学校制度の分岐型と統合型2

  日本ではどのように進路選択されているだろうか。最初の進路選択は、受験である。受験は、いわゆる通常の学力によって選抜される。学力による選抜は大学入試まで続く。では、この学力による選抜は何故行われるのか。あまりに当然のこととして理解されているので、実はあいまいなのではないか。
 まず学校は学力を育てるところだと考えられているので、その水準を計る。では、何故学校は、学力育成が中心的課題なのか。歴史的な概観をすることも有効だろうが、ここでは省略する。学力は、支配層のために必要と考えられる教養に、近代的な科学の進歩が反映したものであり、その意味では、学力の水準の高い者に、高い教育を保障することは、合理的である。しかし、そうした学力は、いかなる仕事をする上でも必要であるのか、必ずしも必要とされない仕事もあるのか。「何故勉強しなければならないのか?」という子どもから発せられる疑問は、すべての仕事に、学校で学ぶ学力が不可欠であるとは、考えられていないからだろう。
 もちろん、学校で学ぶ内容は、「学力」以外の要素もある。体育や、音楽、美術、道徳など。これらは、よくよく考えると、極めて中途半端な学びとなっている。これらの教科で学んだ能力や資質を発達させて、専門家として成長していくプロセスは、ほとんどないといってよい。専門家になる人たちは、学校外で学ぶことがほとんどであり、いくつかのスポーツの場合には、部活である。さらに、学校で学ぶこととはあまり接点がない職業なども多数ある。各種ドライバー、芸人、動物飼育等等。これらの職業の適性は、どこで発見されるのか。あるいは発見する必要はないのか。もしかしたら、現在の学校制度は、そうした瑣末(?)な仕事の適性などは、対応外なのかも知れない。そうだとすれば、それ自体が、時代にあわない可能性もある。
 学校は、社会から独立した独自の価値をもった存在で、学校文化によって構成される場もあるが、基本的には、子どもや青年を社会で生活できるように、様々な知識を教え、資質を培う場であろう。ただし、社会とは、企業などの職業生活だけではない。人生を豊かに過ごすための能力や資質も大切である。そのような能力や資質を、どこまで学校教育に含めるのか、あるいは、多様な能力をどのように、学校種に振り分けるのか。
 ここで、ごく大雑把に、そうした振り分け原理を具体的な事例を参考にしながら考えてみよう。
 まずひとつの典型例は、アメリカの中等教育である。アメリカは、19世紀後半から、コモンスクールとしての中等学校を発展させてきた。中学までは、あまり選択のない共通科目によるカリキュラム構成が通常である。しかし、高校段階になると、世界的にコースが導入され、それが学校種として区分されることが多いが、アメリカは、地域総合高校として、通う高校が指定され、しかも、極めて大規模な高校になっている。いわゆる普通教科も職業教科も、おおく含んだカリキュラムをもっている。それは職業教科に限らず、普通教科においても、例えば、数学などは同一領域でも、基礎、応用など難易度が異なる科目設定がなされている。だから、取得可能な科目はかなり多く、そのなかから、自分にあった科目を選択していくわけである。日本にはもちろん、ヨーロッパにもこのような高校は存在しないといえる。日本にも、規模の大きな総合制高校はあり、かなり履修科目を選択できるが、職業課程の科目はほとんどない場合が多い。
 こうした総合制のコモンスクールと対極にあるのが、三分岐制度である。ドイツのギムナジウム、レアルシューレ、ハウプトシューレは、就学年限も異なるし、また、カリキュラムもかなり違う。そして、卒業後の進路が異なっている。似たような三分岐であるが、微妙に異なっているのがオランダである。オランダには、VWO,HAVO,VMBOという3つの類型があり、それぞれ6年、5年、4年と年限が異なる。実科的な職業教育を含む学校が、ドイツではレアルシューレで、オランダでは、BMVOという違いがあるが、最も違うのは、オランダは、相互移動が可能になっている点である。そして、これと表裏の関係にあるといえるが、ドイツではほぼ成績で振り分けられるのに対して、オランダでは、次第に成績中心になっているが、本人と保護者の意志が最終的に決める。少なくとも制度的にはそれが保障されている。
 これまで、総合制や単一型の学校制度が、民主主義的であるという議論が多かったのであるが、それは検討の余地がある。もちろん、かつてのイギリスのように、イレブンプラステストの成績で、ほぼ強制的に決められるのは、機会の平等原則に合致するとは言い難いし、しかも、経済的に余裕のある人は、パブリックスクールのような私立学校が入ることができるのだから、そこに経済的な不平等が入ってくることは間違いない。
 そして、イギリスのコンプリヘンシブ・スクールの場合、総合制であるにもかかわらず、なかにストリームというコース分化が導入されていることは、よく知られている。そして、それでも総合制なのかという批判がなされる余地がある。
 他方、学校で学ぶことが、学校種ごとに異なっていれば、学校のカリキュラムを重点的に構成することができる。日本は高校まで、基本的には単一の制度であるから、職業高校は別として、普通高校のカリキュラムは、かなり狭い領域をカバーしているに過ぎない。学校外で学ぶシステムが豊富に形成されており、アクセスが容易であれば、学校のカリキュラムが狭いものであっても、個々人が選択的に、多様な学びを実現できるが、日本の学校外の学びは、塾が圧倒的に多く、その他の習い事は、経済的負担が大きい。だから、学校教育のカリキュラム以外の個人の選択は、部活に向かうことになる。(部活の問題は、これまで何度も指摘した。)
 特にオランダのシステムは、選択可能性が高いことと、移動可能性が保障されていることで、学校種ごとの教育内容が相違し、かつ、ある程度の格の相違があっても、現在なおそれほど強い批判に晒されていない。ドイツの三分岐制度は、ドイツのPISAの成績が悪かったことによって、急速に二分岐制度に移行しつつある。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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