太田ゼミの卒業生で、スクール・ソーシャル・ワーカーの草分け的存在であり、現在法政大学で後進の指導にあたっている宮地さつきさんのインタビューを掲載しました。 順番が違ってしまったのですが、1→2→3の順番で読んでください。 これからも、卒業生インタビューだけではなく、現在の学生インタビューも掲載していきたいと思います。
投稿者: wakei
卒業生インタビュー1-1 宮地さつきさん(法政大学)
これから太田ゼミの卒業生が、いまどこでどんな活躍をしているかを紹介していくシリーズを発足させることにしました。かなりの人数が社会で活躍しているわけですが、第1回に、最近話題のスクール・ソーシャル・ワーカーとして福島県で7年ほど活動し、今年度から法政大学の現代福祉学部の助教になられた宮地さつきさんに登場していただきました。インタビューは、5月18日、緑豊かな法政大学多摩キャンパスで行いました。(文責 太田 和敬)
大学時代 人と関わる仕事をしたかった
-宮地さんは臨床心理学科の卒業生ですが、入学の動機はカウンセラー志望だったのですか?何故スクール・ソーシャル・ワーカーになろうと思ったのでしょうか?
宮 漠然と人間と関わることをしたいと思って、臨床心理学科に入学したのですが、当初から臨床心理士になるのは、難しいなと、自分としては思っていたのです。
-難しいというのは? 宮 臨床心理士の試験が難しいと聞いていたこともありますが、自分の性格上、相談室で人がやって来るのを待っているよりは、自らアクションを起こしていくほうが、自分にはあっているなと感じていました。児童福祉にも関心があったので、社会福祉士の養成のコースを取るチャンスもあったので、とりあえず履修を始めました。何を目的に社会福祉士の仕事をするのかを模索しているなかで、岡村先生の臨床教育学文献講読の授業で、スクール・ソーシャル・ワーカーという言葉に出会いました。調べていくと、以前から埼玉県などでほそぼそとやっていることを知り、こんな活動が私も10年後くらいにできたらいいなと思っていました。4年のゼミ選択の相談で、太田先生にその話をさせていただいたとき、「(社会では)大学院くらいでていないと通用しないよ」と言われたことに、すごく衝撃を受けました。
-そんなこと言ったっけ?
宮 そうですよ。すごく影響を受けた言葉の1つですから、よく覚えています。(笑)大学の福祉の先生も教育の先生も、もちろん心理の先生方もほとんど知らないマイナーな分野で、漠然とやりたいといっても、学部卒では現場で通用しないと。確かにそうだなあと思って、卒論で勉強している中で、教育学的にスクール・ソーシャル・ワーカーの研究をしている先生が福島大学にいることを知って、福島大学の院に進学しました。
-学部時代は、どのような活動や勉強をしていたんですか?
宮 学科は臨床心理で、資格取得で福祉の友人ともつながり、弓道部つながりでは、教育学部や文学部の友人と関われました。体育会の活動にも参加していたので、より幅広い友人と出会うことができ、いろいろな価値観、見方も学べたかなと思っています。また、大学院進学を希望した段階から、これも覚えていらっしゃらないかもしれませんが(笑)、太田先生がアメリカの文献を取り寄せて下さり、ゼミ以外の時間を割いて、毎週のようにご指導いただきました。この時間の積み重ねは、英語の勉強と併せてスクールソーシャルワークの理解を深めていくことができ、今に大きくつながっています。卒論でも大阪と四国のほうで、実際にスクール・ソーシャル・ワーカーをしている方のお世話になって、研究をやれたのが、今原点になっていると思います。
-現在、臨床心理士になっても、就職がないから躊躇するという傾向があるんだけど、当時のスクール・ソーシャル・ワーカーというのは、比較にならない位、就職できる可能性が低かったわけだけど、そこらはどう思っていたんですか。
宮 両親も、やりたいことをやれって、ずっと言ってくれていました。ただ、同じようにあと2年通えば、臨床心理士の資格をとれるかも知れないというところで、未知の世界に方向転換するというのは、さすがに家族会議になりましたね。(笑)でも、すでに関心が違う方向に向いている中で勉強してもはいらないし、やりたいことをやらせてほしいという話をして納得してもらいました。将来のことは、正直、それほど具体的には考えていなかったなと思います。とりあえず、院で2年勉強して、児童福祉系の就職があれば10年くらいキャリアをつんで、それからチャンスがあればできればいいなと思っていたわけです。それがちょうど大学院を卒業する年に、文部科学省が全国的に『スクール・ソーシャル・ワーカー活用事業』をやることになったので、本当にタイミングがよかったということしか言えないんですけど、卒業した年の6月から、福島県内での実践が始まりました。
大学院時代 フィールドでの実践と理論的学習
-大学院ではどういう勉強をしていたんですか。
宮 障がい児系の学童とか、養護施設、小学校の支援員とか、さまざまなフィールドに出させてもらいました。どの活動もとても有意義でしたが、特に小学校での活動は、その後の実践にとても大きな影響がありました。M1のときには個別の児童への支援員として、M2では、保健室を拠点に、学生のコーディネーター的役割を試験的に担いながら学ばせてもらいました。支援員として学部学生も複数名はいっていたのですが、ばらばらの活動だったので、一時期、私自身もかなり孤立してしまいました。初めて「支援者」として入った学校に戸惑いを感じることも多く、担任の先生とうまくいかないと逃げ場がないし、週1回なので、それ以外のときに入っている学生や他の先生との連携がなかなかうまくとれない時期がありました。
-大学院のときですね
宮 はい。しかし2年目には、保健の先生がスクール・ソーシャル・ワーカーの仕事に関心をもっていたことや管理職も理解があり、また学校全体としても受け入れがよかったので、保健室を拠点にした活動が始まりました。学校の要が保健室であり、キーパーソンは養護教諭であることが良く理解できました。また、学生と学校をつなぐ点では、それまで学生の調整に少し負担があったり、学生に何を手伝ってもらえばよいか見通しが持ちづらかった先生方も、授業計画が立てやすくなったり、学生同士も情報共有することが可能になり、孤立せずにのびのびと活動できるなど、両者にメリットが生じました。さらに、子どもたちも、大人が安定したネットワークを築いていく中で、安心して学校生活を送れるようになっていったように感じています。
-保健室は、臨床心理士のカウンセラーがいたりするのでは?
