読書ノート「天皇機関説事件タイフーン」平山周吉

 「天皇機関説タイフーン」という、変わった題名の本は、当然天皇機関説のめぐる事件をあつかった書物だが、美濃部の弟子とされる宮沢俊義が晩年に書いた「天皇機関説事件」上下を材料としはいるが、より詳しく天皇機関説事件を扱ったものである。完全に学者肌で非政治的であったが故に、事態をさらに拡大混乱させてしまった美濃部と、より政治的で、ある意味軟弱な対応をして、戦後、その弱さを言われた宮沢の対比を軸として、そのまわりに、蓑田胸喜、清水澄、丸山真男、真崎甚三郎などの生き方を配置した、徹底した資料収集の上に書かれた力作である。かなりの分量の本だが、短時間に読んでしまった。そして、深刻な事件の叙述であるのに、笑ってしまうような場面もたくさんあって、楽しく読める。戦前の日本の歴史の展開点であった重大事件であるが、その裏を見るという意味でも、非常に勉強になった。

 美濃部達吉という人は、戦前の憲法研究者の第一人者であって、学説上も、また官僚たちの試験の上でも、中核にいた人であり、官僚や政治家の多くが教え子であり、またその学説の信奉者であった。にもかかわらず、逆賊とされ、貴族院議員をやめざるをえなくなり、そして、日本が狂信的な「国体」主義に変質して、無謀な戦争に突入していく、知っておく必要のある人物であり、事件である。
 写真をみると、非常に細身で弱々しい感じだが、どんな攻撃に対しても、まっこうから反論する、学者魂の塊(かたまり)のような人物だったという。
 貴族院での攻撃も、受け流しておけば、そのまま熱が冷めていったし、そのように多くの人たち(説を支持している人)もそのように望んだが、歴史に残る名演説ともいわれる貴族院での「反論」によって、攻撃者たちが、余計に張り切ってしまったということが、さまざまな人たちの動きによって、詳細に明らかにされている。

 いろいろな人物が、詳細な資料によって、当時の動向が語られているが、私がもっとも注目したのが、真崎甚三郎であった。これは、まったく私的なことなのだが、実は、私が育った世田谷区の家の近くに真崎家の家があり、そこに子どもや孫が住んでいた時期があった。外交官になっていた真崎の息子が、赴任地から帰国して、その娘が、同じ通学区の中学に転入してきたのである。私の兄が同学年だったために、いろいろな話をきいたし、実際に本人をみたこともある。大変な秀才であるし、また外国帰りなので、日本語があまり流暢ではなく、試験の答案を英語でかいていいか、と先生に求めたという話が広く流布していた。非常に敷地が広く、また奥まった場所に家屋があったし、住人の姿をみかけたことはほとんどなかったが、やはりめだつ家だった。
 義父が世田谷にきたときに、「ここが真崎甚三郎の家です」と説明すると、非常に感慨深気にみていた。真崎のことは、よく知っているみたいだったのだが、この本を読んで、その理由がなんとなくわかった。真崎は佐賀県の出身で、義父母はともに佐賀の人だったので、郷里の偉い人の一人だったのだろう。
 歴史的には、真崎は、とにかく「悪役」として扱われている。皇国史観の代表的人物であり、その言動は、神掛かっているようにも思われる。当人は、天皇を最大限敬っているのだが、天皇は真崎を嫌っている、というより、あまり意識していないといったほうがいいかも知れない。この対比がなんとも喜劇的にみえる。しかし、一時期にせよ、蓑田や真崎のような人物の言説が、日本社会を動かしていったという事実は否定できないのであり、何故そのようなことが起きてしまったのか、ということは、まだまだ解明されなければならないのである。それは、現在の「男系男子」派のカルト的ひとたちが、なぜ、自民党の政策を牛耳っているのか、という問題の解明にもつながる。

 さて、妥協しなかった美濃部ということだが、本書によれば、ひとつだけ美濃部は妥協したという。まず、蓑田らの美濃部攻撃は、もちろん天皇機関説を対象としていたが、支配層のひとたちは、それは問題にしていなかった。しかし、強烈な攻撃もあるし、美濃部の学説としてやはり問題視される部分があったので、その点については、美濃部を追及せざるをえなかったという。それは、美濃部の主張に、詔勅についても批判をしてよいということがあったが、詔勅とは、天皇の命令だから、それはまずいだろうという見解が強く、その問答がずいぶんあったようだ。その点で美濃部が妥協しなければ、裁判になるということだったが、最終盤で、教育勅語だけは批判がゆるされない、と美濃部が認めたので、不起訴となったというのである。教育勅語というのは、本当に強い圧力だったのだということを、この事実で再認識した。
 美濃部はテロにもあうわけだが、とにかく自説をまげない硬骨漢として一生を終えたようだ。
 それに対して、かなり融通無碍に対応して、攻撃を免れた宮沢評価は、著者も迷っている気がした。美濃部への攻撃があった当初は、宮沢は朝日新聞に、断固美濃部擁護の文章を書いたわけだが、それを末広法学部長に、ことを荒立てるなと注意されて以降、「融通無碍」になっていったし、表立って美濃部擁護をしなくなった。そして、そのことは、宮沢の心にささる刺として、ずっと残り、宮沢の東大退任の講義のなかで、強い後悔の念を表明し、それがまわりを驚かせたという。そして、晩年になって、天皇機関説事件についての著作を執筆しようと思ったが、うまくかけず、代わりに、ずっと丁寧に収集していた当時の資料を並べ、解説をはさむかたちの著作を公刊している。私自身まだ読んでいないが、これを機会に読んでみようと思う。
 さて、こうした宮沢の対応をどのように評価するのか。美濃部事件に対する東大法学部の対応を、立花隆は厳しく批判していたが、実際に当時、法学部にいたひとたちにとっては、闘うことは難しかったのではないかとも思っている。経済学部からは、処分者・逮捕者がでたが、法学部では、そうした勇者はでなかった。そのことが、東大法学部が戦後批判される理由にもなっている。しかし、経済学部では、学部のなかが対立していて、同僚を追い落とそうとした動きがあったことを考えれば、そうした動きがなかった法学部のほうが健全だったという側面もある。
 基本的に、法学者というのは、闘う人は例外であるといえる。美濃部ですら、戦後、新憲法を作成しなければならないという雰囲気になったときに、美濃部は断固として、憲法を改正する必要はないと主張していたのである。もっとも、改正するなら、じっくり時間をかけて検討すべきであり、運用を改めれば、民主的な運用は可能だという認識があったようだが、ただ、状況変化についていけないという面は否定できないように思われる。しかし、逆にそのような保守性が、学部を守り、犠牲者をださなかったともいえる。
 私自身、あまり闘う人間ではないからかも知れないが、宮沢を批判する気持にはなれなかった。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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