読書ノート『研究不正』黒木登志夫(中公新書)

 大学を退職して、これから自由な研究ができると思っている。ただ、義務もないし、いつまでに何をということもないから、本当に気楽だ。ただ、大学では近年、研究倫理に極めてうるさくなっている。ネットで受講する研究倫理の講座と試験を受けなければならない。全員修了しないと、対文科省においてまずくなるということで、大学管理者は非常に神経質になっている。大学に迷惑かけるわけにはいかないので、修了したが、実際には、私の研究にはほとんど関係ないことばかりだった。実験したり、データとったりする領域では、倫理問題は重要であるし、特に医学や生物分野などは、人間や動物を扱うので、守らねばならない倫理問題は多数ある。そして、身近に自然科学の研究者がいるし、研究不正問題がその周辺で起きているので、他人ごとではない。
 本書は、まだ記憶に新しいStap細胞問題を契機にして書かれた本である。一読して驚くことは、今や日本は、研究不正の代表的な国家であるという点だ。20世紀までは、日本では研究不正はほとんど問題にならなかったそうだ。皆無だったとは思えないが、極めて少なかったという。しかし、21世紀になると、次々に国際的な話題になるような研究不正が起き、特にStap細胞問題で、日本の科学者全体が疑惑の目で見られるようになった。研究不正が何故起きるのかという一般的な問題だけではなく、日本において何故21正規になって研究不正が多発するようになったのか、それも極めて重要な問題である。
 ここで扱われている不正を行った研究は、ほとんどがチームとして行われたものである。もちろん、研究した主体は一人か二人であるが、参加している多くは、その不正に気づかない。そのことが驚きだ。研究責任者は、研究を統括し、論文全体に責任を負うわけだが、その責任者が見逃しているケースがほとんどなわけだ。私たち文系の人間からみると、こうした理系の共同研究のあり方は、不思議なものがある。ラボといわれる責任をもった研究者の下に、若手の研究者や技官がいて、実際の実験やデータのまとめをしていくのは、若手であり、責任者はその指導をしている。しかし、成果があがると、それは基本的にその責任者に帰属することになる。もちろん、実際に主要な実験やデータ分析を行ったものが、論文の筆頭執筆者になり、論文執筆の業績の第一を受けるが、発見などに関しては、責任者がその栄誉を担うことになる。ノーベル賞などをもらうことになるのも、その責任者だ。だから、若手が書いた論文をチェックしなければならない立場にあるし、そこに研究不正があれば、当然責任者も責めを負うが、だがもっとも大きな責めは不正を行った研究者が負わねばならない。
 だからともいえるが、研究不正が発覚するのは、共同研究者からの告発は皆無ではないが少ない。論文を読んだ他の研究者が、おかしさを感じて提起することが多い。特に、現在は、インターネットで、常に研究の不正を監視しているひとたちがいて、その不正を暴く力が非常に強い。Stap細胞の疑惑がインターネット上で提起されたのは、記者会見の一週間後のことだ。またジャーナリズムの力も大きいという。いわゆる「神の手事件」で、自分で埋めて発見させるという、考古学における大きな不正事件を暴いたのは、毎日新聞の記者が、ずっと追跡して、現場をビデオに撮影していたことだった。
 では、何故不正が起きるのか。すべてにおいて共通というわけではないだろうが、やはり、名誉、地位をえるために、業績が必要であること、そして、そのための圧力が大きいということだろう。昔は、研究に従事する人は、元々がそれなりに経済的に恵まれていることが多かったのに対して、大衆教育が拡大してくるにつれて、まず就職先としてポストを獲得しなければならないという事情が生じた。そして、そのためには、研究業績が必要であり、かつ、その業績競争が国際競争の広がりをもっていることが、ストレスをさらに激化させている。
 21世紀になって、日本で不正が多くなったのは、そうした一般的な事情に加えて、国立大学が独立行政法人として再編され、国家の予算が削減され、また、予算獲得自体もまた競争の対象になってきたという事情があるからだ。私は私立なので、元々研究条件は貧弱だが、文系だし、研究競争に身をさらしているわけではないので、あまり切実感がないが、理系はやはりかなり深刻な状況である。
 今のままの学術行政が続く限り、日本の研究は衰退していく流れを留めるのは難しいし、不正も増加していくだろう。
 文系における研究不正は、ここではほとんど触れられていないが、逆に20世紀、つまり私が学生や大学院生のときにはよくあった。それは、本書の分類では盗作にあたるが、引用処理をきちんとしない場合が多かった。他の研究書の資料を使いながら、そのことを明記しないということであり、そのために東大教授を辞任した事例もあったと思う。東大だからこそ、厳しい措置だったともいえる。逆に、こうした文系の不正は、21世紀になるとあまり聞かなくなった。それは、おそらく倫理意識が反映しやすいから、そして、多額の研究資金が必要で、オーバードクターが大量にいるという状況が、理系ほどではないからだろうと思う。
 しかし、目立たないが、研究不正を醸成する背景があると、私は思っている。研究不正とまではいえないが、研究としての条件を欠いているのに、論文の審査が通ってしまうという問題を、私自身が経験した。初めに断っておくが、私が問題だと思っているのは、学会の審査の問題であり、論文執筆者側の問題は小さい。
