大分前の文章だが、山田順という方の「本当に医者が死なせたのか?「人工透析中止」問題で続く“偽善報道”への大いなる疑問」という文章を読み、かなり問題があると思ったので、再度書くことにした。(https://news.yahoo.co.jp/byline/yamadajun/20190320-00118973/)
題でわかるように、毎日新聞を中心とする人工透析中止問題の報道に「偽善報道」「エセヒューマニズム」という悪罵を投げつけている。 “人工透析問題再論” の続きを読む
カテゴリー: 時事問題
コメントへの回答 少子化と年金問題
コメント欄の質問がありましたので、それに対する回答です。コメント欄での回答が普通でしょうが、問題が大きいので、ここでかくことにします。
質問内容は以下の通りです。
では,謹みながら2点ほどお伺いしたいです。
1.個人の持論でもありますが,今後少子化により労働力がますます減少します。その代わり,AI(人口知能),又は外国人労働者が多く流入してくると思われ,国内の若者の立場(主に就職活動)が危ぶまれるかもしれません。若者の立場からの観点と,下記の問題の是非についてお尋ねしたいです。
2.ご存じのとおり,国民年金は,少子高齢化した日本において,若者が納金した国民年金が高齢者にそのまま行き渡る賦課方式が採用されています。少子化により,高齢者の年金受給を支えるための現役世帯から徴収する全体の保険料も減少し、世代間を支え合う持続性が危ぶまれています。この問題はどのようにお考えでしょうか。
大変難しい問題なので、きちんとした回答になるかはわかりませんが、不足分は再度書くことで補充していくことにします。
人手不足は単なる働き手不足ではない
少子化が進むから、労働力不足になる、というのは、一見正しいように見えますが、いわれている通りなのかと、吟味してみる必要があるのではないでしょうか。少子化は、既に何十年も続いてきた現象ですが、それでも大卒の就職状況は、ずいぶんと波がありました。今は、学生の就活がけっこう順調に推移して、比較的早く内定がとれていますが、つい数年前までは、就職がなかなか困難だったのです。大学として、なんとか就職率をあげようと、やっきになっていろいろな対策をとっていたものです。ここ2、3年は確かにかなりの人手不足になっていますが、こうした労働の需給関係は、決して人口動態だけできまるわけではなく、さまざまな要因で変動するものでしょう。 “コメントへの回答 少子化と年金問題” の続きを読む
交通事故再論 コメントへの返答
交通事故対策の問題として、道路に関する記事を書いたところ、コメントで、新たな事故が起きたが、それは、オランダのような道路状況だったら防ぐことができたのか、という疑問が提起されたので、続編を書こうと思っていたこともあり、それに対する返答を交えて書くことにする。コメントへの返事なので、「ですます調」がいいかとは思うけれども、新たなブログ記事なので、普段の「である調」にすることをお断りしておきます。
あらたな事故というのは、明記されていないが、おそらく、千葉県市原市で起きた事故のことだと思うので、それを前提に考えていく。この事故は、駐車場にとまっていた車を出すときに、右折か左折するところ、おそらくアクセルとブレーキを踏み間違えて、そのまま直進して、道路の反対側の公園の金網を破り、公園で遊んでいた園児たちを轢きそうになり、園児たちを守った保育士が重症を負ったという事故だった。
前回のブログ記事の最後の部分に、私は、以下のように書いた。
いずれにせよ、事故を防ぐには、ひとつの対策で済むことは絶対にない。
自動車自体の安全対策、道路の対策(拡張、歩道の整備、自転車の扱いの統一とそれにふさわしい道路状態の整備)、安全重視の信号。交通規制の徹底等々。そのなかでも、道路の作り方が、信号も含めて、最も重要だと思われる。 “交通事故再論 コメントへの返答” の続きを読む
失言は撤回ではなく、議論を
毎日新聞(2019.5.15)によると、自民党が「失言防止パンフ」を作成したのだそうだ。自民党内からも、恥ずかしいとの感想があったと紹介されている。戦後ほとんどの時期を政権担当してきた自民党の国会議員に対する、注意喚起の「題材」としては、確かに「恥ずかしい」と思ってしまうが、「いわなければいい」というような問題ではないように思う。毎日新聞は、あわせて、最近の代表的な自民党を中心とした議員、閣僚の失言一覧を載せているが、それをみても、「失言」の内容も性質は多様である。
メディアを賑わせた桜田義孝前五輪担当相のたくさんの失言も、いろいろある。
1500億円を1500円と言い違えたのは、ご愛嬌ものだが、石巻市を「いしまきし」と続けて言ってしまうのは、一般人ならともかく、復興のためのオリンピックを謳った行事の担当大臣としては、仕事に対する姿勢を疑わせるものだ。そして、「まだ国道とか交通、東北自動車道も健全に動いていたから良かった」という完全な誤認は、資質能力が欠けている証明であろう。近所のおじさんで、町内会の役員をやっている分には、場を和ませる人として人気がでるかも知れないが、大臣が勤まる人物ではないことを示す発言群だ。