宮 福島県の当時の小学校には、カウンセラーはいませんでした。マンモス校と呼ばれるような学校でしたが、支援学級は1つもなくて、代謝疾患や遺伝性筋疾患などの子ども、さらには重い発達障がいや情緒障がい、不登校の子どもなど、さまざまな困難を抱えた子どもたちが通常学級で生活をしていました。先生方はとてもご苦労されていたと思いますが、その分、向上心が高く、仲がとても良く、私たちのような学生もその輪の中に入れて下さり、社会資源として良い意味でうまく使っていただいたという印象があります。
-スクールカウンセラーが配置されている正規のポストではなく、とにかく助けてくれる人がいたらありがたいというような感じですか?
宮 私は学生という身でしたので、もちろん正規のポストではありません。福島大学と福島市の教育委員会との提携で、派遣という形で入らせていただきました。学校には、スクールカウンセラーだけでなく、さまざまな人材が投与されています。警察OB、教員OB、学生、地域の読み聞かせボランティア、総合的な学習の時間を活用した外部講師など、さまざまな方が混在しています。これらを取捨選択し、うまく組み合わせながら、教育活動をより充実させていくことができるかどうかで、学校の特色がでているのかもしれません。
-修士論文ではどのようなことを扱ったんですか。
宮 これまでお話ししたフィールドの経験や、教育学者であったジョン・デューイの研究による成果をあわせて、実際の活動を通して見えてきたスクール・ソーシャル・ワーカーの資質についてまとめました。また、5,000人ほどの福島県内の民生委員・主任児童委員の方々への量的調査もさせていただきました。先行文献では、民生委員に直接調査を行っているものがあまりなくて、同じゼミ生が、高齢者問題に関心の高かったので一緒にやらせもらいました。
卒業生インタビュー1-3 宮地さつきさん(法政大学)
スクール・ソーシャル・ワーカーとスクールカウセンラー
-スクールカウンセラーとは違うんだと実感したようなことはありますか。
宮 家庭訪問するカウンセラーもいらっしゃいますが、関係機関をまきこんでいくとか、社会資源をつくっていく活動などは、大きく違う点だと思います。相談室でのすごし方について、カウンセラーは話をきいて、活動しながら、本人の気持ちに寄り添っていくということは大事にされます。一方で相談室をどう使うか、学校のなかでどう機能させていくか、子どもの学習権をどう保障していくかというようなことはあまり考えられてはいませんでした。学校は子どもたちにとって、家庭の次に大きな居場所であり、社会資源です。
-スクール・ソーシャル・ワーカーがいたから解決できたと感じるようなことはありましたか。
宮 スクールソーシャルワーカーがいたから解決できた、ということを証明するのは難しいですね。また、「解決」をどこにおくか、ということもあると思います。ただ言えることは、子ども達やその家族が「より良い生活」を送れるようネットワークを広げ、人と信頼関係を築きながら自立していく道を、当事者の方々と共に模索することはできたと思っています。
例えば「養育環境」と一言で言っても、経済的困窮やひとり親家庭、多子家族、親が病気、特に精神疾患などがある場合や、虐待や放置する親、あるいは子どもを学校に行かせない親、問題は実に様々です。対応も就学援助、支援学級、放課後の過ごし方、学習援助など。関係機関は、学校はもちろんのこと、適応指導教室、地域のNPO団体、主任児童委員、福祉事務所、保健課、社会福祉協議会、サービス事業所、病院、児童相談所、警察など多様な機関が関わる必要が出てくる場合が少なくありません。親から分離する必要があると児童相談所が考えるようなケースでも、知的レベルが高い子どもの場合には、受け入れ先によっては逆にトラブルメーカーになってしまう場合もある。また、別のケースでは、高校に進学したいが親が認めない場合、本人の学力保障とともに、親をどう説得するか、誰が伝えるのか、並行して検討しながらいろいろな関係者が本人の希望を実現するために努力する。子どもからすれば、親に励まされて受験したい、自分の可能性を応援してほしいというのは当然の願いです。福祉では、エンパワーメントというのですが、やはり本人のエネルギーを最大限に引き出すような方法で、課題に取りくむ必要があります。そのために、親と向き合えるだけの環境を整えていくことで、本人の学校生活をサポートしていくことが、私たちの仕事だと考えています。
-7年くらいやって、なりはじめのときと、全国的に状況が変わってと思うのですが、仕事やその体制だけではなく、研修、全国的な組織など変化をおしえてください。
宮 大きく変化したことの一つには、福祉関係の資格保有者が担い手になってきたことでしょうか。事業開始当時は、開始が急だったこともあってか、全国的にも、退職教諭が任命されることが多かったようですが、現在は、『社会福祉士または精神保健福祉士』の保有者を募集している地域が増えているように感じます。また、私が大学院に入った頃、全国組織として学校ソーシャルワーク学会が設立されました。以前からNPOの協会がありましたが、こちらは市民活動として草の根の実践を丁寧に積まれていました。一方、学会には研究者と教育委員会や学校を拠点に実践されている方、さらに現職教員の方々もメンバーに加わっています。学部4年生の時、卒業研究のために、すでに試験的に活動を始めていた大阪府教育委員会にお邪魔しましたが、いまも西日本の方がより活発に実践が進められているような印象があります。
-まだまだ全国的には浸透していないということですか。
宮 拡大してきていると言っても、実際には、スクール・ソーシャル・ワーカーがいない県もあります。配置する必要がない、と判断されているところもあると思います。また、配置はされているけれども、身近に十分な支援体制が構築できていないところも多いと思います。各県に研究者がいて、スーパージョンが受けられる体制ではありません。地方にいくほど、一人の先生が近くの県を走り回って、後方支援を行なっているところもまだまだたくさんあります。これは、この領域だけの問題ではないと思いますが。
