キャンプで行方不明、大人たちの安易な計画ではなかったのか?

 山梨県道志村「椿荘オートキャンプ場」で、行方不明になった小学一年生の当日の経過が、両親によって明らかにされた。毎日新聞掲載の内容をそのまま引用する。

21日午前
9時    一緒にキャンプするメンバーの一部が到着
  午後
0時15分 美咲さんと母、姉がキャンプ場に到着
1時    昼食後、子供たちがテントを張った広場近くで遊ぶ
3時35分 おやつを食べ終えた子供たちが沢に遊びに行く
  40分 美咲さんが後を追いかけて行く
  50分 大人が子供たちを迎えに行く
4時    美咲さんがいないため、捜し始める
5時    日没が近づき警察に通報
6時    警察官が到着
8時    子供たちを寝かせ、大人は捜索を継続
22日午前
1時30分 仕事を切り上げた父が到着。3時まで捜索を続ける “キャンプで行方不明、大人たちの安易な計画ではなかったのか?” の続きを読む

トロッコ切り換え問題を題材とした授業で、子どもたちが不安に


 9月29日の毎日新聞に、「死ぬのは5人か、1人か…授業で「トロッコ問題」 岩国の小中学校が保護者に謝罪」という記事があった。昨日は毎日新聞のページで読んだので、ただ今日コメントを書こうと思っていたのだが、今日ヤフーニュースで読むと、6000件ものコメントがついていた。とうてい読みきれないので、それは読まずに、書くことにするが、かなり関心を引き起こしたことは間違いない。
 どのような記事かというと、今年の5月に、中学生2,3年と、小学生5,6年の合計331人に、スクールカウンセラーが行った授業だそうだ。内容は、以下のように紹介されている。

 「プリントは、トロッコが進む線路の先が左右に分岐し、一方の線路には5人、もう一方には1人が縛られて横たわり、分岐点にレバーを握る人物の姿が描かれたイラスト入り。「このまま進めば5人が線路上に横たわっている。あなたがレバーを引けば1人が横たわっているだけの道になる。トロッコにブレーキはついていない。あなたはレバーを引きますか、そのままにしますか」との質問があり「何もせずに5人が死ぬ運命」と「自分でレバーを引いて1人が死ぬ運命」の選択肢が書かれていた。」

