クラシック音楽の聴き方に関して、「モーツァルトに始まり、モーツァルトに終わる」という言葉がある。私の場合、確かにそれが当てはまる。子どものころ、我が家にあった古いレコード、当時は既にLP時代に入っていたのではないかと思うが、我が家には、手回しの蓄音機とSPレコードしかなく、LPを買うようになったのは、2,3年後だった。そこで、ブルーノ・ワルターのSPを何度も繰り返し聴いたものだ。そこにモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハト・ムジークとジュピターがあった。戦前のウィーン・フィルの録音だ。アイネ・クライネの演奏に関しては、いまだに、この演奏を越えるものを知らない。ただし、CDになったその演奏は、SP時代の潤いのある音質がなくなっている。SPは確かに針の音がはいって、聞き苦しかったが、回転数が速かったせいか、音そのものは悪くなかったのだ。とにかく、モーツァルトから始まったのだが、その後、ベートーヴェン、マーラー、ヴェルディとめぐって、やはり、モーツァルトが最高というところに戻ってきた。だからモーツァルト本は、できるだけ読むことにしていて、今回この本を読んでみた。
海老沢敏氏は、日本でのモーツァルト研究の第一人者である。おそらく世界ではじめての本格的なモーツァルト全集であったフィリップの全集を、日本で発売した小学館の責任編集者が海老沢氏であった。今から考えると、極めて高価なものだったが、海老沢氏の解説がハードカバーの本として毎回ついていて、モーツァルトの音楽を詳しく知ることができた。
20世紀の末ころから、モーツァルト演奏は大きく変化してきたことは周知のことだ。たとえばクラウディオ・アバドの演奏の変遷を聴くと、非常によくわかる。若いころから壮年期までのアバドは、それまでの演奏様式に従っていた。しかし、おそらく21世紀に入るころからか、特に、モーツァルト管弦楽団というオーケストラを組織して、さかんにモーツァルトを演奏するようになると、完全に古学奏法の影響を強く受けるようになった。このオケで録音した交響曲集のレビューに、「こんな潤いのないモーツァルトは初めて聴いた」というのがあったが、私も同感だった。確認のため、アバドのハフナー交響曲を3種類の録音で一楽章の提示部のみ聞き比べてみた。1991年のベルリンフィルの定期演奏会、2011年のモーツァルト管弦楽団、2011年のルツェルン祝祭管弦楽団の演奏だ。91年のは、まだ旧来型の演奏で、楽譜は新モーツァルト全集版だが、古楽奏法では全くない。ところがモーツァルト管弦楽団との演奏は、明確に古楽奏法にしたがっている(と私には思われる。)興味深いのは、同年のルツェルンでの演奏は、編成が極めて大きいということ、普段はマーラーなどを一緒に演奏しているメンバーであることなども影響しているのか、古楽奏法を部分的に取り入れているが、伝統的な部分も残している。折衷的なのだ。折衷的であるということは、古楽奏法といえども、最近はかなり幅があるということを意味している。
このように、20世紀末ころからで見ても、モーツァルトの演奏には大きな変化があった。だが、それも、モーツァルトの時代から、今日に至る変化をみれば、小さいものなのかも知れない。海老沢氏の本書は、そうした時代的変化を視野にいれながら、モーツァルトの音楽の全ジャンルの魅力を分析している。古楽奏法が興隆してきた当時は、奏法だけではなく、当時のコピー楽器を使い、チューニングも当時のもので、テンポも当時のものという触れ込みだったが、最近は、様々なミックスや部分的な取り入れなどで、演奏は実に多様になっている。しかし、海老沢氏が指摘しているように、単なる骨董趣味、懐古趣味になってはいけない。あくまでも、演奏の魅力を引き出すための引き出しなのだろう。
