助教授のときの津田左右吉への攻撃的質問ぜめで津田を脱出させたこと、そして、東大を辞職するきっかけとなった東大紛争における学生との対応である。
 前のふたつは、既に触れたので、最後の東大紛争時の丸山の行動について考えてみる。
 東大紛争(中にいた学生としては、東大闘争といわなければならないのかも知れないが、既に50年経っており、より客観的に見る必要がある時期になっているのでそのように書くことにする)は、私にとっても、中にいて、私なりの活動をしたという点で忘れがたい事件である。尤も、私は当時1年生だったし、駒場の教養学部の学生だったので、丸山の法学部の動向は、ほとんど知らなかった。丸山に関しては、息子が日大の全共闘の活動家で、丸山真男とは対立しているらしいというような「噂」が聞こえてくる程度で、それ以外の情報には接していない。ただ、法学部の有名教授で、『現代政治の思想と行動』は、読んでいたので、名前はよく知っていた。ストライキが終わって、授業が再開されたあと、教養学部には、「全学ゼミ」という新しい演習科目が創設された。それまで教養学部には「演習」の授業はなかったし、原則、本郷の専門学部の教授が授業をすることは例外的にしかなかったのだが、専門学部の教授も含めて、特別の「演習」が設定されたのだ。大学紛争では何も変わらなかったとよく言われるが、こうした細かい点では変化があったし、私はこの全学ゼミを大いに利用させてもらった。東洋文化研究所の関寛治教授の演習と、社会科学研究所の石田雄教授の演習をとった。石田教授は、丸山真男の一番弟子と言われていたから、ときどき話題にすることはあった。休職した丸山の講義を一学期分石田教授が引き受けるということで、講義案の分厚い原稿を見せられたことがあった。おそらく丸山教授も、そういう原稿を用意して講義をしていたのだろうと思い、厳粛な気持ちになったものだ。
 こういう状態なので、私も丸山真男と大学紛争を考察するのは、あくまでも公表された文献を元にする以外にはない。しかし、昨年丸山と東大紛争にテーマをほぼ絞った研究書が出版されたので、事情はかなりわかるようになった。清水靖久『丸山真男と戦後民主主義』(北海道大学出版会)である。(刊行は2019.11)また、折々丸山がノートに書きつけたものも出版されている。(『自己内対話』)

 1967年の法学部における学部長選挙で丸山が選出されたが、健康問題で辞退し、代わりに辻清明教授が選ばれた。ところが、既に医学部ではトラブルが起きており、医学部で学生に対する処分が行われ、しかも、その内当日その場に居なかった学生が処分対象になったことから、全学的な疑問や怒りが沸き起こっていたようだ。その余波で68年3月の卒業式は中止になった。私は68年4月に入学したので、入学式が行われるかどうか危ぶまれたのだが、強行された。当日ヘルメットを被った学生が安田講堂を取り囲み、私たち新入生は入ることかできたのだが、なかなか大河内総長が現われない。そのうち外で騒ぎが起こっている怒鳴り声が聞こえ、服が相当乱れた大河内総長が舞台上に現われた。事務の人たちに守られて入場することができたと、怒りの声を震わせていた記憶がある。その後、処分問題があいまいになるのを防ごうと、闘っている学生たちは、機動隊導入を誘発する行為に出て、実際に機動隊が大学に入り、それに対して、全学の学生の憤りが巻き起こって、全学ストライキに突入することになった。当時は、警察が大学にはいってくるということに、ほとんど感覚的な反発が、ほとんどの学生にあったのだ。そうして、いろいろあったわけだが、年が変わったころから、入試をどうするかが問題となり、そのままでは入試中止になるという危惧から、授業再開への動きが教官や学生の一部から起り、授業再開派と、粉砕派の闘いになった。そして、全共闘は、それまでもいくつかの建物を占拠していたが、法学部研究室(研究室というが、実際には建物)もその対象とした。その際に、丸山が、「ナチスでもしなかった暴挙だ」と叫んだという噂が広まり、授業が再開していく中で、丸山も粉砕派の妨害行動(教室に閉じ込めて、質問攻めにする)にあった。そして、体調を崩し、入院し、そのまま完全復帰することなく、退職に至るわけである。
 