 そして、授業の趣旨は、以下のように説明されていた。 “トロッコ切り換え問題を題材とした授業で、子どもたちが不安に” の続きを読む

アントリス・ネルソンスのカルメン 40年経つと同じ演出でもずいぶん違う

 youtube を開いたら、偶然ネルソンス指揮の「カルメン」があった。ネルソンスには興味があるので開いてみると、それは、2018年1月のウィーンでのライブ、しかもフランコ・ゼッフィレルリの演出となっている。見てみようと思い、2幕まで視聴した。ウィーンやミラノなどの常設歌劇場は、ひとつの演出で公演が行われると、その演出でしばらく上演が続く。とはいえ、長く続く演出は、どのくらいあるのかわからないが、このカルメンはプレミエが1978年、カルロス・クライバーによる有名な演奏だから、40年続いていることになる。同じゼッフィレルリのミラノにおける「ボエーム」は1963年がプレミエなので、半世紀以上続いていたし、世界中で採用されている演出である。彼の他の演出もけっこう広く、かつ長く継続しているので、理由があるのだろう。私が推測するに、彼の演出は、とにかく「豪華」でお金をかけていることがすぐにわかるのが特徴だ。ゼッフィレルリは、ギャラはあまり要求しないが、演出にかかる費用は惜しむな、という姿勢を保持していたらしい。それは舞台を見るとすぐにわかる。
 まず最大の特徴は、人がたくさん出てくることだ。ボエームの第二幕、カルチェラタンでは舞台を2段にわけて、それぞれぎっしりと人がのっている。クリスマスのカルチェラタンに繰り出した人々なのだが、200名はのっているといわれている。通常こうした人々は合唱団なのだが、そんなに合唱の人はいないし、また必要でもないのて、単にぶらぶらしていくだけだ。カルメンでも、第一幕は、煙草工場の側ということになっているのだが、工場の女工、軍隊、行進する子どもたち、女工にいいよろうとする男たちは、ドラマ上必要な人たちで、どんな演奏でもいるが、そこに、教会の学校で学ぶ生徒と神父とか、物売りの人、単に歩いている人たちなど、とにかく大勢が舞台を行き交っている。ところが、プレミエのクライバー版と、今回のネルソンス版では、人々の扱いが大分違っていた。人数も半分くらいしかいない。同じ演出なのだから、もちろん、似ているのだが、40年もたっているし、当人がなくなっているので、指導はできない。当然変化していくわけだろう。
 一番の違いは、クライバー版では、とにかく出ている人たちが動く。有名なハバネラをあげてみよう。ハバネラは、恋には気をつけろというような内容だが、カルメンは、群衆たちの間を歩き回り、何人もからかい、ちょっかいを出しながら歌う。そして、ちょっかいをだすたびに、周りの人たちが喝采をおくる。紳士のポケットから懐中時計をとりだして、見せびらかし、紳士が返してくれと追いかけるというような場面もある。とにかく、みていても面白いのだ。ところが、ネルソンス版では、カルメンがハバネラを歌っているときには、ほとんど動かず、合唱やオケの演奏になると、動き出す。群衆は、あまり動かないし、はやしたてもしない。
 一時、(今でもそうかも知れないが)演出家がオペラ上演のイニシアをとり、やたらに歌手に対して、動きながら歌わせるような演出があった。オペラといっても、劇だから、当然動きはあるのだが、あまり激しく動くと、やはり歌うことに支障がでるかも知れない。適度に動くと、歌いやすいという歌手の話を読んだことがあるが、おそらく、ゼッフィレルリの動きは、歌手にとって歌いやすいものなのだろう。動く場面は、他に、カルメンに男たちがいいよる場面、子どもたちが行進して出てくる、また出て行く場面、カルメンがホセを突き飛ばして逃げる場面など、クライバー版ではまわりの人たちや当人が活発に動き回るのだが、ネルソンス版では、動きが限られている。兵隊たちをまねて行進する少年たちが、ネルソンス版では、直立不動で聴衆のほうを向いて歌っていたのは、少々興ざめした。
 クライバーの演奏はプレミエ(その演出の初めての上演)だから、かなり練習が行われる。普通指揮者などは細かい練習には参加しない人が多いらしいが、このときのクライバーは、かなり早い段階から、稽古に立ち会って、ゼッフィレルリとの相談もじっくり行っていたらしい。だから、動きなどは徹底的な指導が行われたのだろう。煩わしいという人もいるようだが、私には、いかにもドラマを見ているようで、楽しい。しかし、演出家が離れ、時間がたっていくと、だいたい動きは少なくなり、経費の関係で舞台にのる人も減らしていくのだろう。舞台上で進行するドラマという点では、ネルソンス版は物足りなさを感じた。
 演出でもうひとつ面白いと思ったのだが、舞台が煙草工場の側だし、女工さんも含めて、クライバー版では煙草を吸っている人が多く、舞台は煙が充満する感じなのだ。しかし、さすがに禁煙社会を反映してか、誰も煙草を舞台で吸う人はおらず、一度ホセが煙草を口にくわえるが吸うことはなかった。時代は、ずっと前だし、煙草女工たちなのだから、煙草をたくさんの人たちが吸っているほうがリアリティはあるが、そういうわけにもいかないのだろう。それに、出演者たちからクレームがでるかも知れない。
 肝心の演奏はというと、ネルソンスがウィーンのオペラをどのくらい指揮しているのかは、まったく知らないが、こうしたレパートリーの曲をするときには、指揮者が練習をすることはないので、いきなりの本番になる。映像にとるくらいだから、まったく練習しないのかはわからないが、おそらくぶっつけ本番だろう。個々のソリスト歌手に対しては、初めて出演する場合には、演技指導する必要があるので、そういうスタッフが個別に指導するようだ。カルロス・クライバーがウィーンのオペラと一緒にやってきて、「ばらの騎士」を振ったときには、事前練習とかでウィーンで3回指揮をして、それがDVDで市販されているのだが、そのときにはいろいろと演奏事故があり、オックス男爵が入りを間違えたので、2度目にはカットしたというような記事があった。クライバーは出演の条件として、日本でしっかり練習することを提示し、日本公演中の空き時間を利用して、オケをかなりしごいたらしい。つまり、くらいバーですら、ウィーンでの上演は、リハーサルなしだったのだろう。
 そういう状況で、ネルソンスが自分の意図を徹底できていたのか、少々不安なところもあった。歌手では、名前を知っていたのは、ミカエラのネトレプコと、エスカミリオのダルカンジェロだけで、他の人は、知らなかった。ネトレプコがミカエラを歌うのかと、疑問だったが、案の定、4人の主役級では、一番よくなかった。ミカエラは、若く純情だが、芯の強い女性であって、やはり、売り出し中の、声の比較的細い人が懸命に歌うような感じでないといけない。ネトレプコは、現在はあまりに大歌手であって、既にワーグナーを歌っている歌手だ。だから、どうしても大仰な歌い方になって、軽快に運ぼうという感じの指揮に対して、引きずってしまっていた。声もミカエラには太すぎる。有名人を出せばいいというものではないだろう。ただ、クライバーでは、ホセとの二重唱が半分に切られていたが、全部歌っていたのはよかった。
 ダルカンジェロは、モーツァルト歌いというイメージだったので、エスカミリオを少々重いのではないかと思った。懸命に強い闘牛士を演じようとしているのだが、私には空回りしているように聞こえた。まわりで聴いている人たちも、もっと盛り上げる動作をすれば、のって歌えるのではないか。
 ホセのマッシモ・ジョルダーノはまったく知らなかったが、正直、一番がっかりした歌手だ。クライバー版のドミンゴがあまりに素晴らしいので、どうしても比較してしまうが、いかにも、「演技しています」という感じで、それが歌にもでている。「花の歌」におけるドミンゴとの差は、あまりにも大きい。これで、一度は怒った女性の心を掴めるのか。ドミンゴのときの拍手は、爆発的で、いつ終わるのかわからないほど長く続いていたが、こちらはおざなりの拍手が10秒程度続いただけだ。
 肝心のカルメンだが、ナディア・クラステバ。主役級のなかでは、まあ素晴らしいと思った。悪女風のカルメンではなく、どちらかというと、「自由な女」として生きるカルメンだ。
 ただ、ネトレプコがカルメンをやればいいのではと思ったが、どうなのだろう。
 HMVでは出ていないようなので、少なくとも日本では市販されていないのではないか。そのせいか、クラシックの、それもオペラとしては異例の34万回も視聴されている。ちなみにクライバーは3万回だ。同じ歌劇場の同じ演出の同曲聴き比べは、いろいろと面白い発見がある。
 

