名城大学で教員が刺される事件

 1月10日の夕方、名古屋市の名城大学で、准教授が学生に刃物で刺されたという。報道によれば、レポートをめぐってトラブルになっていたとか。今の時期だから、レポートのトラブルといっても、成績評価のことではないに違いない。提出期限とか、あるいはレポートの形式などで、受け取り自体を拒否されたというようなことなのだろうか。以前、中央大学でも構内で教員が刺された事件があったが、やはり、理工系だった。文系でレポートをめぐってトラブルになり、教員が暴行を受けたりということは、あまり聞いたことがない。文系の場合には、成績が就職に直結することは、ほとんどないと思われるが、理工系の場合には、そうした面が文系よりは強いに違いない。だから、成績は重要な意味をもつのだろう。
 あまり参考にはならないが、成績に関するトラブルは、起きないに越したことはないので、一応は気をつけている。 “名城大学で教員が刺される事件” の続きを読む

『教育』2019.12号を読む 「黙」の強制

 『教育』2019.12号の第二特集が「学校にしのびこむ『黙』」である。ここには、5人の論考が掲載されている。
・安原昭二「黙食・無言清掃がもたらすもの」
・霜村三二「黙を強いられる学校現場の声を聴く」
・内海まゆみ「子どもが食を表現するとき」
・北村上「無言清掃と藩閥意識」
・山本宏樹「無言清掃はどこからきたのか」
 煩雑になるので、どの論考かはいちいち示さないが、すべてここに書かれていることを紹介しつつ、考えていくことにする。
 日本の学校には、摩訶不思議な慣行が少なくない。黙食、黙働は、その最たるものだろう。食事は、多人数でおしゃべりしながら食べるのが、最も消化によく、健康的であることは、常識となっている。にもかかわらず、給食を食べるときに、会話をしてはいけない、というのが黙食であるから、これは、まったく常識に反する不健康なことなのだ。確かに、学校には、この他にも、「黙」が強制される場面が少なくない。ここで紹介されている一例だけみてもわかる。
・無言でじっくり朝読書
・集会の整列や移動は無言ですばやく
・無駄な話はせず無言で清掃
・無言で給食

余った給食持ちかえり事件

 ネット上でかなり活発に議論がなされているようだ。最初に新聞で報道されたときから、もちろんひっかかるものがあった。
 定時制高校の教諭が、主に欠席の生徒の給食を持ち帰っていたことが、通報による発覚し、持ちかえった分の費用を返済したあとで依願退職したというものだ。依願といっても、実質的には処分だろう。
 他の誰も知らず、教諭が無断で持ち帰ったとしたら、法的には窃盗にあたるというのは、間違いない。ただ、現時点で窃盗罪で逮捕されたりしているわけではないようだ。しかし、ネットでは、処分に否定的な見解が多く、いいこととは言わないまでも、悪いことをしたとはいえないという見解が多い。コンビニで捨てるくらいなら、従業員が持ちかえってもいいではないかという感覚と同じだろう。
 定時制高校というのが、ひとつのキーワードとなるだろう。当然欠席が、通常の学校より多いわけで、給食はそっくり余ることになる。さすがに、おかずなどは出席した生徒たちが食べるのだろうけど、パンとか牛乳は手つかずのまま残る。とすると、そういう残ったものを、どのように処理するかというコンセンサス、あるいは規則がなかったのだろうか。 “余った給食持ちかえり事件” の続きを読む

『教育』1987.3を読む 30年前の部活問題

 今回は、以前の『教育』1987年3月号で、この485号目で初めてスポーツクラブの問題をとりあげたということだ。この特集は30年も前のものだが、ここで指摘されていることは、今でも大きな問題であり続けているものがほとんどであることに驚く。もっとも多少変わった点もあるのだが。
 最初に、正木健雄(体育学の専門家、大学教授)の「子どものスポーツ・『部活動』を考える」を取り上げる。正木氏は、ずっと子どもの身体の変化について調査をしており、身体能力の様々な面での低下を指摘している。
 文部省は体育に力をいれており、現在では更にその傾向が強くなっている。そうした力のいれ方にもかかわらず、当時の子どもたちは、背筋力と柔軟性が低下していると指摘している。正木氏は、いつも、このふたつの身体能力が人間としての生活に、非常に重要であると考えていた。背筋力は、姿勢を真っ直ぐに保つ上で必須の力であり、背筋力が弱くなると、猫背になり、健康上の問題が起きるだけではなく、次第に、歩行などにも影響が出てくる。柔軟性は、人間が活発に動くために必要であり、柔軟性がなければ、動作そのものが制限されてくるし、危険に対する対応力も低下する。だから、正木氏は、いつでもこのふたつの能力の状況を問題にしていた記憶がある。
 それから、最近増えているからだのおかしさとして、「ボールが目にあたる」という項目があがってきていると指摘する。 “『教育』1987.3を読む 30年前の部活問題” の続きを読む

『教育』2020年1月号を読む インクルーシブと特別支援を深く知る

 大分『教育』の読後感を休んでしまった。また、できるだけ頻繁に書くようにしたい。
 さて、今回は、特集1が「インクルーシブと特別支援を深く知る」となっている。私は、特別支援教育の専門家ではないので、これまで、いろいろと勉強したり、また、特別支援学校の授業を見に行ったりしてきたが、依然として、よくわからないというのが正直なところだ。記述式問題を出すのはいいが、50万人もの答案をわずかな期間で採点できるのか、というようなことと、似た困難が、現場には無数にある。大学を卒業して教師になったとき、ほぼ全員が直面する事態が、教室のなかにいる障害をもった子どもを、どう教育したらよいのかわからず、暗中模索するという点である。ベテランになったから、充分にできるようになるというものでもない。多くの場合、介助や支援をしてくれる人がついているわけではないから、常識的にイメージされる「授業」は不可能になっているわけだ。「ともに学ぶ」という理念はいいことだろうが、それを保障する条件がないままに実行すれば、現場を預かっている人が、とにかく苦労する。そういう実状が、かなりあることは、誰も否定できないだろう。 “『教育』2020年1月号を読む インクルーシブと特別支援を深く知る” の続きを読む

小中学校2学期制再ブレーク?