-法政大学に移ることになったのは、何故とか、何をやろうと思ったかなどはどうでしょう。
宮 3つあります。まず1つは、スクールソーシャルワーカーとしての資質向上のあり方について検証していきたいと考えています。学校の先生や、親御さんへの伝え方や、価値を押しつけても仕方ないし、学校現場は基本的に年中忙しいですので、先生たちのペースを尊重しつつ、子どもたちの学習権や自立が阻害されていないかを考えていくスタンスですけど、使ってもらわなければ、存在価値がありません。さらに誤解を恐れずに言うならば、東日本大震災を直接経験する中で、いまのスクールソーシャルワーカーとしてのスキルでは、先生方はもちろん、そこで暮らす子どもたちやその家族をサポートすることに限界を感じていました。あらゆる関係機関と共に協働体制を築いていくことができるようなソーシャルワーカーとしてのスキルとシステムづくりが急務だと感じたことから、違う立場でそれに寄与していきたいと考えました。2つめに、これまでの実践を、少し足を止めて整理をしたいと考えていました。この7年間、試行錯誤を続けながら、また、周囲の支えがあったからこそ、微力ながらがむしゃらに実践を積み重ねていくことが出来ました。その中で少しずつ、その活動を少し違う角度から客観的にみたとき、どのように映るのかに関心が向いてきました。そして3つめに、大学でのソーシャルワーカー養成への関心です。現場でさまざまな新任ソーシャルワーカーと出会う中で、ソーシャルワーカーを目指す学生が、大学教育のなかで、どういった学びをして、現場にでてきているのか、にも関心がわいてきました。私は臨床心理学科にいたので余計感じるのかもしれません。新カリキュラムになり、養成プログラムが充実した中で、純粋に福祉職を目指す学生がどのような養成を経て、どのような自己覚知をしながら、進路選択をしていくのかに関心がありました。これらの理由から、今回、実習指導室での仕事をいただくことができたことは、現場にも学生にももっとも近くで関わることのでき、研究とも向き合える最良の職場であると感じています。
-ここではどういう仕事をしているんですか。
宮 実習指導室では、社会福祉士・精神保健福祉士・心理実習の事務を請け負っていますが、私の業務は、主に社会福祉士の実習事務になります。実習先と日程調整したり、学生とのマッチング、さらには巡回指導や帰校日の調整などを、各クラスの担当教員と相談しながら進めます。本学の特徴として、地域ごとにクラス分けがされています。実習先は1人につき1~2ヵ所ですが、クラスの中で高齢・障がい・児童・社会福祉協議会・福祉事務所などさまざまな領域に実習へ行く仲間と学び合うことで、疑似的に他領域のことを学ぶことが出来たり、地域全体を見渡しながら福祉を学んでいくことができる、というユニークな取り組みがなされています。このような学びのスタイルは、これからの地域福祉を考えていく上で、とても理にかなっているなと感じています。
-実習指導室での業務は任期付で最大5年間と伺いましたが、次は考えていますか。
宮 まずはこの5年間の間に、博士課程への進学を考えながら、これまでの実践の整理をしたいと考えています。理論と実践の両面で整理をして、その上で、研究職になるのか、現場に戻るのか、まだ、私のなかでも定まってはいません。ただ、いま月1回の頻度で、スーパーバイザーとして福島に入っていて、現場で悪戦苦闘している後任のスクールソーシャルワーカーたちを後方支援しているのですが、やっぱり現場はいいなとしみじみ感じます。確かに大変そうだし、疲弊することもたくさんあることも知っていますが、生き生きやっているなと思います。どのような職につながったとしても、そういう息づかいを感じることのできる仕事に就ければいいと思っています。
スクール・ソーシャル・ワーカーの未来を考える
-川崎の事件がきっかけになって、スクール・ソーシャル・ワーカーを各校に1名ずつ配置しようという政策的動きもあるんですが、そういうことはどう思いますか。
宮 まず、大きな課題として、それだけの人材がいるのかということが1つあげられると思います。私が最初に仕事に就いた、文部科学省が広げた時期もそうでしたけれど、何もない状態で、人がいない中で、やるよということだけがアナウンスされてしまっていると、現場がかなり困惑します。学部でも、スクール・ソーシャル・ワーカー課程が全国的にも少しずつ広がっていますが、『スクールソーシャルワーカー』という資格があるわけではありません。福祉と教育の領域にまたがっているこの分野について、学部の養成課程の中だけで、すぐに学校に入って耐えられるだけの専門性が取得できるかというと、正直、まだまだ課題が山積みだろうと思います。
-資格もばらばらだしね
宮 統一する必要があるかどうかも考える余地がありますが、わたしの後任の二人も、社会福祉士でも精神保健福祉士でもありません。もちろん、資格があればより良いとは思いますが、資格があるからといって、それがすぐ学校現場で役に立つかというと、難しい面が多々あります。今の時期は、資格保有者と相談援助の経験者、両面から人材を発掘していきながら、双方の知識や技法、価値観などを融合させながら、相乗効果を図っていくことで、質・量ともに担保している地域も多いと思います。
しかし、現状を嘆いていても仕方ありません。その必要性が認められたことを前向きに捉えながら、研究者と実践者がともに学び合いながら、日本におけるスクールソーシャルワークの理論化と人材育成を、時間をかけて行っていく以外にないと思います。
-臨床心理士だと大学院レベルの教育があって、カリキュラムもあり、試験もある。社会福祉士の大学院レベルの資格があればいいとか?
