「鬼平犯科帳」には、大勢の密偵が登場する。主に活躍するのは、平蔵直属の密偵だが、与力や同心についている密偵もいる。実際にそうであるかはわからないが、「鬼平犯科帳」に登場する密偵のほとんどは、元盗賊である。したがって、かつての仲間を裏切って売る行為をしている。そのために、盗賊からは狗と蔑まれている。それを承知で、密偵を務めている。江戸時代の奉行所に勤める同心がつかっている密偵たちも、犯罪集団すれすれの人間が多かったとされるが、平蔵の密偵たちは、全員がそうだ。そして、それぞれ、密偵になるいきさつが物語のなかで語られる。例外は伊三次のみで、彼は最初から密偵として登場し、しかも、主要な密偵のなかで、一人だけ殺されてしまう。そのせいか、伊三次にはファンが多いようだ。
では、それぞれどんな経緯で密偵になったのだろうか。
「鬼平犯科帳」の第一作は「浅草・御厩河岸」であるが、これは、平蔵が火付盗賊改になってから2年後ということになっているが、実際には、ほとんど平蔵は活躍する場面がなく、事件が解決してからくつろいだ場面で登場するだけである。そして、この話は、合本では4番目に登場する。それ以降は、発表順に並んでいると思われる。そして、最初の「唖の十蔵」では、長谷川平蔵が、話の途中で火付盗賊改に就任し、最初はのんびりした頼りない印象を与えていたのに、捕らえられ激しい拷問に屈せず黙秘していた粂八を、平蔵が皆も驚く残忍な拷問を加えて、白状させてしまう。そして、直ちに盗賊たちを捕らえるという結末になる。粂八は、その後平蔵の最も重要な密偵になるのだが、まだしばらくは牢にいれられている。
そして、最初の密偵になるのは、「相模の彦十」という老人である。第二話の「本所・桜屋敷」で、平蔵が探っていた御家人の屋敷から、偶然出てきたところに会い、昔話をするうちに、彦十にその屋敷にいると告げられたのだが、逃亡中の盗賊が本当にいるかどうかを確かめるように依頼する。彦十は、平蔵が20歳前後、荒れた生活をしていたころからの付き合いで、盗賊だが、平蔵の子分のような存在だった。平蔵は火付盗賊改になっている身分を明かし、密偵になるように誘い、密偵第一号になるわけだ。既に高齢だが、まだまだ元気で、ずっと最後まで活躍する。が、途中、昔なじみから、盗みに誘われ、あやうく実行しそうになることもある。密偵たちは、こうした昔の仲間からの誘いだけではなく、自身の内なる「盗みの快感」にしばしば誘惑される。また、かつての仲間を売るという、心の葛藤にも悩まされるのも稀ではない。
次に密偵になるのは、先の粂八である。第三話「血頭の丹兵衛」で、嘗ての親分だった丹兵衛を逮捕する上で重要な役割を果たすことになる。「鬼平犯科帳」では、常に盗賊が二種類に分類される。盗みの三カ条を守る「本格の盗賊」と、守らない「急ぎ働き」の盗賊である。三カ条とは、盗んでも困らない財産のあるところから盗る、殺さない、女を侵さないというものだ。丹兵衛は、粂八が手下だったころは、本格の盗賊だったが、江戸で皆殺しにする強盗が頻発する。そして、「血頭の丹兵衛」という貼り札を残している。粂八は、「そいつは偽物だ、本当の丹兵衛は決して人を殺さない、」と主張して、偽物を捕まえる手助けをしたいと、平蔵に申し出る。平蔵はそれを信じて任せ、結局、逮捕に至るわけだ。そして、密偵になる。密偵第二号だが、実は、平蔵自身に、激しい拷問をされたのに、密偵になったというのは、この粂八だけだ。
その後第二巻の「密偵」という話しに弥市が登場するが、彼は平蔵の前任者堀帯刀の与力佐嶋忠助の密偵で、昔の仲間に盗みの協力を強いられ、断りきれずに参加するが、土壇場で首領を殺害した上で自害するという凄惨な最後をとげる。というわけで、第三巻までは、その後ほとんど密偵が登場しない話が続くのだが、第四巻の「血闘」で、最も重要な密偵の一人になるおまさが登場する。そして、おまさは、唯一、自ら平蔵に会いに来て、密偵になりたいと申し出て密偵になったものだ。おまさは、まだ子どもだったころ、父親が経営していた「盗人酒場」に居候していた平蔵をよく知っていたし、世話などもしていた。