学校制度の分岐型と総合型

 最近は、教育問題として、学校制度が議論されることはほとんどなくなっている。いじめや不登校、きれる子どもたち、教師の過重労働などの具体的な問題が深刻になっているためだと考えられるが、実は、制度も事実上変化している。近年だけをとっても、義務教育学校という新たな学校種が制定され、小学校、中学校、高校という区分を越えて、小中一貫、中高一貫などの学校も増えている。中高一貫に関しては、中学と高校が連続して同一法人で運営されている場合と、中等教育学校のように、一体の学校との二種類がある。そして、高校には、普通科以外に職業科があり、更に、理数などに特化した学校もある。つまり、複線型学校制度になったわけではないが、単純な単線型ともいえないシステムに変化しているのである。そして、それは、いじめ等の学校の問題の背景的要因のひとつでもある。従って、学校制度のあり方は、教育の内実にも影響を与えることを無視すべきではない。
 元来、学校は階級や階層に対応したもので、特に身分制が明確な前近代では、まったく別系統の学校が複数存在していた。日本の江戸時代では、藩校と寺子屋である。支配層、上流階層のための学校と庶民の学校は、まったく別であって、移行などはできなかった。概して、支配層の学校は、大学などの高等教育機関に接続されていた。イギリスのグラマースクール、ドイツのギムナジウム、フランスのリセなどである。エリート教育機関は、概して古典的な教養を中心とする教育を行っていたが、庶民の学校は、それぞれが求める職業的な要請に従って、社会の発展段階に従って、多様な学校が存在していた。
 20世紀に入ると、先進国では初等段階を統一するようになる。日本のように、完全に統一的な小学校となる国と、イギリスのパブリックスクールのような初等段階から別系統の教育を行う学校が残存する国とがあるが、イギリスにおいても、大多数は統一的な小学校に通うようになる。そこで問題は、中等段階をどのように構想するか、大きな課題となり、それは、現在でも決着済みの問題とはいえないのである。
 第一は、能力や適性が現われるから、中等教育から、別のコースを用意して、それぞれの能力や適性に応じて進学するのがよいとする立場である。そして、通常編成されるコースは、学力の高い子どものための大学進学用の学校、技術系の職業に就く学校、そして、通常の労働者になる学校という三種類にわかれる。第一は、アカデミックな科目が重視され、第二は理数が重視され、第三はその他大勢という位置づけである。これは、個人の能力や適性を重んじているとみるか、あるいは、単に産業界や官界の要請を学校種に反映したものに過ぎないとみるか、見解のわかれるところである。
 この立場にしても、実際に能力や適性が現われてくるのは、いつごろかという見解の相違が出てくる。小学校終了時には明瞭であるとする立場もあるし、また、中等学校終了くらいまでは、明確ではないとする見解もある。
 そして、どのような能力で選び、誰が選抜するのかという問題を避けることはできない。
 実際に多くの国で起きていることは、第一のアカデミックな科目の成績がよいものが、まず第一の大学進学用の学校に選抜される、そして、その能力が下がるに従って、技術系が選抜され、残ったものが第三の学校に進学するというように、運用されていた。したがって、それでは能力や適性によってわかれているとはいえないという批判が生じるし、また、アカデミックな学力の肯定で選別がなされるとしたら、それは、平等な扱いとはいえないとする批判もでてくる。機会均等原則に反するという批判である。
 そうした批判意識をもつ人たちは、中等段階では分けず、それぞれの三種類の学校で想定されている内容をすべて含んだ、総合制学校を主張することになる。イギリスでは、コンプリヘンシブ・スクールであり、ドイツではゲザムトシューレである。イギリスやドイツでは、三分岐と総合制が地域ごとに異なり、全国的には、双方が並立している状態となっていた。また、フランスでは、前期中等教育をコレージュ、後期をリセという単一階梯の学校に改革したが、逆にオランダでは、総合制の学校は実現していない。
 では、総合制の中等教育学校は、批判点を克服し、更に能力や適性に応じた教育を提供しているのであろうか。そもそも、能力と適性に応じるとは、どういうことなのだろうか。言葉の意味通りの能力適性に応じた教育は、可能なのか。
 1960年代に富山県に「七三体制」という教育政策があった。職業高校を7割、普通高校を3割にして、職業高校を増やすという政策である。典型的な高校多様化政策であった。高卒採用を重視し、高卒段階である程度の職業教育を受けさせておきたいという、企業側の論理の反映である。しかし、現実には、職業高校への進学希望は少なく、結局、現在の高校は、圧倒的に普通高校が多くなっている。そして、職業高校ですら、卒業後直ぐに就職する生徒だけではなく、大学進学を希望する生徒がいるので、普通科目を受験用においている場合が多い。つまり、これは、子どもの側の能力や適性に応じたものではなく、雇用側の要求を、科目や選抜手法に反映させた政策であった。しかし、教育が社会への準備のための実践であるとすれば、小用側の要求を無視することが、正しい教育であるともいえない。
 また、社会が多様化し、新しい職業がどんどん生まれ、逆に消滅する職業も多数でてくる。そうした時代に、学校が社会への準備をするということが、どこまで可能なのか。学校ができる準備とは何なのか。
 こうした課題を考えていくと、日本の学校制度は極めて欠点の大きいものであることに気づく。(続く)

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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