愛知トリエンナーレから考える2

 愛知トリエンナーレにおける「表現の不自由展 その後」の中止を検討する委員会が発足し、議事録が公開されている。準備の問題や運営の問題、そして、責任等について議論されているが、そうしたことは、様々に議論されているので、ここでは、別の点について考えたい。それは、慰安婦を描いたとされる「平和の少女像」を、批判する人たちが、それを見たことがあるのかという点である。おそらく、韓国やアメリカで実物をみたことがある人以外は、みたことがないに違いない。日本には、展示されていないはずだから。
 こうしたことは、実は少なくないように思われる。デンマークでムハンマドの風刺画事件が起きたとき、イスラム国家の多くで暴動や抗議デモが行われた。それを実際に現地に赴いて、抗議に参加したり、あるいは指導者にインタビューをするドキュメンタリーがあった。そして、インタビュアーは、彼らに、実際にその絵を見たことがあるのかと質問する。すると一人の例外もなく、「見たことはない」と答えるのである。そこで、実際に絵を見せる。もちろん、その絵は、当初からムハンマドの風刺をするという募集で寄せられたものだから、イスラム教徒が見れば不快感をもたらすことは、ごく当然のものであり、見た彼らは一様に批判していた。しかし、見ての批判と、見ないでする批判とは異なるはずである。
 もうひとつ例をあげよう。
 私が学生だったころ、学園祭で、「橋のない川」の映画を上演した。当時は部落問題が激しい党派的な争いとなっていて、主に3つの部落問題にかかわる団体があった。「橋のない川」は、そのうちの1つの団体が支持する映画だった。そして、それはむしろ差別映画であると批判する団体があり、上映を強く批判するだけではなく、大人数で押しかけて、抗議行動をしていた。このときの学園祭でも、200人くらいの人数でおしかけ、上演をやめろと圧力をかけた。私は、自分の展示の場に説明要員としていなければならなかったので、その場にはいなかったのだが、あとで聞いたところによると、上映の責任者(私の友人)が、一人抗議デモをしている人たちの前にでていき、数名と話をしたのだそうだ。
 抗議側の論点はこうだ。
 この映画は差別映画である。つまり、この映画を見ると、差別意識が助長される。だから、見てはならないし、上映行為そのものが差別的な行為である。
 上映責任者は、「君たちは、この映画を差別映画だと認定しているが、私はまだこの映画をみたことがないのだから、自分の目でみて、判断したいのだ。また、そういう権利があるのではないか。」と反論した。
 それに対して、抗議側は、「足を踏まれた者の痛みは、踏まれた者にしかわからない。それと同じで、差別は差別された者にしか、その痛みはわからないし、差別であるかどうかも、わからないのだ。だから、差別的であるかどうかの判断は、差別されている者の判断に、差別されていない者は従うべきだ。」
 これで結局は平行線となり、そのうちに上映が終了してしまったので、暴力ざたなどになることもなく、引き上げていったのだという。ここがやはり、本質的に重要な点だろう。差別の痛みは、本当に差別された者にしか判断できないのだろうか。もちろん、真実の痛み、切実感は当人でないとわからないだろう。しかし、足を踏んだ側はわからなくても、側でみていた人間には、足を踏んだ側と踏まれた側を識別できるし、また、踏まれた側は痛かっただろうと、自分の経験に照らし合わせて、想像することはできる。そして、踏まれた側に味方をすることもできる。
 では、実際に見ることのできない現象の場合はどうなのか。つまり、この「橋のない川」という映画が、部落差別を助長するものなのか、あるいは、理解させるものてのか。部落差別をなくすための団体が、全く反対の見解をもっているのである。部落と無縁のところで生活している者にとっては、どちらが正しいかはなかなかわからないだろう。もし、差別的な団体が、これは差別ではないと主張し、差別をなくそうと努力している団体か、差別的だとしているならば、大方差別的な作品だと判断できる。(それも絶対的ではないが。) 
 しかし、この場合は、ふたつの部落解放を目指す団体の一方が、差別をなくすことを促進する映画であるといっているのに対して、他の団体が、差別を助長する映画であるといっているのだから、部落民ではない人間にとっては、直ちにどちらが正しいのかはわからない。やはり、実際に自分の目でみて、自分の頭で考え、双方の意見を参考にして判断する以外にはないだろう。
 映画をみている人が、もともと差別意識の強い人であれば、「橋のない川」のような映画をみることはないだろう。とすれば、この映画が差別意識を助長すると考える人たちは、映画をみたあとに、どこがどのように差別意識を助長するものであるのかを、分かりやすく説明すれば、それだけ差別に対する理解を深めることができるのではないだろうか。もし、これをみたら差別意識が助長されるからみるな、と言われれば、そういう人たちに対する不信感をもつのが自然でもある。やはり、自分の目でみて判断をすることを尊重する、また自分でもそういう姿勢をもち続けることが大事だろう。
 さて、肝心の愛知トリレンナーレ問題はどうか。長くなったので、次回にするが、やはり、すべての点で、事前の「説明」が不足だったのではないか。もちろん、充分に説明すれば、テロ予告としかいいようがない妨害がなくなったかはわからないが。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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