管理教育・体罰・懲戒

 教育実習を行った報告を聞いていると、ここ数年荒れた中学が増えてきたような気がする。もちろん、80年代の校内暴力が吹きあれた時代ほどではないが、学級崩壊している状態、つまり、たち歩く、教室から出てしまう、教師のいうことを聞かないなどの状態である。また、実際に教師になった卒業生が、学級運営に苦労して、学級崩壊寸前までいってしまったという話も、ときどき入ってくる。
 朝日新聞の記者であった佐田智子が書いた『新・身分制社会 「学校が連れてきた未来」』(太郎次郎社1983)の一部を読みかえしてみた。新・身分社会とは、いうまでもなく、学歴が新たな身分社会を作り出しているという意味であるが、この本の「管理のなかの自由と平等-教育の構造が生みだす校内暴力」という章に関してである。
 通常の理解では、1970年代に大学紛争が高校にまで及び、70年代と80年代を通じて、校内暴力が吹きあれた。それを、体罰などをもちいた管理主義を徹底させることで押さえつけ、全員加盟制の部活などで、さらに生徒たちを縛りつける教育が進行した。その結果校内暴力はおさまったが、いじめや不登校などの問題が生じた。今度は、「ゆとり教育」でストレスを緩和する教育で対応しようとしたが、学力低下をもたらしてしまい、ゆとり教育は失敗した。そして、学力重視の現在に至っている、というような大きな構図が描かれている。
 こうした見方は、大筋で間違ってはいないのだろうが、実は重要な間違いもある。たとえば、「ゆとり教育」が始まったのは、長時間労働への国際的な批判をかわすために、5日制を導入するという、労働政策から始まったものである。しかし、この構図の検討ではなく、80年代の佐田が描く「管理主義」と、現在の学校の荒れへの対応を比較検討してみるのが、今回の課題である。
 80年代の荒れた学校の状態への対応として、体罰を軸とした管理主義が徹底されたことは、全く間違いがない。私が当時住んでいた地域の中学では、誰もが恐れるような屈強の体育教師がいて、彼が中心的な生活指導を行っていた。その暴力は今から考えられないほどで、だいたいが連帯責任であった。教師が体罰を振るうだけではなく、生徒たちにお互いを殴らせる方式をとっていた。関係グループだけで殴るのを日本一周、クラス全体に及ぶのを地球一周といっていたと記憶する。とにかく、全員が一人ずつ、他の全員を一度ずつ殴ることを強制していたのである。
 しかし、これは、本当に効果的な指導であったかといえば、誰もが否定的であった。少なくとも生徒たちは。当時、私はまだ大学への就職ができなくて、塾をやっていた。だから、その地域の中学生が、毎日多数我が家にきて勉強していたが、その際にいろいろな話を聞かせてくれたのである。
 その教師が近くにいるときには、当然生徒たちは静かにするが、確実に遠ざかっていけば、元の木阿弥である。怖いから従っているだけで、学ぶ環境をみんなで作っていこうなどという気持ちは、育たないわけだ。
 もうひとつは、全員部活制、それも体育の部活である。これは、次第に中学までおりてきた全国大会を意識したものであったが、むしろ、「全員」にするのは、部活で徹底的に練習させて疲れさせ、暴れるエネルギーを吸い取ってしまうという、生活指導の考えによっていた。
 このふたつの考えは、現在ともに変更を余儀なくされている。体罰を軸とする指導は、幸い極めて少なくなったといえる。体罰は禁止されていること、適切な指導ではないこと、体罰をすれば罰せられること、などが浸透したからである。体罰ができないから生徒指導ができないとか、言ってもわからない生徒には体罰でわからせる必要がある、などということを言う教師は、いまやあまりいないに違いない。むしろ、そういうことをいうひとたちは、学校外の大人であろう。もちろん、体罰がなくなったというわけではない。
 部活も近年様々な困難にぶつかっている。部活のは正規の教育活動ではないために、教師は顧問になる義務はないことが、次第に認識されていた。以前は、ひとつの部活の顧問になることが当然視されていたといえる。しかし、部活は家庭生活に大きな負担であるし、また、過重労働の元凶でもある。そのために、部活の顧問を引き受けない教師も次第に多くなっている。また、過度の部活による事故も多く、部活の活動時間を制限する学校も少なくない。80年代であれば、朝練、昼連、夜連が毎日あり、夜は7時8時まで練習していることが普通だった。
 では、体罰が減ったことが、指導力を高めることになっているのだろうか。荒れが増えてきたことは、そうだといえないことを意味するに違いない。
 佐田が触れていることに、他に、生徒が教師に暴力を振るった場合、警察を呼ぶことを躊躇しなくなったという指摘がある。警察も、遠慮なく呼ぶようにという姿勢だと、佐田は批判的に書いている。警察を呼ぶようになっていることと、しかし、警察を呼ぶのは躊躇が学校側にあるという点では、今もあまり変わっていないと思う。私は、二側面があると思う。教師は徹底的に教育的に、つまり非権力的に子どもに対応すべきである。だから、体罰などを用いずに指導する必要がある。しかし、現実には、暴力を振るう子どもはいるし、言葉による注意ではきかない場合もあるだろう。そういう場合には、なんらかの権力をともなった措置が必要である。しかし、それを第一に行使すべきは校長である。教師の指示に従わずに、教育環境を妨げている場合には、校長が指導する。校長は懲戒権をもっているのだから、教師の教育的指導とは異なる指導が必要な場合に登場する。しかし、校長は権力的な権限があるといっても、あくまでも「措置」である。そうした校長の指導でも手にあまる場合には、やはり、警察の協力は必要である。警察は、強制力をもって、生徒を拘束することができる。そうした事態になる前に、言葉による説得ができればいいのだが、それができず、教育環境が荒らされるままになっていることは、子どもたちの教育を受ける権利を保障しないことになってしまう。
 私が、常々問題であると思っていることは、校長が、可能な権力的指導を充分に行っているとは思えないことである。日本の学校教育法は、教師にも懲戒権を与えているので、校長はそれに寄り掛かってしまう傾向がある。私は、教師の懲戒権は、法律から削除すべきであると思うが、実際の教師は、懲戒権を行使しない者も少なくない。
 そこで、教師に求められるのは、あくまでも教育的、つまり、コミュニケーションによって子どもを指導する力である。
 それは、ゆとり教育で実現すべきものだった。ゆとり教育は、世間で言われるような悪いものではなかった。実際に、ゆとり教育が浸透していくと、いじめや不登校が減少したのである。荒れ、いじめ、不登校は、学校におけるストレスが大きな原因であるから、ストレスを実際に減らした政策(教師にとってのゆとりではなかったが、子どもにとっては、ゆとりであったことは間違いない。)によって減少するのは、自然なことだろう。学力重視路線になったとき、やがていじめや不登校が増えるだろうと予想したが、その通りになっている。そういう意味では、ゆとり教育のよかった部分は、復活させるべきだろう。学力路線への転換は、PISA対策であったが、一時的にPISAの成績は向上したが、その後下降線となっており、学力重視がかならずしもPISAのような成績を向上させるものではない。
 ゆとり教育と少子化の関連について、論じる必要があるが、それは次の機会にする。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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