大学のオンライン授業拡大を文科省が容認の方向

 毎日新聞に次のような記事がでた。
「大学のオンライン授業「60単位上限」規制緩和へ 留学生獲得後押し」(2022.2.3)
 現在、上限が60単位となっているオンライン授業を、より緩和するということだ。私は、インターネットは大学のあり方そのものを変えることになると予想している。私は、既に定年退職してしまったが、この動向に関与できないのは、少々残念である。映像付きのオンライン授業はできなかったが、インターネットを可能な限り活用して、授業だけではなく、前後に様々な実践をしていた。
 コロナによって、オンライン授業が普通になったことによって、これまでの大学の制約を大きく取り払う可能性がでてきた。もちろん、可能性であって、実施するかどうかは大学自体が決めることだ。それは、積極的に活用する大学と、消極的な大学の格差が開いていくということでもある。

 ここでいう大学の制約は、あくまでも教育活動に関することで、他の領域は除外する。では、教育活動の制約とは、何か。それは、ある一定の時間に、一定の場所に集めて教育をするということだ。通常のオンライン授業は、「一定の場所」という制約を除くことができる。だから、通学しなくてもよいし、アルバイトをやっているひとが、バイト時間の空きを利用して授業を受けることも可能になる。アーカイブや様々な資料などをネット上におくことによって、「一定の時間」という制約を除くことができる。実際に、国際的なレベルで、MOOCその他の組織が、この制約を完全に取り払った形で、授業を提供している。受講料を払えば、単位取得も可能になっているのである。
 
 さて、この制約がなくなると、どのような可能性か開けてくるのか。
 私が、現役だったとき、残念なことは、私の大学では、学生のニーズに応えられない部分が少なくない点だった。たとえば、私のいたキャンパスは人文系が中心の大学であるために、法律や経済の授業がほとんどなかった。しかし、公務員もめざす学生にとって、それらは必須である。どうしも必要なひとには、放送大学の受講を勧めていたが、あまり実行する学生はいなかった。時間の問題もあったと思う。無料ではアーカイブを利用できなかったためだ。
 近隣の大学との単位互換制度もあったが、これを利用する学生は皆無に近かった。もともと、利用させないような制度設計だったから無理もない。授業料を徴収しないということで、相互に数科目を開講しているだけだったから、ほとんど希望がないし、また、その科目のために、他大学に出向かなければならない。更に、私の授業をとった他大学の学生がいたが、登録や単位認定の「様式」が整っていないような状況だった。つまり、今の大学は、他でもそうだと思うが、単位互換制度を本当に活用しようという気持ちがないし、また、いろいろな制約があるから、学生からの要求もない。
 しかし、オンライン授業が一般化すれば、他大学の授業を自由にとれるようになる。少なくとも、そうした「技術的」可能性は実現しているわけだ。現在、大学は、生き残りをかけて努力しているが、そのための競争がもっと熾烈になる。
 
 私が大学運営に関与していれば、どんな提案をするだろうか。思いっきり、間口を広げて考えてみよう。
 まず確認しておくべきは、現在の法令でも、オンライン授業で60単位、他大学との単位互換で60単位が、卒業単位として認められているのである。卒業単位は通常124だから、半分は、オンライン、他大学の単位が可能ということになる。問題は、大学が他大学の学生を受け入れたり、あるいは、逆に自校の学生が他大学の授業を履修することを、どの程度許すことになるのかという点だ。おそらく、そう簡単には許さないだろう。しかし、この開放的なシステムを活用できた大学が、評価をあげ、生き残っていくと思われる。(単位をだす場合には、授業料は当然徴収するという前提で、考えてみる。)
 
 講義は原則、オンラインで公開する。コロナでオンライン授業が徹底されたのだからは、これは容易である。もちろん、原則はハイブリッドとするが、必要な場合には、対面授業はしないことも可とする。登録して授業料を払い、指定の課題で認定されると単位を発行する。
 時間と場所を限定した既存の授業と同じに行うものとして、実験、実習、体育等の実技系の授業を設定する。これらは、オンラインで公開することは困難だろう。演習は、ハイブリッドを原則とするが、学外の者に対しては、正式履修(授業料を払う場合)のみを認め、人数制限が必要となる。
 対面でのみ行う授業も充実させることで、大学への入学・所属の価値がうまれる。このことによって、大学としての学生、卒業生を確保する。
 
 こうすることの利点は何か。
 まず第一に、多数の他大学生の聴講を獲得すれば、当然大学財政が潤うことになる。オンラインであれば、上限が存在しない。もっとも、単位認定のためには、試験をしたり、レポート評価が必要だ。当然、授業担当の教授が、膨大な量の採点はできないから、受講料を原資に、大学院生などを採点要員として使うことを認めればよい。欧米の大学では、大学院生が学生のレポートや試験の採点をすることは、珍しくない。むしろ、実際に教えていないので情実などがからまず、冷厳な採点か可能になり、学生の質があがるかも知れない。
 第二に、授業者の社会的評価にかかわるから、授業にかける努力があがることが期待できる。そして、高い評価の授業にたくさんの受講生が集まるから、そうした好循環がうまれるだろう。
 第三に、他大学の授業を取れる可能性が高くなれば、無理な受験勉強をして、希望の大学にめざす必要もなくなる。強制された勉強ではなく、自分のやりたい勉強を高校時代から集中できるほうが、長期的にみて、充実した生活が送れるに違いない。
 
 もちろん、こうしたことが簡単にできるはずはないし、学内の合意も十分に行う必要がある。では、こうしたことが可能となるためには、如何なる条件が必要か。
 まず社会的に必要なことは、企業が採用するときに、どの大学で学んだかではなく、何を学び、どの程度習得しているか、採用基準を明確にして、実際に測って採用することである。もちろん、そういう前提にしたほうが、学生は真剣に学ぶし、また、自分のセールスポイントを生む学習をするだろう。そして、そのことは、企業にとっても、資質を育てて入ってくることになる。(どうすれば、企業がそのような採用に変化していくかは、私はそちらの専門ではないので、正直わからない。)
 大学は、単位を明確な基準にそって、あまくない判定をすることが必要となる。多くの私立大学では、留年は好ましくない(留年が多いと、教育が良好に行われていなと、文科省に判定される可能性がある)ものと考えられて、安易に単位を認定する傾向がないとはいえない。
 また、年間の規定授業料ではなく、実際に履修登録した分の授業量という方式に改めるべきである。北米の大学はそうなっている。そうすると、単位登録も本当に必要なものに限定するようになり、しっかりと学習するようになる。履修授業数で授業料が同じであると、ついつい空き時間を埋めてしまい、単に講義に出席するだけになる場合がでてくる。授業の質が低下することになる。また、授業ごとの授業料にすることによって、他大学での履修が相互に容易になるのである。
 
 大学が、自身のなかで教育を完結させることなどは、現代社会では無理なのである。大学生も、ダブルスクールをする時代だ。また、大学以外のところで、学生はさまざまに学んでいる。それは、大学という範疇のなかでも、同様に、他大学も含めて学べるようにしていくべきなのである。ひとつの大学で、ある個人が学ぶ、すべての領域をカバーすることなどできることではないのだ。
 コロナによって、設備を整えることを、大学は余儀なくされたのだから、あとは、大学の意志の問題である。社会の要請に応じた教育を、組織的に提供できる大学であるかが問われることになっていくはずである。
 

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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