宮 社会福祉士も現在、生涯研修制度ができ、基礎・共通・専門の大きく三段階の学びの機会を設けています。以前までは、試験に合格したらそれで勉強終わり、といった状況でしたが、現在は、日々変化する社会情勢や福祉を取り巻く変化や利用者のニーズに寄り添った実践を重ねていく必要が浸透し、資格取得後も研鑽を行っていくことが推奨されています。その研修とも併せて、大学院で学ぶことも、より専門性を高めていく上では有効な選択であると考えます。
-一線で仕事をしているなかで、大学院卒はどのくらいいましたか。
宮 先ほども述べましたが、西日本や関東は大学が多いことも手伝ってか、多くの方が、大学院で学んでから現場に出ていたり、現場で実践を重ねながら大学院で学んでいる方が多いと思います。一方、私がいた福島県を含めて、東北地方はごく少数です。配置枠が少ないこと、大学が少ないこと、指導いただける先生が限られていることなどが要因として考えられます。
-小学校からずっと不登校だった中学3年生が、高校にいきたいということになったときに、家庭の問題が背景にある場合があります。生活保護を受けているお金を母親が使ってしまう、子どもは高校に行きたいのに、しかし、学校は家庭に入り込めない。そんな時、学校と家庭の間をとりもってくれる人がいるといいなと思っていたんです。
宮 先生方にとって、とても悩ましい課題ですよね。ただ、注意しなければいけないことは、ソーシャルワーカーだから、何をやっても良い訳ではありません。いまは、所属している教育委員会や学校の考え方、さらにはワーカー自身の力量に委ねられている部分が大きいかと思っています。その子が、なぜ高校に行きたいのか、なぜ、不登校状態になってしまったのか、なぜ母親は保護費を使い込んでしまうのか、なぜ学校と家庭の関係が十分につながることができない状況にあるのかなど、問題の背景に目を向けることと同時に、その子やその保護者の今できていること、強み、社会資源などもしっかりとアセスメントしていくことで、問題解決の糸口を模索していきます。先生方が最も子どもたちや保護者と接している時間が長い分、情報もたくさん持っています。それらをいっしょに整理をしながら、アセスメントすることは、間接的に、先生方をエンパワーメントしていくことにもつながります。そして、実は先生方ができることも、まだあるのだということにも気づかれることも多々あります。
-とくに若い女性が入っていくときに、どうやって、コンタクトをつけていくのですか。
宮 多くの先生方は、最初、どのように関わってよいのかわからず、戸惑われています。その学校の受け入れ体制にもよりますが、まずは窓口となる先生としっかりと関係を築いていくことから始めます。校内に1人でも2人でも、理解をしていただいている先生がいることが大切になります。そこから、共有できる担任の先生につながっていきます。先生の特性として、基本的には教えることが好きだと思います。分からないことがあるので、教えてくださいと、先生の懐に入っていく。1つ1つの事例や実践を積み重ねながら、先生方の信頼関係を重ね、ネットワークを築いています。さらに、大学院時代の経験もあってか、私が学校に入る時に大切にしていることは、保健の先生の存在です。管理職がどれだけ養護教諭に一目置いているか、また、養護教諭自身のアンテナの高さや校内での位置付け、どのようなことに課題意識を持っていらっしゃるかなどが、学校でソーシャルワークを展開していく上で、とても重要な視点になると考えています。
-ソーシャルワーカーになる素質というのは、人と接触するのが好きというのが、基本ですか。
宮 勿論それも大切な要素だと思います。併せて、最近思うのは、「そうぞうりょく」、イメージ(想像力)とクリエイティブ(創造力)が大事じゃないかということなんです。相手がどう思っているか、感じているか、痛みを受けているのかをイメージする。そして、この先、どういうことが必要となっていくのか、どういうことがあれば、その人にとって、よりよい社会環境になっていくのか、そのクリエイティブな力があって初めて、いま専門職として自分が何をしなければいけないのか、何をどのタイミングでどのように巻き込んでいくべきか、実際のプランニングができていくと感じています。
-最後に、臨床心理学科の学生に、あるいは、将来入りたいと思っている高校生にアドバイスを。臨床心理学科を卒業しても、就職がないと躊躇する傾向があると言われているんですが、
宮 これを言うと先生方に怒られるかもしれませんが、臨床心理学科に入ったからといって全員が臨床心理士にならなければいけないわけではありません。私の友達も、大学院に進学して臨床心理士を取得し、病院や福祉施設などに勤めている人もいれば、まったく心理職には就かずに民間企業やアパレル関係、音楽活動で頑張っているなど、いろいろな分野に就職していきました。しかし共通していることは、どのような職場でも人と関わる仕事、人に影響を与える仕事をする上で、臨床心理学の学びはとても有効であるということです。特に、人との関わりが希薄だと言われる現代社会だからこそ、実は、臨床心理学科で学んだことを具現化し、他者と円滑なコミュニケーションを図ることのできる人材は、どのような分野においても重宝されるのではないでしょうか。さらに、私が文教大学で学べてよかったと思うのは、小さな大学からこそ、学生同士のつながりが密で、学部を超えて横のつながりを大事にするところは、文教の特徴だと、卒業して改めて実感しています。せっかく同じ4年間を過ごすのであれば、一人で黙々と勉強するよりは、いろいろな人と切磋琢磨して活動していくことが、社会に出たときに活きていくだろうなと思います。
卒業生インタビュー1-2 宮地さつきさん(法政大学)
スクール・ソーシャル・ワーカーとして勤務 さまざまな子どもの問題と格闘
-いよいよ就職をしたわけですが、就職の形はどうだったんですか。
宮 最初は非常勤で県からの派遣という形です。
-公務員ですか?