時代的な大きな相違は、なんといっても、19世紀になると、モーツァルトの音楽はあまり演奏されなくなったという点だろう。奏法どころではない。バッハなども、死後、あまり演奏されなくなった作曲家である。しかし、それは、楽譜の印刷が普及していなかったからであって、手書きの楽譜を所蔵しているひとたちが限られており、それを見る機会のあった音楽家たちにとっては、バッハは偉大な作曲家としての名声を保っていたのである。モーツァルトも生前出版された楽譜はごく少数なので、バッハと同じ事情があったが、モーツァルトの場合には、さらに19世紀になると、コンサートの様式が変化し、またロマン主義の時代になって、音楽の質が大きく変化したことが、モーツァルトがほとんど取り上げられなくなった理由である。海老沢氏によれば、19世紀の作曲家は、モーツァルトを天才と認め、作曲家の規範として尊敬していたが、自分の作品とは無縁なものと考えていたという。そして、ワーグナーやベルリオーズのように、強烈に批判する作曲家もいた。
ワーグナーは、モーツァルトがオペラを作曲する際に、テキストに対する吟味がおろそかであったと批判していたという。ワーグナーは、自分のオペラの台本はすべて自分て書いたから、そうした自負から出た言葉だろう。しかし、モーツァルトがオペラを作曲する際には、テキストを極めて厳密に吟味し、また、優れた台本作家を選び、作曲の過程でも、必要なテキスト変更を求めたことは、よく知られている。ワーグナーの批判はまったく当たらない。
ベルリオーズの批判は、もっと辛辣で、「ドンジュバンニ」のドンナ・アンナのアリアのアレグロ部分そのものを消したい、恥ずべき部分だと述べている。しかし、それはモーツァルトの時代のアリアの様式であって、決して、様式だからという理由のみで作曲したのではないだろうが、私たちの耳には、決して耳障りではなく、美しい音楽として響く。
モーツァルトの音楽の社会での受け取りに変化が生じたのは、私は、1870年代に、モーツァルト全集が楽譜として出版されたこと、20世紀になって録音が始まったことだと思っている。楽譜が出版されれば、当然演奏家は、モーツァルトの曲をレパートリーにしやすくなる。それまでは限られた曲しか出版されていないから、演奏しようにもなかなか難しかったはずである。そして、1950年代以降からの新全集によって、モーツァルトの新の姿が広く認識されるようになった。
本書では、モーツァルトのピアノソナタが、学習者の中で軽く扱われていることを嘆いている記述があるが、それは、最近までプロの演奏家にもあった。ピアニストは一昔前まで、ショパン弾きとベートーヴェン弾きに分類されていて、モーツァルト弾きは、また別の若干テクニックの弱い女性ピアニストがそう呼ばれることが多かった。事実とは別として。今やショパン弾きとベートーヴェン弾きの区分すらなくなっているが、モーツァルトのソナタは、演奏会レパートリーとして、一流のピアニストはなかなか取り入れない。モーツァルトの協奏曲演奏家として有名なブレンデルが、あるときソナタをいれるということになり、記者会見で、ソナタはいくつかいい曲とはいいがたいものがある、などと語ったことがある。実際に録音したあと、記者が、いい曲ではないといったのはどの曲ですか?と質問したところ、あれは、私の間違いだったとブレンデルは認めたようだ。
録音についてはどうか。
19世紀にモーツァルトの曲がコンサートで扱われなくなったのは、19世紀がロマン派音楽として発展し、オーケストラが拡大し、ホールも大きくなっていった。その頂点が、マーラーの千人交響曲だろう。楽器も改良され、モーツァルト時代には演奏不可能だったようなテクニックが可能になり、派手な曲が普通になってくる。そうした中で、編成が小さく、様式的に作られているモーツァルトの曲は、聴衆の好みに合わなかっただけではなく、ホールにも適さなかっただろう。しかし、録音で聴くようになると、むしろ家で聴くには、バロックや古典派の音楽のほうがしっくりくる。いまやCDの売り上げ、発売数は、モーツァルトが圧倒的である。(続く)