年休とったら、保護者からクレームを受け、校長からは、生徒第一に考えろと言われた、教師を続ける気力が薄れたというツイッターが話題になっているという。おそらく学校の風土となっていることだろうと思う。そして、文科省も基本的には同様の「感覚」をもっているに違いない。文科省の「働き方改革」の案では、夏休みに年休をとりやすくして、全体の労働時間を短縮するというものだった。夏休みに年休とりやすいことは、誰が考えたってわかることで、既にほぼ実現していることだろう。夏休みに年休とったらクレームをつけるという校長や保護者は、ほぼ考えられない。逆に、年休とれるのは夏休みくらいなのだ。(教師にとっては実際には休みではない。)だから、文科省の改善案は、何も提案しておらず、現状の肯定に過ぎないのである。しかし、今や教師の労働のブラック度は周知のことになっているから、このまま改善がなされないと、教師志望者がどんどん減ってしまうだろう。既にその兆候は明確になっているのだが。
まず、年休を取ることは、「権利」であり、正当な理由などは必要ないのだ、ということを、保護者や管理職はよく理解すべきである。端的な言い方をすれば、学期内の授業日に、気軽に年休をとれる体制にすることが、教師の働き方改革のひとつである。
しかし、それでは子どもたちが困るではないか、という問題も、もちろん考えねばならない。教師が休めることと、子どもの教育をきちんと保障することの、両方が充足されなければならない。そんなことは可能なのだろうか。そこが、教育界の知恵と力量が問われていると考える。
私がオランダに海外研修にいっていたとき、子どもの通学していた学校の担任教師が、ストライキに参加したことがある。全国の教員組合がストライキを組織したので、学校の組合員代表かどうかはわからないが、とにかく組合員として、集会に参加したわけである。けっこう前から予定されていたので、それは予め通知されており、当日は代替教員が配置されて、別に普段と変わりなく授業が行われていた。正直、驚いた。
日本では教師のストライキは、滅多に行われなくなっているが、1950年代から1960年代にはけっこう実施されていて、その度に逮捕者がでていた。今から考えると、そのストライキの方法には問題があったと思う。ストライキの権利は、断固として守るべきだと思うのだが、やはり、子どもの教育を受ける権利を侵害してはならないのだ。当時のストライキは、校門でピケをはって、学校の機能をマヒさせるべく、誰もいれないという圧力をかけるものだった。工場でのストライキと同じやり方をとっていたわけである。しかし、工場を閉鎖するのは、経営者への対抗であって、消費者に品物を買うなと圧力をかけるわけではない。学生がストライキをやっていたころ、東大の教養学部長だった矢内原忠雄は、学生の教育を受ける権利を侵すことは、絶対に許されないといって、授業を受けたい学生を、塀を破って構内に入ることを許可した。その破った跡が、「矢内原門」として残っているわけだが、これは、小学校や中学校においては、もっと妥当することだろう。そういう意味で、教師が、子どもの教育を保障しながら、訴えをする形にすれば、もっと理解がえられるように思うわけである。
しかし、ここでいいたいことは、教師がストライキをしても、その穴埋めの教師がちゃんと派遣されていたということだ。これは、ストライキに限らず、教師が病気で休んだり、また年休をとるときにも、同じような措置がとられる。それは、代替要員が常に確保されていることを意味する。オランダの場合、小学校は小さいので、各小学校に配置されているのではなく、ある一定地域をカバーする形で、配置されており、必要に応じて、その学校に赴いて代りに授業をする。
日本でもそのようにすればいいのだ。そんな代替要因を雇うことは財政的にできないというかも知れない。しかし、日本の学校は、授業をしない教員の割合が、最も高い国のひとつであるという統計がある。確かに、小学校、中学校を見ると、授業をしない教師が少なくないのだ。校長・教頭などの管理職がそうだが、主幹教諭も授業をしない自治体が多い。また、芸術科目の専科教員は、授業のもち駒が少ない。代わりにそっくり授業をするのは、確かに誰でもできるというわけではないだろうが、ちゃんと自習教材を用意して、自習の監督や質問に応じるなどであれば、教師であれば誰にでもできるだろう。まさか校長・教頭が他の学校に赴いて代替授業をするわけにはいかないだろうが、主幹や専科教師なら、構わないのではないだろうか。年間を通して、そうした代替可能な状況をデータかして把握し、直ぐに対応できるような体制をとることによって、年休を平日でも取得できるようにすることは、現在の教員配置でも、かなり可能なのではないかと思う。
もうひとつ、「子ども第一に考え、教師の都合で年休とるなんて」という「考え」に関しても、それこそが、学校におけるストレスを生みだしており、変えていく必要がある。
斉藤喜博は、非常に優れた教師を育てる校長だったが、彼の著書のなかに、遅刻できることの重要性が説かれているところがある。
島小の研究集会のときに、ある高齢者が、「島小でこんなにすばらしい実践ができる秘訣は何か」と質問をしたときに、ある教師が、「平気で遅刻できる雰囲気があって、それが大事だ」と答えたところ、「遅刻するとは何事だ」と、その質問者は怒ってしまい、かなりの議論になったことが報告されている。もちろん、斉藤喜博はその教師の言い分を支持している。その女性教師がいうことには、たとえば、学校に行こうと思ったとき、子どもが愚図ついて、泣き止まないとする。そのとき、時間だからとことで、振り切って学校にいくのと、子どもをあやして、落ち着いてから出かけるのと、どちらが、教師が授業をする上でいいのか。もし、前者のようにしたら、おそらく授業中も子どものことが気になって、しっかりした授業ができないに違いない。しかし、ちゃんと子どもを落ち着かせてくれば、そういう不安から解放されて、授業に打ち込むことができる。だから、何かあったときに、必要なことをやって遅刻する、そういうことが自然に認められているから、いい実践ができる、というわけだ。
もちろん、さぼりを奨励しているわけではなく、あの人が休んだり、遅刻するのは、ちゃんと理由があるのだろう、という理解が行き渡っているような雰囲気が大事という意味だ。年休をとることについても、それがどのように使われるにせよ、休むことは、日々の労働をしっかり行うために、必要なことなのだから、それを「子ども無視だ」などと非難するのではなく、「子どものためでもある」というように理解して、支える体制をとることが必要だろうし、それを積極的に受け入れる感性も必要ではなかろうか。