宮 準公務員といった形になります。カウンセラーと一緒ですね、ポジション的には。最初は2つの市をかけもちして、年間でそれぞれ何日という枠組みの中での活動でした。
宮 私はたまたまどちらの市でも、担当の学区を任されていましたが、当時の教育委員会としても指導主事としても、スクールソーシャルワーカーが何をする仕事なのかよくわかってはいませんでした。それは、私が配置された市だけではなく、きっと全国的にそのような状態の中で始まったのだと思います。7年前なので今以上に未知の領域でしたから、当たり前ですよね。そんな中でよく雇っていただいたなと感謝しています。
-県に席があったのですか。
宮 初年度は、県でも市でもなく、どちらの市も、中学校に席がありました。2年目は、1つの市にしぼられたこと、2つの中学校区を担当することになったので、市の教育委員会に席がありました。
-席というのは、文字通り
宮 デスク、パソコン、ロッカーがある、ということです。
-ずいぶん変わった?
宮 変わりましたね。でも当初は、教育委員会でも何をしているかわからない存在でした。でも、その活動を少しずつ理解していただけるようになっていきました。一年目は国の十分の十の事業だったけど、2年目は3分の1の補助になって、県としては、福祉関係の有資格者だけ残すことになりました。当時、資格保有者は私と、あとはベテランの方でした。その他は、市町村の単独で活動を継続できるところは残り、難しいところはなくなっていきました。
3年目には県の事業としてもなくなってしまいました。しかし、本宮市としては、残したいということで、3年目の夏に、正規職員になるために公務員試験受けたんです。10月採用という形で入庁し、その半年後に東日本大震災・福島第一原発事故があったんです。
-それからは、正規の公務員ですね。どのような活動をしていたのでしょうか。
宮 身分が保障されると活動の幅が違ってきました。ひとつは、協力頂ける社会資源の多さです。私は初年度から、夏休みを大事にしたいと思っていました。子どもたちは自由でいいんですけど、夏休みをどう過ごすかで、2学期以降が違ってきます。初め不登校対応だったんですね。カウンセラーが週1回で、残りの日対応してくれればいい。そうじゃないよなと思っていながら、私もうまく言葉で説明できない状況で、行動で示していくしかないと思って、夏休みに先生方と協議して、不登校の子どもたちと関わる時間をとらしてほしいと頼みました。本来勤務時間ではなかったんですけど、他の月から一日ずつくらい勤務日をもらって、何日か夏休み中に活動できるようにしていただきました。家庭訪問もしたし、学校でも家庭科の先生に協力していただいて、調理教室などやりながら、ひきこもっている子どもを巻き込こんでいこうと考えたのです。それをきっかけに、毎年夏休みに活動するようになっていって、市の職員になったあとは、市内全部の小学校、中学校にもまわるようになって、不登校、特別支援の子、支援学級の子、家庭的に難しい、遠出ができない子ども、両親共働きで、遊びにつれていきたくてもなかなか時間が取れず充実した夏休みの想い出がつくれない子どもたちなど、さまざまなニーズを持った子ども達を含めて20名から30名弱集めて、プログラム組んで、毎年やっていました。地域の方々に講師としてきていただいて、調理教室とか、スポーツとか、いろんなことを教えていただく。最終的に、子どもたちが、親御さんや先生方を招いて、ランチをして、2学期もお願いしますという一連のプロセスをしていたんです。最初は、保護者の方も預けることに心配されていたと思います。でも、参加してみると、子どもたちが、いきいきして、今日の活動を家で話してくれる。一人では宿題がはかどらない子も、他の子と張り合うように学習に取り組むことで、早々に宿題が終わる子もたくさんいました。また、毎回朝10時から始まるのですが、時間に遅れないように生活リズムを自ら整えて参加し、その流れのまま2学期につなげていくこともできます。さらに、高学年や中学校になると、部活とか、合唱コンクールとか、子ども達も忙しくなりますが、なにを優先するのか子どもたちと話すきっかけになった、と保護者が教えてくださったこともありました。このプログラムが、子ども達の力を引き出す手助けにはなったのかな、と嬉しく思いました。
-引きこもりの子どもが、引きこもりから世の中に出てきた?
