読売新聞(2022.2.1)に「教員不足、ハローワークに求人も…授業できない事態に現場悲鳴「毎日電話で頭下げてる」」という記事が掲載された。何を今更という感じだ。私は、既に20年以上も前からこういう事態が来ると、あちこちで書いていた。最も大きな要因は、文科省が、教師を尊重していない点である。
35人学級の実施、特別支援学級の増設、高齢者の大量定年退職、産休等々、様々な原因が書かれている。そして、教育委員会が、教師確保のために、電話をかけまくっている状況が報道されている。https://news.yahoo.co.jp/articles/609bca3cead773cd35ae5cb9c3bf9998d9a95faf
似たような記事は他の新聞にもある。
しかし、単に不足しているだけではなく、より深刻なのは、教師志望者が減少していることである。「コロナ禍で大学の説明会を十分に行えず、教師のやりがいをアピールできない」という嘆きを紹介しているが、事実は、その逆だろう。教師のあまりの過酷労働が、誰にも知られるようになり、「やりがい」などあるのか、という疑問が学生のなかに浸透していることだろう。いくら、やりがいをアピールする場があっても、響かないのではないだろうか。だから、いくらアピールしても、教師の労働条件が根本的に改善されないと、志望者が増えることはないに違いない。
文科省は改善に取り組んでいるという意見もあるかも知れない。しかし、かつてだされた「改善案」なるものは、むしろ改悪案であって、かえって事態を糊塗するだけではなく、悪化させるものにすぎない。象徴的な政策が、年休を夏休みにまとめてとらせることで、休暇をとっている「数字あわせ」だ。もともと、必要ならば、教師は夏休みに年休をとっていたのだ。むしろ、普段の必要なときに、なかなかとれないことが問題なのである。そして、そうした休暇をまとめてとることによって、労働時間の問題を解消できるかのような政策である。
もちろん、教師の過重労働を改善することは、超過勤務を制限したり、手当てを支給したりすることだけで解決できるわけではない。教師が、ほとんど教育的に意味のない仕事をしなければならないことが、あまりに多い。無用な調査やアンケートの実施とか、保護者のクレーム対応、部活の指導等々。これは、学校の機能そのものの点検、端的にいえば縮小が必要であって、私は、このブログで、「学校教育から何を削るか」というシリーズを書いて、全体のまとめをしようと思いつつできないでいるが、やはり、肥大化した学校教育の縮小が必要であり、削った部分を社会教育に移すことで、教育システムの合理化が必要であると考えている。
教師の労働に対して、根本的な転換が必要であろう。ふたつの選択肢がある。
第一は、教師の義務的労働を正確に規定して、(もちろん、かなり縮小する必要がある)出勤・退勤の時間制限をなくすこと。つまり、仕事があるときにだけ出勤すればよいことにする。これで、過重労働感はかなり低下するように思う。ずっと学校にいるから、仕事が押しつけられるという側面がある。
第二は、超過勤務手当てを正当に支給することである。実際にかなりの超過勤務をさせておいて、一定の手当てだけで済ますのは、現代社会ではあってはならないことだと思われる。手当てが前提にしている正当な超過勤務を、はるかに超える勤務を、教師は強いられているわけである。
このふたつは、まったく異なるもので、併用することはできない。つまり、教師がいかなる存在であることが望ましいのか、原理的に考える必要があるということだ。
こういう厳しい状況でも、教師になりたい高校生は多数いる。そして、大学でも教師の養成に力をいれようとしている。しかし、そういう努力を認めない政策を、文科省はとっているのである。この点は、あまり知られていない。
どういうことか。教員免許は、単位制であるために、実は、どこで履修してもよいのである。ある程度の単位をとっておいて、卒業後に、別の大学で科目等履修生の制度で単位を満たせば、教員免許を取得できる。通信でもよい。ということは、在学中、自分の所属学部で、免許取得のための授業がなくても、他の学部の授業をとることで、単位を満たせば免許をとれる。そして、多くの大学は、それを利用して履修しやすいシステムを実行しているのだ。日本の大学で、教育免許を取得する人数が非常に多いのはこのためである。また、ペーパーティーチャーを量産する仕組みでもある。しかし、このために、志望者のすそ野が広がるのであって、決して悪い制度ではない。文科省は、この制度そのものを改変しているわけではないが、こういうシステムで、免許がとれることを、宣伝してはならないと規制をかけている。大学は、免許取得希望者は多いので、特別にとりやすい措置をしているのだが、そういう措置は、受験生には知らされないのである。
私が所属していた学部では、中高社会の免許は正式に取得できるが、小学校免許は教育学部で取得できることになっている。そのために、国立の教育学部を不合格になった、小学校教師をめざしている学生がたくさん入学していた。しかし、小学校免許を取得できることを一切宣伝できなくなったので、とたんにそういう受験生が減少し、免許取得希望者が激減した。もちろん、入学後知って登録する学生もいるだろうが、最初から知らされているのとは違う。念のためだが、取得はできるが、宣伝してはいけないというだけのことだ。しかし、情報提供できなければ、この情報化社会では、存在主張が難しいことは自明である。
こうして、文科省は、いかなる理由か不明だが、教職につきにくくなる政策を、「実行」しているのだ。「百害あって一利なし」である。志願者が、情報をえられないようにすることに、どんな意味があるだろうか。奨学金の返済義務免除の廃止などから始まって、教職の魅力を削ぐような施策を、文科省は積み重ねてきた。現在の教師不足と志願者減少は、そうした施策の結果なのである。施策を改めない限り、教師不足はますます深刻になり、教育水準が低下していくだろう。迷惑を受けるのは国民であり、子どもである。