新型コロナウィルスの感染者、あるいは感染の可能性がある人の隔離が問題となっている。韓国では、受け入れ拒否のために、バリケードを築いている地域とか、あるいは説明会に出てきた説明員に暴力を働く事例などがあると報道されている。日本でも、受け入れた自治体に住民から抗議の電話があるそうだ。それに対して、アメリカは軍の施設に隔離しているという。軍の施設は、一般住民の住む地位からはかなり離れているのが普通だから、住民の反対運動などは、おそらく起きようがないだろう。しかし、日本には、そんな軍の施設など存在しないはずだから、結局ホテルなどを借りることになっている。深刻なのは、受け入れた施設で働く人の子どもなどが、学校でいじめを受けているという状況だ。
日本でも、かつては、いわゆる「迷惑施設」、たとえば、刑務所、ごみ焼却場、精神病院、原発などが建設されようとすると、住民の反対運動がかなり激しく行われたものだ。しかし、最近だいぶ雰囲気が変わってきたように感じる。ごみ焼却場は、熱を利用して住民に対するサービスを実施するなどして、反対の雰囲気はあまりなくなっていると、私は感じている。刑務所は、新たに設置されることはあまりないと思うが、過疎で仕事がない地域では、むしろ誘致運動が行われる場合もある。
他方、何らかの属性をもった個人への、あるいは集団への排外的感情は高まっているのではないだろうか。それが顕著に表れたのが、新型コロナウィルス騒動だ。欧米では、アジア人への攻撃や排除がいろいろなところで起きているという。有名なイタリアのサンタ=チェチーリア音楽院では、東洋人のレッスンは行わないことになったと言われている。もちろん、アジアでも同様のことが起きている。もっとも、アジアでは中国人排除だが。日本でも、中国人お断りというラーメン屋のことが報道されていた。
ワイドショーをみていると、徹底的な防御策をとるべきであるとコメンテーターが述べていて、中国人の入国を阻止することは当然視している。
しかし、ある意味、これは集団ヒステリーではないだろうか。感染力はそれほど強くなく、症状も健康なひとであるならば、感染しても発症しない場合も多いという。免疫力の弱い人や、慢性疾患のある人たちが感染すると重篤になるというのだから、そういうひとたちが感染しないように注意するという方法だってあるはずである。
欧米でアジア人を一括して排除する動きと、日本で中国人を一括して排除する動きは、基本的には同じことだ。
では、どういう風に、気持ちの転換が可能なのだろうか。感染症だから、隔離等を強制する措置は、実施すべきであろう。しかし、隔離するためには、施設が必要である。どこかが受け入れるしかない。その施設を提供したホテルや病院等の従業員、自治体の責任者などは、喜んで受け入れるわけではないだろう。責任を感じているからだ。そういうりっぱなひとたちに、抗議したり、あるいは子どもをいじめたりするのは、なんとも嫌な気分だ。バリケード築いて阻止するところまではいかないから、まだ冷静な対応なのかも知れない。
逆に考えてみよう。そういう受け入れをすることは、ただやっかいなことを引き受けるだけで、利益はないのだろうかと。今回の受け入れ先では、近くに地域医療で評価の高い病院があって、ホテルはその病院との連携があるからこそ、受け入れることができたようだ。これは、地域に住んでいるひとたちにとっては、非常に安心のできる対応なのではないだろうか。他の地域のひとたちを、こうして援助するのだから、地域のひとたちに問題が起きたときには、まさしく頼りになる存在に違いない。