宮 もちろん、実際に関わっていた期間の中だけでなく、卒業後に出逢った方々にも支えられたことも大きかったと思いますが、卒業後にわざわざ役所に来てくれて、「修学旅行に行けるようにたくさん後押ししてくれたのに行けなくて申し訳なかった、ずっとひっかかっていた」という話をくれて、立派に前向きになっている姿をみて、うれしかったです。また、その子は、成人式にも参加し、他の子どもたちとわけへだてなくやっているのを見ることができたときには、自分の存在意義を見出し、悩みや苦しいことがあってもそれを乗り越える力が一人ひとりにあることや、子どもたち一人ひとりが可能性に満ちていることを、改めて教えてもらえた気がしました。
地域の協力関係の構築
-今の話をきくと、ソーシャルワーカーというより、地域コーディネーターというイメージですね。ソーシャルワーカーというと、トラブルがあったときに、ひとつの関係者だとうまくいかないので、いろいろな関係者を組織して協力関係で解決する仕事のように思えるのですが。
宮 もちろん、関係者と共に問題解決にあたることも多々あります。私が活動していく中で当初から最も頼りにさせていただいた職種の1つが、保健師さんでしたし、困難な事例ほど、より多くの関係者と協力をしていかなければ、その子どもや家庭をサポートすることは困難です。市町村ごとに、要保護児童対策地域協議会があるんですが、学校と他の機関に温度差があるんです。橋渡しもするのですが、お互い多忙ということもあり、会議もなかなかできない。ケース会議などをしなければいけないんですけど。それだけでは先生方不安だし、関わっている機関が多いほど収拾がつかない。そこで、両者の間にいるスクール・ソーシャル・ワーカーが要所要所でお伺いをたてながら、学校が必要だと言ってもらえれば、調整して支援会議をしてきました。
しかし、私が当初から大事だと思ってきたことは、予防的に関わる、ということなんです。そうでないともぐらたたきになってしまう。そうではなく、リスクが高い家庭や子どもを把握しアセスメント(見立て:何に困っているのか、表面上の問題と潜在的な課題は何かを整理すること)する中で、未然にフォローするような働きかけをしていくように努力していました。
-予防的というと、日常的に連絡をとりあう会議とか、必要ですよね。
宮 各学校には、何もなくても、月一回は顔をだして、情報交換したり、気になる子どもを観察したり、必要があれば、校内でケース会議をしたり、必要ならば更に調整して関係機関も集まっての会議を開催することはありました。学校にも温度差があり、校内でできるよというところもあるし、いつでもいいから来てというところもあるので、学校の主体性を重んじる必要があります。自分たちでできるにこしたことはないので、それはそこでやっていただくようにします。ただ、アピールしないと伝わらないので、毎月、通信を出しながら、子育てのことや、福祉的な視点や制度、サービスなどを伝えていました。
-スクールカウンセラーとの協力関係のとり方とかは、どうしていましたか。
宮 それぞれのカウンセラーの持ち味や、資格取得の有無、また、学校が求めている役割などによっても違いますが、私は概ね、良好な関係を築けてきたと感じています。一番最初の中学校のときに、3日出ていたので、1日はカウンセラーと同じ勤務日にしてほしいとお願いしましたが、教頭先生からは、せっかくだから、カウンセラーが来ていない日に来てほしいと言われたのです。誰かが来ている日を多くして、相談室登校の子どもたちが1日でも多く登校できるようにしてほしいということでした。戸惑いもありましたが、スクールソーシャルワーカーはスクールカウンセラーとは異なる役割を持っていることを理解してもらうには時間がかかること、そして、それが学校のニーズなので、そこから出発しなければいけないと思いました。実践を通して、カウンセラーと私たちの役割がどう違うのかを示していかないといけないと思いました。ただ、月一回は同じ日にしてもらいました。
今年度のゼミが開始されました
今年度の共通テーマは「環境・環境としての人間」です。少々わかりにくいのですが、教育は人間にとって「環境」そのものであるし、また、教育によって形成された人間が、更にまた環境としての意味をもってきます。家庭環境や学校の人間関係などは、それ自体が環境でもあります。
今、統一テーマの下に、個別のテーマを明確にする作業をしています。実際に研究が始まるのは、まだ少々先ですが、今年は、ぜひこのブログも活発に運営していきたいと考えています。
子どもの貧困 インタビュー
先日、私は埼玉県の社会福祉課にインタビューに行った。本当は生活保護を受けている子ども達を支援する団体に直接インタビューに行きたかったのだが、その団体を設立させた埼玉県の社会福祉課にならインタビューすることを許可して頂いたので、埼玉の社会福祉課に行くことになったのだ。今回はインタビューに言って知ることができた、その団体の概要など大まかな部分の報告をしていきたい。ここでは、その団体のことをAとする。
Aとは埼玉県にある教育・就労・住宅の3つの分野から、生活保護を利用している人を支援する民間団体だ。中でも私は子どもの貧困というテーマで調べているため、今回は教育支援のことについてのインタビューを行った。
Aは生活保護受給家庭の子どもだけを対象に、高校進学を目標に主に中学生に勉強を教えている。なぜ高校進学が目標かというと、やはり、高校を卒業しないと就職ができないからだ。生活保護を受けている子どもは、受けていな子どもより高校進学率が低い。つまりこの自伝で「貧困の連鎖」が発生しているのだ。高校へ行けない、きちんと給料のもらえる仕事に就けない、生活保護を貰わざる負えない、と保護世帯で育った子どもは大人になって再び保護を受けているのだ。