その頃から平蔵は憧れの存在だった。京都奉行になった平蔵が父親にしたがって京都にいき、父親が死んだおまさは、フリーランスの女盗賊として活躍していたが、平蔵が火付盗賊改になったことを知って、足を洗うことを決意し、平蔵の下にやってきたのである。そして、早速当時手伝っていた仲間の逮捕に協力することになる。しかし、その後探索中に、密偵だと勘づかれたおまさが、盗賊に拉致され、救いにいった平蔵があわや逆襲されるというのが、「血闘」である。しかも、第四巻では、更に二人の重要な密偵が登場する。「あばたの新助」では、盗賊に女をつかって引き込まれた佐々木新助が、平蔵に見破られたと勘違いした場面で、とっさにそこに帰って来た伊三次が「追え」と命じられる。伊三次はいきなり登場し、その後も活躍し続けるのだが、密偵になったいきさつはついに語られることがないまま、その後死んでしまう。しかし、主な密偵のなかでは、唯一役宅に居住しているために、かなり秘密保持が重要な探索に利用される存在だ。
そして、「敵」に、唯一元盗賊の「首領」だった大滝五郎蔵が登場するる。五郎蔵は、盗みのために江戸にいく途中、親の敵と間違えられて襲ってきた男を殺害する。その男は、実は五郎蔵の手下が、裏切ってたきつけたものだったので、五郎蔵が江戸入りしたあと、男をたきつけた主を探している間に、嘗ての手下に襲われる。危ういところを、ずっと監視していた平蔵たちに助けられ、密偵になるという結末だ。その後、五郎蔵とおまさは、夫婦になるのだが、ドラマでは最後まで、互いに独身である。何故、ドラマで夫婦になることをさけたのかは、私にはわからない。単純な俳優の日程調整の便宜のためだとしたら、残念なことだ。
以上が主要な密偵で、他にも何人かいるが、多くが仕事をしながら、情報提供したり、必要な協力をする形で、以上の5人は、専任の密偵といえる。他にも密偵になったが、直ぐに盗賊たちに殺害されてしまう者も数名登場する。
密偵たちの最大の悩みは、やはり、かつての仲間を売るという後ろめたさだろう。いかに、それが社会にとって正しいことだという信念があっても、裏切りは裏切りである。そうした密偵たちの悩みに対する平蔵の扱いが、密偵たちを救っている。
平蔵の密偵たちは、いずれも、本格盗賊だった過去をもつ。だから、盗みに際して、人を殺したり、女を侵す者は、単純に憎んでいる。だから、彼らを告発して、捕縛させ、処刑に至るとしても、それほど苦悩を感じない。問題は、同じ本格盗賊だった者を売るときだ。いくら人殺しをしていないといっても、江戸時代は、10両盗んだら死刑という時代である。捕まれば処罰は免れない。そこで、密偵たちは、情報提供をするに際して、この人物だけは、と暗に助命を願うのだが、ほとんどの場合、平蔵はそれを承諾する。捕まって、密偵になることを承知したが、まだ牢にいた大滝の五郎蔵が、「間取りの万三」が江戸にいることを聞き、万三がいるのは、誰か盗賊が盗みを計画していることだと察し、平蔵に探索することを願いでる。その際、万三を罰しないことを、平蔵に約束してもらうのである。結果として、平蔵は鈴鹿の弥平次という盗賊一味を捕らえることになるが、約束通り万三は逃がしてやる。
つまり、売るのは、本当に悪人で、自分がかばってやりたい者は、盗賊であったとしても、平蔵は罰しないで済ませてくれるということで、密偵としての仕事を安心して遂行できるのだ。
現代社会では、こうした主従関係と、丁度逆の関係がしばしばみられるように感じる。
あの組織で、汚れ役を実行した部下が、悪事が発覚したときに、それを命じた責任者は、言い逃れをし、結局その汚れ役が自殺してしまう。大きな疑獄事件では、何度も繰り返された悲劇だ。ごく最近も、森友事件でそうしたことが起きた。封建時代、例外的ではあれ、平蔵と密偵のような、責任者が下の者をかばってやることがあるのに、民主主義時代に、上司が部下に責任を押しつけて、死に追いやるなどということが起きる。もちろん、双方が例外的なことではあるが、なんとも不可思議なことだ。