大学入学共通テストの延期要請から、考えてみる

 現在行われているセンター試験に代わって、来年度から「大学入学共通試験」が導入されることになっている。最初に、大学入試センターの試験は、「共通一次試験」という名称だったから、「共通」が復活したわけだ。何が「共通」なのかは、正確にはわからない。というのは、少なくとも私立大学の多くが参加するが、義務ではないし、私立大学の場合には、センター試験は、おそらく別枠になっていると思われる。当初、センター試験の改革案として、大学に入学する者全員が受けなければならない「資格試験」という構想もあった。それが採用されていれば、明確に「共通試験」だったと思うが、採用されなかったので、率直にいって、「共通」の意味はよくわからない。
 それはさておき、大きな改革点は、国語と数学に記述式問題が導入されることと、英語に民間検定試験が採用されるという点だろう。問題の作成理念として、考えさせる問題を含むというようなことが解説されているが、およそ問題を作成するときに、まったく考えなくてよい問題など意図しないのだから、これは、大きな変更点とはいえない。 “大学入学共通テストの延期要請から、考えてみる” の続きを読む

グレータ・トゥンベリの国連演説への非難は的外れ

 昨年から気候変動への対応策があまりに不十分だとして、学校ストライキを始め、それが国際的に運動を引き起こしたグレータ・トゥンベリさんが、とうとう国連の会議に招待されて演説をした。彼女を招待した会議主催者に敬意を表したいし、それを評価する人たちが多いが、なかには、様々な批判をする人たちもいる。
 まずは、Foxニュースのコメンテーターだったマイケル・ノウルズ氏である。氏は、彼女のことを「精神的におかしい」と誹謗して批判が集中し、担当を解任されてしまった。さすがに、大きなメディアでここまで露骨に批判する人はほとんどいないが、ネット上の個人レベルの発信では、多数似たような非難がある。
 精神的におかしいという非難に対して、グレータ自身は、自分はアスペルガーであると公表し、アスペルガーであることで、逆に物事をあいまいにではなく、真正面からみて、それを素直に表現できるのだと返している。見事な切り返しだといえる。 “グレータ・トゥンベリの国連演説への非難は的外れ” の続きを読む

愛知トリエンナーレから考える2

 愛知トリエンナーレにおける「表現の不自由展 その後」の中止を検討する委員会が発足し、議事録が公開されている。準備の問題や運営の問題、そして、責任等について議論されているが、そうしたことは、様々に議論されているので、ここでは、別の点について考えたい。それは、慰安婦を描いたとされる「平和の少女像」を、批判する人たちが、それを見たことがあるのかという点である。おそらく、韓国やアメリカで実物をみたことがある人以外は、みたことがないに違いない。日本には、展示されていないはずだから。
 こうしたことは、実は少なくないように思われる。デンマークでムハンマドの風刺画事件が起きたとき、イスラム国家の多くで暴動や抗議デモが行われた。それを実際に現地に赴いて、抗議に参加したり、あるいは指導者にインタビューをするドキュメンタリーがあった。そして、インタビュアーは、彼らに、実際にその絵を見たことがあるのかと質問する。すると一人の例外もなく、「見たことはない」と答えるのである。そこで、実際に絵を見せる。もちろん、その絵は、当初からムハンマドの風刺をするという募集で寄せられたものだから、イスラム教徒が見れば不快感をもたらすことは、ごく当然のものであり、見た彼らは一様に批判していた。しかし、見ての批判と、見ないでする批判とは異なるはずである。 “愛知トリエンナーレから考える2” の続きを読む