AはH21に始まった。それまで保護世帯の高校進学率は86.9%であったが、H22 には97.5%と、たった1年で保護世帯でない子ども達とほぼ同じレベルまでもっていくことに成功した。「事業を始めた当初、子ども達が本当にきてくれるか不安だった。しかし実際ふたを開けてみると、みんな待っていた。勉強したがっていた。保護世帯の子どもは様々な要因により勉強苦手な子どもが多い。今まで『勉強が出来ない』と親や先生からレッテルと張られている。そもそも『勉強ができない』なのではなく『勉強が嫌い』なんだ、と思われている。しかし実はそうではないのだ。やっぱり本人は勉強したかったのだけど言いだせなかった、ただそれだけだったのだ。」
Aは埼玉県に24か所存在する。利用数は500人ほど。対象は主に中学生で、小学生は対象外である。対象の子どもは、生活保護受給者の子どものみなので、正確な位置は秘密だそうだ。子ども達にもそれはきつく言ってあり、子ども達は「塾に行く」といったように、Aのことは口にださないようにしている。場所は特別養護老人ホームを借りて行っている。「なぜ特別養護老人ホームなのかというと、ここではスタッフが働いている姿がみられる。ここに来る子どもたちの親は働いていない人もいる。そうすると、働いている姿がみられるため将来の働く姿を想像することができる。また、お年寄りの行事(例えばクリスマスパーティー、夏祭りなど)も一緒に参加したりして、年寄りの人とも関わることができる」
指導者は支援員という元教員の人であるが、人が足らないため、大学生のボランティアがいて、支援員よりも大学生ボランティアの方が多い。指導者が多いのは、子どもたちに学力の差があり、マンツーマン指導が必要とされているからである。
以上、大まかなAの情報である。今回インタビューにいって、貧困についてより関心をもつことができた。他にも聞いてきたことや本や書類も頂いたので、夏休みを利用して自分なりにしっかりまとめたい。
ネット上で調べるスクールカースト
今までは本を読んで調べることが多かったので今回はネットでスクールカーストについて調べた。まずは階層が上になるために最も重要な要素についての男女別のデータを見つけた。
http://journal.shingakunet.com/trend/3698/
このデータがどのようにして集められたものかはわからず信頼できるデータかがわからないが、どうやら男子と女子では違いがあるようである。
また、スクールカーストは日本特有の現象だと思っていたが、調べてみるとアメリカにもスクールカーストは存在するようである。さらに階層ごとに名前もついていた。
調べてみると、アメリカのスクールカーストにはそれぞれの立場に名前が存在し、役割が違っているようである。
最後にスクールカースト診断というものも見つけたので載せておく。これは25個の質問に答えると自分がどこの階層に位置しているのかがわかる。(http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/caste.cgi)
スクールカースト診断はネット上にいくつも存在しているようで誰がどのように作ったのかは調べたがわからなかった。
今回はネットを使って簡単にだがスクールカーストについて調べてみたが、最近研究されはじめた現象であるはずなのにたくさんのページがあった。また本を読んでいるだけではわからないようなネット利用者の生の意見が書かれていた。それだけ今の学校に通っている人たちにとって身近な問題であるのだと改めて感じることができた。
発言を「受け取る側」
教師による発言の影響について調べたことから自分の考えを少しまとめてみた。
東京都調布市の女教師の暴言について調べながら考えてみた。その発言について「このくらいは許容範囲」や「教師としておかしい」などのようにいろいろと賛否両論があるが、一番考えなくてはいけないことは、その女教師によって暴言を浴びせられていた子供達のことである。
暴言とはどこまでが暴言なのか?について考えてみた。「バカ」と言われて嫌な思いをする人もいればそれくらいの言葉は気にならないという人もいるだろう。1番は「受け取る側」にあるのではないのかと思う。他人がそれを判断することはできない。本人がどう考えどう感じたのかということが問題になってくるのではないだろうか。それが「人間の尊厳」の部分なのではないだろうか。
その女教師の処分などについても議論が交わされているが、正直処分がどうなったとしても子供達が暴言をはかれ傷ついたことは消えない。その女教師の今後というよりは、その子供達のケアが最優先事項なのではないかと思う。
先日文教生にアンケートを実施した。「教師とはどんな存在か」「暴言をはかれたことはあるか」などの質問をしてみたところ、教師とは「親とは別に成長を促進してくれる人」といったような回答が多かったように思う。そして暴言の内容とはどれもその人についての否定的な言葉であった。まだ全ての回答を見ることはできていないが、自分を否定されること=自己肯定感を損なわれるようなこと、というのが特徴的であった。
まだいまいち核心には迫れない部分があるのでもう少し考えられる材料を増やしたい。
なにかきっかけとなるような文献などを探してみたいとおもう。
過激な発言が生まれる要因
なぜ過激な発言が生まれるのかを個人的に考えてみた。
