普段映画を見にいくことはほとんどないのだが、左右の論客にインタビューしたというドキュメント映画『主戦場』はぜひ見たいと思ってでかけた。驚いたことに、平日の昼間なのに、客席が8割くらい埋まっていた。年に2回程度はいくのだが、ほとんど2割以下なので、かなり注目されているのだろう。(もっとも、インターネットで評価を読むと、連日満員で立ち見もでるという地域もあるらしい。)また、ネットで、ここに登場した右派のひとたちが、扱い方が公正でなく、自分たちの主張が、一部を取り出されることで歪められていると抗議の声をあげているという記事を読んで、そこに注目した。慰安婦問題については、最初に知ってから50年以上たっているし、私自身の立場は固まっているから、この映画をみて、考えが変わったことはないが、新しく知ったことはいくつかあった。(慰安婦問題などないという人を右派、あるという人を左派とここでは書く。)
ただ一度、映画館でみただけだから、正確に憶えているわけではないが、慰安婦像設置をめぐる対立、河野談話、日韓の協定、アメリカのグレンデール市、サンフランシスコでの慰安婦設置、強制連行、性奴隷、国際法違反、教科書扱い等々、様々なトピックごとに、相対立する立場の論者のインタビューを重ねていく。右派たちから抗議があがったということでわかるように、彼らの主張に論理の強さは感じられない。といっても、少なくとも前半はかなり、強制連行なかった、性奴隷ではなかったという論者の発言が多く扱われていた。だから、決して不公正な取り扱いをしているとは思えないが、やはり、右派の人たちの論理は極めて脆弱であり、かつ、彼らに都合のいい、きわめて瑣末な事実を、全体像であるかのように主張している、という扱いが明確だから、右派の人たちからすると、偏った映画だということになるのだろう。しかし、実際に自分の意思でカメラの前にたち、自説を述べているし、そこで、かなり「笑える」発言をしていることも事実である。脚色しているわけではない。
いくつかの論点の提示の仕方を紹介しておこう。
強制連行ではなく、自発的な売春婦への応募であったという論理はどうだろうか。
右派は、兵隊がやってきて、いやがる女性を無理につれていったなどということはなく、お金をもらえるから自ら応募したのだというのだが、左派は、強制連行の「意味」は、法的にはもっと広く、「自由意思ではない」ということ、しかも、詐欺的な内容がはいっていても、それは強制連行という概念と理解されていると語る。更に、当時の日本は売春が公認されていたと、右派はいうが、未成年を雇用することは違法であったにもかかわらず、慰安婦として戦場にいった者の少なくない人たちが未成年であったという事実が確認されていると左派。
性奴隷については、右派論客は、お金ももらえたし、買い物にでかけることもできた、だから奴隷ではないとするが、お金をもらえるとか、外出できることは、奴隷性を否定するものではなく、奴隷的であるとは、行動が完全にコントロールされている、つまり、許可がないと外出できないということは、奴隷的なのだという見解が対置されている。
たくさん登場する人物の中で、最も印象的だったのは、日砂恵ケネディ氏で、櫻井よし子の後継者と言われたのだそうだが、その主張の間違いに気づき、立場を変えたのだが、それで「これで自由になれた」と思ったという。
一般に慰安婦問題であまり触れられることがないが、この映画ではきちんととりあげられていたのが、白人の慰安婦である。特に、インドネシア占領時に、捕虜となったオランダ人は、女性の少なくない人たちが慰安婦にさせられ、戦後日本に補償を求めている。オランダの日本へのネガティブな感情は、男性の強制労働とこの慰安婦強制が大きい。私がオランダに滞在していたときにも、まだ日本に恨みの感情をもっている人がいるから、気をつけるようにと言われたことがある。
見逃せない発言として、杉田議員が、「中国は日本よりずっと技術力が低く、日本を追い越すことができないから・・・」と述べていた。IT技術などいくつかの領域で、日本は中国の後塵を拝しているし、大学の世界ランキングでも、特許取得でも、中国は日本よりも上位になっている。ノーベル賞獲得はまだ日本が断然上だが、ノーベル賞はかなり前の業績に対するものであり、やがて中国が躍進することは目にみえている。日本の国会議員がこういう認識でいるというのは、驚きだ。
この映画は、慰安婦問題をよく知らない人には、ぜひ見てもらいたいし、問題点を浮き彫りにしている点で非常に優れていると思う。
しかし、本当に考えなければならないのは、ここから先のことである。
ここでは、全く異なる立場の論客たちに、個別にインタビューして、それをつないで、まるで議論しているかのような雰囲気を作っているのだが、残念ながら、彼らが同じ場で論争することは決してない。これは、日本に限らないとは思うが、日本の場合には、立場が違うと決して議論しないという色彩が強い。だが、対立する立場で議論、あるいはコミュニケーションが成立しないと、政治的に強いほうが、世の中を支配してしまうのだ。
だから、結局政治的に弱い立場、ここでは映画がたっている左派の立場が、柔軟な議論を展開する必要があると感じる。この映画に登場した右派の人たちが、「騙された」といって上映差し止めを求めたというのだが、彼らは、決して騙されたわけではないだろう。監督は、公開する前提で話をし、文書で確認していると、公に説明している。結局、この映画でピエロを演じてしまったことを自覚しているのだろうが、だからといって、自分たちの見解が「弱い」と自覚して、意見を変えたわけでもないだろう。
可能なら、私もやりたいと思う作業は、この人たちがなぜ、歴史を冷静に見れば、否定しようのないことを否定するような見解をもつに至ったのか。あるいは、そこに気づくことはないのかを究明することだ。
ここで登場する右派論客の藤岡信勝氏は、左派から右派に転向した人だ。私よりも年上の研究者だが、私が大学院生のころには、既に、左翼雑誌に論文を書いていたし、教育学者としても、前後民主主義教育の担い手に連なる活動をしていた。しかし、ある時から、自虐史観を乗り越えようという中心人物になって、今に至っている。この映画では、「国家は謝罪してはいけないのだ」という主張をしているが、原爆投下やベトナム戦争などに対して、決して謝罪しないアメリカから、そうした主張を学んだのかも知れない。
逆の変化をした人は、日砂恵ケネディ氏である。今でも、アメリカで慰安婦像設置に反対表明をしているころのブログを読むことができる。映画では、なぜその見解が変わったのか、多少の事実が語られているが、正直すっきりと納得のいく説明だとは思えなかった。もっといろいろと苦悩があったのではないか。
また、慰安婦否定、南京虐殺否定のいわれる歴史修正主義の最も中心にいる安倍晋三氏も、よいしょする本はたくさんあるが、実は、彼の内面は、知られていないのではないだろうか。安倍晋三氏がコンプレックスをかかえた人物であることは、明らかだし、いろいろな人から指摘されている。戦前、リベラルな学者を多数追いおとした蓑田胸喜もまた、コンプレックスをバネとして右翼思想家として活動したことが知られている。蓑田が、思想的雰囲気としてあの軍国主義時代を作り上げた有力人物であることを考えれば、もっと知る必要がある。また、事実認識の過ちを指摘するだけでは、ここで嘲笑されてしまった人たちが、実は日本を動かしているという事実を変えられない。