こうした「失言」に対して、失言ではない「本音」が思わず出たという発言のほうは、もっと重大だろう。桜田氏の「東北道は健全に動いていた」というのは、単なる事実誤認であって、実際に、東北道が陥没して通れなくなっていたというより、一般車の通行をほぼ全面的に規制しており、緊急車両優先にしていたのを、政治家だから、通れたのだと思い込んだだけの話だ。 “失言は撤回ではなく、議論を” の続きを読む
事故を防ぐには、道路環境の改善が不可欠、ドライバーの注意だけでは防げない
池袋の事故の記憶がまだ新しいというのに、また大津での事故。池袋の事故では、高齢者の運転とアクセル・ブレーキの構造問題が主に論じられたが、今回は、どうだろう。集団登下校や保育園・幼稚園の外出の際の列に突っ込んで、大きな被害が生じる事故は、たくさんある。そして、原因も多様なのだ。
気になるのは、ドライバーの責任を問う声があまりに強いことだ。もちろん、ドライバーに何らかの過失があるから、事故が起きるのだろうが、事故を起こしたくて起こすドライバーは、ほとんどいないだろう。もちろん、飲酒運転とか、乱暴な運転とか、意図的に行う悪質運転は別として、ほとんどの事故は、不注意から起きる。しかし、不注意を個人の責任として無くそうとするのは、あまり効果的ではない。人間はどうしたって、注意が不足することがあるからだ。車を運転している者ならば、誰だって、はっとした思いを何度かしているに違いない。ドライバーが注意深く運転することを訴えることは重要だが、人間がある程度不注意をしたとしても、事故が避けられる、あるいは不注意そのものが起きにくいような道路環境を作ることのほうが大事ではなかろうか。そのような観点で考えると、日本の道路事情は、かなり悪いといわざるをえないのである。
その観点から、また、あくまで車の利用者の立場から、考察してみたい。
人に頼らないオランダの道路
参考になるのは、私はオランダだと思う。実は、1950年代のオランダは、実に危険な道路状況だったのだ。当時のフィルムをみたことがあるのだが、今では発展途上の東南アジアの道路事情のようなものだった。大量の車と自転車と歩行者が、混じった感じで動いている。当然事故も多かった。しかし、その後、オランダは交通事故が非常に少ない国のひとつとなった。 “事故を防ぐには、道路環境の改善が不可欠、ドライバーの注意だけでは防げない” の続きを読む
ポピュリズム考察 ゲッベルスと私3
ハンゼルの解説の検討に移る。
彼の解説は、極めて明確な一本のラインに貫かれている。ナチスと現代のポピュリズムは基本的に同じ性格をもっており、多くの国民の無関心がナチの台頭を許したのと同じ危険を、現代のポピュリズムに関する状況は示している。つまり「無関心」ということだ。ポムゼルのインタビューから教訓を引き出すとすれば、彼女のような状況に対する無関心な態度をとっていたら、大変になるということを知ることだというのである。
しかし、現在世界中でみられるポピュリズム政治家が示しているものは、本当にナチと基本的に同質なのだろうか。そして、それに対する無自覚が支配的なのだろうか。
ナチは合法的に選挙で勝って、政権を手にしたのだといわれることが多い。しかし、それは適切とはいえない。選挙で勝ったのは事実だが、その選挙戦術は実に汚いもので、暴力で政敵を抹殺しようとするような、暴動に近いことを各地で行っていた。それこそナチに明確に反対する勢力に投票することは、命の危険すらあるという印象を与えつつの選挙戦術だったわけである。ナチが、大衆動員を得意とするポピュリズム的な政治ムードを作りあげることに成功したのは、政権をとって、ゲッベルスが宣伝省を務めるようになってからといっても間違いではない。
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学校教育から何を削るか8 部活
教育実習の研究授業を参観に行ったとき、元校長だったという人が教育委員会から派遣されていて、一緒に授業をみたのだが、そのあと、帰るときに、駅まで車で送るというので、車に乗せてもらったことがある。教育学者である私の意見を聞きたいことがあったようなのだ。車が発車するとすぐ、「部活についてどう思いますか?」と聞いてきた。私は、相手が元校長だというので、率直に持論を述べた。「部活は、以前は意味があったと思うが、今では制度疲労を起こしている。学校教育としてはやめて、社会教育に移すべきであると思う」といった。すると、その元校長は、自分が校長時代、部活の顧問を見つけるのにいかに苦労したかを縷々述べ、部活がなくなってほしいというのだ。正直、校長がそう思っているというのは予想外だったので、少々驚いたが、同志をえたと思われたのか、話がはずんだ。
部活は時代遅れである、現代に合わないということは、他のブログでも散々書いてきたし、授業でも、「そういう考えもある」という形で、見解を紹介してきた。本心そう思っている。
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いじめ防止対策推進法改訂論議 教師への懲戒処分??