 ある学会で、私が投稿論文の査読を依頼された。その論文は、外国の小学校の教育を研究したもので、実際にインタビューにいき、アンケートを実施した結果を踏まえたものだった。しかし、その小学校の名前が仮名になっているのである。通常の一般書籍なら、それは不自然ではないが、学術論文としての分析である以上、読んだものが検証できなければならない。理系の実験でいれば、再現性である。文献研究で、引用をきちんと明示するのは、ただしく引用されているか、あるいは、曲解していないかなどの検証を可能にするためである。引用を示さなければ、正確な分析であるかどうかをチェックできない。つまり、学術的な研究において、その論文の内容を他の人が検証、チェックできる状態にして提示することが不可欠である。教師や生徒の個人名は、プライバシーの問題があるから仮名にすることは、当然だろう。しかし、学校名は個人情報ではないし、そもそも、現在の先進国の学校は、ほとんどすべてがホームページをもっており、そこで教育方針や内容を公開している。その論文が対象にしている国は、そうした情報公開が義務になっており、しかも、かなり詳細な内容が提供されているのである。だから、隠す必要は全くない。その論文では、インタビューや授業、アンケートなどで、その学校の教育の特質が分析されているのであるが、審査する立場としては、それがホームページなどで公開されている内容と齟齬がないか、齟齬があったとしたら、その齟齬をどう評価するか、などをチェックする必要がある。だから、私は査読委員として、編集委員会に、そうした旨を伝え、仮名にするのはおかしいのではないかと提起した。しかし、そのことについては、まったく返答もなく、したがって、私は疑問符をつけた回答をしたのだが、その論文は採用された。また編集委員会からの報告に、その件は触れられていなかった。
 結果として、その論文に書かれた内容が、本当であるかどうか、まったくわからないのである。もしかしたら、インタビューやアンケートなど実施しておらず、創作かも知れない。本書(『研究不正』に書かれている研究不正のいくつかは、データそのものがまったくのでっち上げであったものである。Stap細胞も実はそうだった。きちんとした実験などしていなかったのである。しかし、理系の場合には、実験を前提としたデータであれば、再現実験をすることによって、データが正確であるかを検証することができる。もちろん、そのためには、実験方法を正確に書いておく必要がある。私が査読した論文は、理系でいえば、実験方法をまったく書いていないようなものだ。実験方法が明示されていなければ、再現実験をできないから、データ分析が正しいかの検証ができない。だから、実験方法が書いてない論文は、まともな科学雑誌の査読をパスすることはありえないと思う。
 文系といっても広い領域があるから、どの分野でもそうだとは思わないが、少なくとも私が関わっている「学会」では、一般雑誌と「学術雑誌」との差があまり明確ではないということだろう。厳しくいえば、学術雑誌であるのに、実は「学術性」が担保されているとはいえないといわざるえない。
 では、研究者としての立場はどうなのか。もし、外国の小学校の研究をする際に、インタビューやアンケートには応じるが名前はださないでくれ、と言われたとする。
 少なくとも、私なら、学術研究であり、名前をだして、不利になるようなことはないし、また、事前に翻訳して見せて、不都合があれば調整する、と約束する。というよりも、個人名をださないことは当然だから、その保障をすれば、学校名をだすなとは、いわれないはずであると、私は考えている。しかし、いくらそういう説得をしても、だめだという場合には、仮名にせざるをえないが、書くとしたら、一般誌に書く。あるいは、研究対象校を別にする。私だったそうするだろう。小学校はいくつもあるし、同じようなことをやっている学校はたくさんあるわけだ。
 学術論文であるのに、検証可能性を最初から否定したら、それは学術論文ではない。そういうことも研究倫理であるはずだ。
 私の分野ではないので、厳密なことはいえないが、心理学の論文でも、こうした検証可能性に関する疑問を感じることが多い。
 心理学の論文は、ほとんどが実験、あるいはアンケート調査などで数量処理したデータをもとに考察する。しかし、この処理プロセスに、私は疑問を感じることが多い。というのは、私が知る限りの心理学論文では、まず仮説があって、その仮説の成否を検証するためのデータをとるために、統制群を設定していることは、あまりないように感じる。とりあえず、データをとり、様々な手法で分析して、意にそわない結果がでると、変数や因数を変更して、意にそう結論を導き出すという手法をとっていることがある。前者のような対照実験であればよいが、後者のような処理なら、生のデータも示すべきではないかと思うのである。生のデータがあれば、その分析の妥当性を検証することができるが、なければ、結局、執筆者の分析を受け入れるしかない。しかし、その分析が、私にはかなり恣意的であるように見える。データをとって、そのデータにあう「論理」を導き出すというのは、科学的な研究なのだろうか。通常の紙の学会誌では、生のデータを掲載することはできないだろうが、私の学部では、紀要のデフォルトを、ネット掲載用にして、ネット用ファイルを印刷する形にしてある。私が編集責任者のときにそうした。だから、生データを掲載することは可能なのである。その旨明らかにしているが、残念ながら、機能を活用して生データを掲載している論文はまだない。自然科学の主要雑誌は、ネット版が主で、紙版が重となっており、ネット版はマルチメディア化して、当然生データを掲載可能になっているはずである。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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