 丸山の学生に対する対応を考える前に、記録だけで東大紛争をみる人たちには分かりにくいことを、まず説明しておきたい。それは、1968年の秋になると、各政治セクトの学生(以外もいた可能性が高い)が、他大学からも大量にやってきて、建物を占拠し、朝、学生が来る前に、敵対するセクト同士で激しい武力行使(いわゆるゲバ棒で殴りあうらしい)をして、学内はそのために殺伐とした雰囲気になっていた。学外生もいたために、互いに知らない同士で、単なる敵愾心だけでぶつかり合っていたわけだ。私が所属していた教養学部でもそうだったのだが、本郷の専門学部のキャンパスでは、もっと陰惨な状況だったようだ。こうしたことが進行していたことを知らないと、学生が提起した問題に、東大教授たちが答えたのか、というようなことは、表面的なことで理解されてしまうと思うのである。教授などという存在は、ひ弱な肉体の持ち主がほとんどだから、ヘルメットをかぶった100名を越える学生に取り囲まれて、何時間も議論に突き合わされるのは、恐怖感じることもあったろう。もちろん、学生は、巷間言われるような問答無用な議論を押しつけたことは、おそらくあまりなく、可能な限り、冷静に教授たちを論破しようとした、あるいは、自分たちの主張の正当性を認めさせようと、弁舌で努力しようとしたと、私は思っている。しかし、学生と教授の受け取りには大きな相違があったと感じざるをえない。
 そういう中で、学生たちの中にはいっていって、激しく詰問したり、あるいは授業再開を妨害しようとした学生と、根気よく議論に付き合ったという点では、丸山は決して逃げていたとはいえないし、教授たちの中では、勇気をもって、また信念をもって学生たちと対峙したといえる。
 丸山の死後公刊された『自己内対話』(みすず書房)で、丸山に対する再開された授業への粉砕闘争の模様が、その後入院した病院内で書いたメモが掲載されている。丸山からの見方が示されているだけだから、全共闘側からは違う見え方があるだろうが、少なくとも、「論理」において、全共闘のメンバーが、丸山をやり込めたようには見えなかった。
 
 丸山は授業再開阻止の対象となったが、そもそも授業再開阻止闘争そのものが、あまり問われない論考が多いような気がする。大学は、そもそも授業をするところなのだから、学生がストライキをするということ自体が、冷静に考えれば、かなり異様なことだ。ストライキというのは、相手があって、相手に損害を与えねば力にならないが、教授たちは割り切ってしまえば、別に損害を受けることはないし、大学の教授のなかには、授業をしたくない人も少なくないから、この際やりたいことをしようという人も少なくないだろう。学生も授業を受けられないわけだから、かなり損害を受ける。(教職員のストライキにも同じようなことがいえる)従って、最大限問題を解決しようとし、ある程度目処がつけば、解除するのが当然なのだ。
 そして、学生がストライキを解き、授業再開に大学が合意すれば、それを阻止することは、教育を受ける権利を侵害することになる。丸山は、討論はいくらでも受けてたつが、授業時間以外にしてくれ、と阻止学生たちに要求したが、それを受けてたつ「阻止派の学生」はいなかったようだ。つまり、議論することではなく、授業阻止ということが至上目的化していた。だから、大学が通常の機能を取り戻せば、運動そのものが消滅するようなものだったのである。大学解体という言葉は、嫌というほど聞いたが、それは実質的にどのようなことだったのか、少なくとも学生であった私にとって、明確に示された記憶はない。また、私のクラスにも、大学解体や自己否定を主張した学生は多数いたが、授業が再開されたときには、ごく普通に単位を取得し、通常の東大卒のコースを歩んで行った者がほとんどで、「大学解体」や「自己否定」というイメージに相応しい行動をとった同級生がいたとは思わない。体を壊したことが理由であるとはいえ、大学教授を辞めた丸山のほうがずっと潔かったといえるだろう。

処分問題をどう考えるか
 東大全体が紛争に巻き込まれ、全学部が無期限ストライキに入った理由は、学内に機動隊が導入されたことだが、機動隊を導入する事態になるような原因は、やはり、医学部と文学部の処分問題だった。それは明らかに不当なものだった。それまでの矢内原の規定したストライキに関する処分とは、全く異なる形での処分だった。それは、当時はよく知られていたが、処分された医学部の学生のうち、処分事由となった事件の際、その場に居なかった学生が含まれていたこと、文学部では、教授と学生の間でトラブルが起きたとき、学生が教授に乱暴を働いたと認定されたのだが、乱暴は教授のほうもしていたし、それを一方的に処分するのはおかしい、という主張だった。医学部の処分については、ほぼ全学的に疑問がもたれていたし、おかしな処分であることは自明だったから、医学部教授会が処分を撤回するなり、いなかった学生の処分を取り消すなりして、全学に説明していれば、機動隊導入になるような事態を、作らせないことも可能だったのではないかと思われるが、医学部教授会、文学部教授会ともに、非常に頑なだった。しかし、丸山は、全面的ではないにせよ、学生たちの処分撤回要求については、理解し、そうした方向で動いていたように、私には思われる。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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