人格的な面から考えると、演じることによって、普段の生活では弱い立場にいる者や、中くらいにいても、自分はもっと上にいるべき存在なんだなどと、どこかに自分を高い位置におこうという意思があるのではないかと考えた。そして、自分と同じような過激な発言をする人と仲間意識や連帯感を持つようになり、自分が強くなったように錯覚し、さらに過激な発言へとエスカレートしていってしまうのではないかとも考えた。また、一度過激な(強気な)発言をしてしまっているので、後戻りするわけにはいかないというプライドのようなものも持ち合わせているのではないかと思った。
このようなことから、過激な(強気な)発言をした「自分」に誇りを感じ、また、強い自分でありたいという気持ちが過激な発言を生むのではないかと考えた。
この何か月かで、ネット右翼とは何か、演じている側の尊厳とは何かと、一通り考えることができたので、今は課題が見つからず行き詰っている状態である。
虐待された子供たち 事例①
施設へのインタビュー交渉の傍ら本や文献を読み、様々な視点から「虐待」を考えてみようと思う。その第一弾として「虐待を受けた経験のある子どもはその後の成長段階においてどのような特徴が見られるのか。」ということについて調べてみた。今回から数回にわたり秋月奈央さんの著書、『虐待された子共達』に記載された実例をもとに私の考察も含めて投稿をすることにする。
Sちゃん
小学校2年生のSちゃんは両親と母方の祖母と4人暮らしをしていた。両親は共働きのため、普段は祖母が育児をしていたが、この祖母が主に虐待を働いていたという。Sちゃんの母親もこの祖母に叩かれて育っていた。そのため、母親もまたSちゃんを叩くことでしか育てられなかったという。祖母には虐待の意識はなく。あくまでも『しつけ』だったという。また、父親は普段は育児に無関心であるが、酒が入ると暴力的な性格になる人であり、Sちゃんが児童養護施設に引き取られた時にも施設に入り込み、「Sを返せ!」と暴れたという。このように家族全員から虐待を受けていたことが明らかになり、Sちゃんは児童養護施設に引き取られた。養護施設の職員は年齢の割に体が未発達だったSちゃんに驚き、『愛情剥奪性小人症』ではないかと疑った。これは、家族から虐待を受けたことで、特に親との愛情が希薄になったため、その心理的要因によって身体の発達が阻害されるという症状である。Sちゃんに限らず、虐待を受けた子どもは養育者から愛情を注がれなかった心理的影響が発育面にも影響を及ぼす例は少なくないと言われている。
体には火傷の跡や、殴られたような長い傷跡が至る所に、しかし目立たないような場所にあったという。酒乱の父親にやられたものだろうか。しかし、養護施設の職員がSちゃんの自宅を訪れた際、母親が出したお茶に対してとっさに頭をかばうというような過敏な反応を示したことから、私は母親か祖母から日常的に熱いお茶のようなものをかけられていたのではないかと疑った。
Sちゃんは児童養護施設に来た当初、なかなかしゃべらない子であったという。これは家族との言語的コミュニケーションが希薄であったため、また、暴力をふるう家族への恐怖心から自分の意見を言えなかったためだと推測できる。また、施設に引き取られてから学校で初めて発した言葉は「バカ。死ね。」だったという。Sちゃんが日常的に家族から浴びせられた言葉なのだろう。一人称や二人称を上手く使えないという点もSちゃんが家族や周囲の人達と良好なコミュニケーションを築けなかったという悲しい事実に裏付けられたことだろうか。
職員は児童養護施設での食事や遊びの際にもSちゃんのそれまでの生活を垣間見ることができた。Sちゃんは極めて食が細く、食べるのが早かったという。家族といた時には充分な食事を与えられなかったのだろう。私はそれだけでなく、Sちゃんはなるべく家族と同じ時間を共有したくなかったのではないかと憶測を立てた。また、遊びの面では友達と「夫婦喧嘩ごっこ」をしていたという。友達と腕を引っ張り合ったり、頭を叩く真似をしたり、「役立たず。」「お前なんか出ていけ。」とお互いを罵倒したりするのだという。とても小学校2年生の女の子がする遊びとは思えないが、この光景はSちゃんが実家で生活していた時の日常を再現したものだと考えられた。親子間で遊ぶ機会を得られなかったばかりか、夫婦喧嘩という子供にとって苦しいであろう出来事を遊びとして取り入れてしまうSちゃんに同情の念を覚えた。愛情を持って育てられなかった子どもは普通とはずれた感覚を持ってしまうものなのだろうか。
以上がSちゃんの大まかな特徴である。その後は少しずつ心を開き始めるようになったという。最初は硬直していた身体が養護施設での生活を通じて段々と柔らかくなっていったのだ。また、虐待の傷跡が痛むとしばしば職員に訴えてくるようになったという、その際に「これね、お母さんに棒で叩かれたの」と言ったそうだ。Sちゃんが初めて自分から虐待を受けたことを告白したのである。この時に職員はSちゃんが本当に痛かったのは身体ではなく、心なのだということに気付いたという。私はこの場面を想像して切なくも嬉しい気持ちになった。何故ならこのSちゃんの訴えはSちゃんが普通の愛情がどのようなものなのか気付き始めたサインだと思ったからである。自分の気持ちを、苦しい体験を正直に話せる相手を見つけることができたのだ。職員のことを信頼できる相手として認識した瞬間ということもできるだろう。暴力や暴言を使わなくてもコミュニケーションは成立するということをSちゃんは知ることができたのだ。
虐待を受けた子どもも適切な場所で丁寧な応対をすることで正しい愛情を理解することができるのだということがわかった。次回は性的虐待を受けたAちゃんについてまとめようと思う。
参考文献 秋月菜央『虐待された子共達』