学校制度の分岐型と統合型2

  日本ではどのように進路選択されているだろうか。最初の進路選択は、受験である。受験は、いわゆる通常の学力によって選抜される。学力による選抜は大学入試まで続く。では、この学力による選抜は何故行われるのか。あまりに当然のこととして理解されているので、実はあいまいなのではないか。
 まず学校は学力を育てるところだと考えられているので、その水準を計る。では、何故学校は、学力育成が中心的課題なのか。歴史的な概観をすることも有効だろうが、ここでは省略する。学力は、支配層のために必要と考えられる教養に、近代的な科学の進歩が反映したものであり、その意味では、学力の水準の高い者に、高い教育を保障することは、合理的である。しかし、そうした学力は、いかなる仕事をする上でも必要であるのか、必ずしも必要とされない仕事もあるのか。「何故勉強しなければならないのか?」という子どもから発せられる疑問は、すべての仕事に、学校で学ぶ学力が不可欠であるとは、考えられていないからだろう。 “学校制度の分岐型と統合型2” の続きを読む

学校制度の分岐型と総合型

 最近は、教育問題として、学校制度が議論されることはほとんどなくなっている。いじめや不登校、きれる子どもたち、教師の過重労働などの具体的な問題が深刻になっているためだと考えられるが、実は、制度も事実上変化している。近年だけをとっても、義務教育学校という新たな学校種が制定され、小学校、中学校、高校という区分を越えて、小中一貫、中高一貫などの学校も増えている。中高一貫に関しては、中学と高校が連続して同一法人で運営されている場合と、中等教育学校のように、一体の学校との二種類がある。そして、高校には、普通科以外に職業科があり、更に、理数などに特化した学校もある。つまり、複線型学校制度になったわけではないが、単純な単線型ともいえないシステムに変化しているのである。そして、それは、いじめ等の学校の問題の背景的要因のひとつでもある。従って、学校制度のあり方は、教育の内実にも影響を与えることを無視すべきではない。 “学校制度の分岐型と総合型” の続きを読む

小泉環境相のニューヨーク訪問 ステーキを毎日食べたいって?

 追加の記事なので、簡単に。どうしても必要だと思ったので。
 小泉環境相は、期待されているようだし、大きく取り上げられている。国連の会議出席のためにニューヨークを訪れたと、今日ニュースで報道していた。いろいろと勉強して、吸収したいと語っていたそうで、それはとてもよいのだが、気になるのは、ステーキを毎日でも食べたいと述べ、早速、ステーキ店を訪れて食べたというのである。
 おいおい、という風に思った人は、環境問題を真剣に考えている人だろう。
 現在の環境問題のもっとも大きな柱のひとつが、温暖化を抑えることである。そのために必要だとされていることはたくさんあるが、牛肉問題もその主要なひとつだ。 “小泉環境相のニューヨーク訪問 ステーキを毎日食べたいって?” の続きを読む

『教育』2019.9を読む 縛り・縛られるから抜け出せるのか

 既に10月号が出ているのだが、まだ、9月号の宿題のようなものが残っている。「縛られる学校、自らを縛る教師たち」という特集で、そうした「縛り」からどうやって抜けだすのか。私は小学校や中学校の教師ではなく、大学の教師なので、この縛りは極めて緩い。だから、小中学校の縛りについては、いろいろな話を聞くし、実習生の授業をみたり、また、学校側の説明をきいて、感じていることはたくさんある。
 「縛り」がだんだん強くなっていることは間違いないし、また、その圧力の質と量がともに形として現れているといえる。もちろん、義務教育である以上、「縛り」はある。少なくとも、日本の義務教育の歴史のなかでは、自由な教育が保障されていた時期は、極めて短い。ないわけでもなかった。しかし、それは、国家がまだ教育の内容まで掌握できない時期に限られていた。明治の初期と戦後初期の数年間だけである。他方、ヨーロッパでは、1980年代までは、多くの国で教える内容まで含めて、学校に任されていたという事実もあるし、今でも、教育内容に関する国家基準はあっても、日本の学習指導要領よりは、ずっと大綱的である。
 さて、もっとも普通で基本的な「縛り」は、
(1)学ぶときには、指定された内容を、机に座って学ばなければならない
ということにあるといえる。 “『教育』2019.9を読む 縛り・縛られるから抜け出せるのか” の続きを読む