 12月14日毎日新聞に「小中学校・2学期制、再ブレーク? 「通知表3回もらえぬ」不人気一転… 年35時間増、授業確保に有効」という記事が載っている。働き方改革が進むなかで、新学習指導要領で増加した授業時間数をこなすには、2学期制のほうがよいということで、人気が復活しているという記事である。何故、授業時数を増やせるか、働き方改革になるかというと、始業式、終業式、通知表の回数を減らすことができるということのようだ。
 これまで、通知表を夏休み前にほしいという保護者の要望があり、2学期制は不人気だったのだが、現場で望む声が多くなっているということだろうか。文科省によると、2018年度では、小学校19.4%、中学校018.6%が2学期制だが、記事によれば、来年度からはもっと増えるということだ。
 しかし、働き方改革をしようという姿勢はわかるが、すっきりしないものを感じる。 “小中学校2学期制再ブレーク?” の続きを読む

給特法改正案が成立 これで教師の過剰労働が解決するとは思えない

 教師の過剰労働の深刻さは、待ったなしである。というと、必ず「いや、まじめな教師は大変だが、教師はさぼろうと思えばかなり楽な仕事で、楽している教師もたくさんいる」という議論が出てくる。確かに、それは間違いではない。授業は毎年同じようにやれは、それほど準備をしなくても、なんとかこなせる。係などもできるだけ引き受けない。義務ではない仕事も引き受けない。そうすれば、楽な仕事だ。実際に、勤務終了時間になるとさっさと帰ってしまう教師もいる。また、生徒間のトラブルや保護者対応なども、真剣に取り組まないと決めこんで、関与しなければ、ストレスもたまらないに違いない。
 教師には超過勤務手当がないかわりに、超過勤務を命令できる項目は、「生徒の実習関連業務・学校行事関連業務・職員会議・災害等での緊急措置など」と定められており、厳密にいえば、これ以外は拒否できる。もちろん、部活の顧問なども断ることができるので、最近はなり手が減ってこまっているわけだ。
 楽をしようと思えばできることがわかる。しかし、多くの教師は教職に対する誇りと情熱をもって取り組んでいると思う。 “給特法改正案が成立 これで教師の過剰労働が解決するとは思えない” の続きを読む

教師免許希望者が減少 その理由を考える

 以前、教員採用試験で志願者が減少しているという話題について書いたが、今回は、そもそも大学において小学校教師を目指す学生が減少しているという話題である。私の勤めている大学は、教師の養成で有名で、教師を目指す学生がたくさん応募する。私の所属している学部は、教育学部ではないので、純粋に教師養成の学部ではないが、教師の免許が取得できるので、教師をめざして入学してくる学生が多い。しかし、ここ数年来、明らかに異変が生じている。 “教師免許希望者が減少 その理由を考える” の続きを読む

高校必修科目に古典は必要か?

 題名のようなシンポジウムがあり、その記録に論評を加えた本が出版されているそうだ。そのダイジェストを紹介した文書を読んだ。「高校必修科目に古典は必要か、あなたはどう思う?」という西野智紀氏の文章である。https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58339?utm_source=editor&utm_medium=mail&utm_campaign=link&utm_content=list
 シンポジウム当日は、否定派、肯定派二人ずつ意見を述べたそうだ。しかも、否定派の人も微妙に意見が違うし、肯定派も同様。
 理工系の教授である猿倉氏は、必要なのは「論理国語」で、古典教育は、年功序列や男女差別を刷り込むツールとなっているので、有害だと主張しているという。最も、だから削除せよということではなく、選択の芸術科目にすべきという見解のようだ。
 元東芝の前田氏は、同様に、論理的な文章がかけるようにするリテラシーの教育が必要で、古典は選択にし、現代語訳で充分という意見。
 肯定派は、社会系の教授である渡部氏は、古典は、主体的に生きるための知恵を授けるものということで、情理、複雑な心理状態、自分を見つめる方法を教えてくれるとする。
 文学部の福田氏は、自分の国の文化を知る権利があり、知の世界に入り込め基礎が古典であるとする。伝統芸能を大切にする日本の姿勢は貴重であると評価する。
 このあと討論になるが、どうやら、肯定派が不利な感じで進み、それは、反対論に対する更なる反論をしないことで、露になっているという。 “高校必修科目に古典は必要か?” の続きを読む

大学入学共通テスト 記述式問題はやめるべき

 以前にも書いたが、最近いろいろな団体が、大学入学共通テストの記述式問題をやめるべきだという主張をしているので、同意の意味で、何故やめるべきなのか、詳しく書いてみる。
 試行テストで、記述式の問題が出ているが、はっきりいって、記述式としての意味をなしていない。通常の解釈問題で、選択肢から選ぶ問題とさして違いがないのだ。こんな問題を「記述式がある」という触れ込みのみの意味しかもたない一方、膨大な採点業務が発生し、しかも、公平な採点がなされのかという不安もつきまとうようなテストになる。積極的な意味を見いだすほうが困難だろう。
 入試センターが実施する試験において、記述式問題をいれるべきでない理由は主にふたつある。 “大学入学共通テスト 記述式問題はやめるべき” の続きを読む