フルトヴェングラーは、生涯純粋な音楽家である側面と、政治的である側面をもっていた。尤も、政治的側面は、政治世界でないところでの政治性はうまく機能したが、ほんものの政治世界では、逆に利用されていたといえる。
フルトヴェングラーが、音楽界、あるいはより広く芸術界で大きな存在になったのは、36歳という若さでベルリンフィルの常任指揮者になったことだろう。しかし、このときは、ほとんどブルーノ・ワルターで決まっていたような状況を、フルトヴェングラーの猛烈なロビー活動で逆転したと言われている。ワルターになったとしても、ナチス政権の成立とともに、追放されたろうから、その時点でフルトヴェングラーにお鉢が回ってきた可能性は十分にあるが、ワルターの音楽はウィーン・フィルとの適合性が高かったし、若い時期からフルトヴェングラーがベルリンフィルとの活動を積み上げていったことによる音楽的成果を考えれば、ベルリンフィル側がフルトヴェングラーを最終的に選んだことは、妥当だったといえるだろう。