4月26日の毎日新聞や東京新聞に、いじめ防止対策推進法の改正を目指す超党派議員による議論で、教師への懲戒処分の項が削除されていることについて、論議になっていることが報道されている。特に遺族の立場から批判がなされているという。2月に改正論議が報道されたときにも書いたが、今回は、異なる局面になっているので、再度書くことにする。2月には、「懲戒規定は必要だが、責任をとるのは校長である」という趣旨の文章を書いた。その後の議論で、教師への懲戒そのものを削除するという方向になり、それを批判する議論があるというので、そもそも、いじめによる被害に対して、だれにどのような責任があるのかということを、整理してみたい。
率直にいって、遺族の側から、教師を懲戒処分にすべきであるという議論が出ていることに、私には強い違和感を感じる。
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教育学ノート メーガン法とジェシカ法
メーガン法とジェシカ法をめぐる課題
新潟で起きた小学生の女の子を、比較的近所の若い男性が殺害した事件をきっかけに、新潟県議会が、性犯罪者にGPS装置を装着して、周囲が警戒できるようにすべきであるという要望書を採択した。同じような要望書は、以前宮城県でも提案されたことがあるそうだが、国会で議論して、法律として決定しなければならないから、現在まだその要望は実現していない。
この県議会の要望の採択をきっかけにして、私に某テレビ局の取材があり、その際、メーガン法とそれに関連するジェシカ法について調べたので、「子どもの安全をめぐる問題」として、整理しておくことにした。
性犯罪者を危険度に応じて、社会的に公表する「メーガン法」の議論は、過去日本でも何度かおきた。最初は、神戸のサカキバラ事件、奈良で小学校の女子が殺害された事件、そして、サカキバラが少年院を退院したときが、社会的に議論された。しかし、日本の警察は、メーガン法に乗り気ではなく、警察がデータを保持しておけばよいとしたので、実現させるほどには議論が盛り上がることは、これまでなかった。新潟県議会の要望書採択も、大きな話題になったとはいえない。
私は、講義でメーガン法をとりあげることがあるが、警察が採用しないという方針を示す前は、学生の多くは、メーガン法に賛成していたが、方針提示後は、だいたい半々となっている。権力による政策提示の影響力を感じてしまう。
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ポピュリズム考察 ゲッベルスと私3
『ゲッベルスと私 ナチ宣伝相秘書の独白』は、原題を忠実に訳せば『あるドイツ人の生涯 ゲッベルス秘書の話は、我々に対して、現代のために何を教えているか』となり、ゲッベルスの秘書の話から、教訓を引き出そうとする書物であることがわかる。そして、それを担当しているのが、ポムゼルの回想をまとめた上で、長い解説を書いたハンゼンである。
ナチが政権に至るまでと、政権をとっていた時代が、現在のポピュリズムをめぐる状態と似ているという前提で、ハンゼンは論じている。
彼のいう、共通点とはなにか。
第一に、敵をつくることで、国民をまとめようとしていること。ナチの敵はユダヤ人であり、現在のポピュリズムの敵は移民、イスラム教徒である。
第二に、その際に、宣伝やフェイクニュースを強力な手段として使用し、国民を欺くこと。
第三に、国民の多くが、そうした事実を知ろうともせず、事態が悪化すると考えたとしても、何らの行動もおこさない人が絶対多数であることである。
非常に説得力がある部分もあるが、また疑問をもたざるをえない面もある。
ポムゼルの告白そのものが示すのは、なんといっても第三の共通点である。前回までに紹介したように、ポムゼルの告白は、自分が、ゲッベルスというナチのナンバー2の間近にいながら、ナチの行った悪行について、ほとんど知らなかったといい、また、知ったとしても何もできなかったのは、誰もがそうだったのだ、という言い訳に終始している。もっとも、水晶の夜の事件とか、友人のエヴァが失踪したときなどに、異常を感じていたと述べているが、しかし、知らなかったとするのが、大部分である。
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