「鬼平犯科帳」 鬼平の隠蔽


 現内閣は、隠蔽の名人ともいえる。いや、名人はうまくやるものだが、現内閣の隠蔽は、隠蔽していることが白日の下に晒されているから、何の工夫もしていない。追求側に、それを覆す力がないので、露骨な隠蔽をされても、隠蔽側は嵐はやがて去るという姿勢だ。日本の政治家の劣化が甚だしいという事例だろう。
 現内閣の隠蔽は最高責任者の悪事が対象だから、始末が悪いが、さすがに長谷川平蔵は、失策を何度かしているが、悪事はしていない。若いころのごろつき同様の生活をしていたころには、何度かあり、それが物語で蒸し返されることはあるのだが。ただし、長谷川平蔵も隠蔽をしている。しかし、それは自分のことではなく、部下たちの不祥事に関してである。
 もちろん、隠蔽不可能だったこともある。「あごひげ三十両」で、盗賊改方与力高田万津之助が、津30万石藤堂家の家来3人と切り合いになり、相手のひとりを死なせ、自分も怪我をして、翌日息をひきとる。高田に非がある喧嘩で、平蔵は、若年寄堀田摂津守に呼び出され、「いずれにぜよ、お役目は相つとまらぬものとおもうていよ!」と謹慎を言い渡されてしまう。
 料理屋で始まった喧嘩であり、大藩の家臣を切り殺したわけだから、隠蔽のしようがなかったわけである。
 しかし、以下紹介する4つの事例は、いずれも、当人は事情は異なるが、いずれも死んでしまうが、平蔵はそれを届けることなく、形としては、隠蔽してしまうのである。

網虫のお吉
 同心の黒沢勝之助は、かつて女盗賊だったが、今は、琴師歌村清三郎の後妻になっているお吉をゆすり、体を弄ぶとともに、金銭も要求している。一応は、かつての首領の動向を聞き出すためでもある。逢い引き場面を偶然みた同心小柳安五郎が、それを突き止め、平蔵に報告する。
 黒沢は手柄を多くたててはいるが、色欲と手柄を同時に得ようとする黒沢同心のやりくちを、平蔵は、はじめて知ることになった。黒沢の悪評を、かねてから耳にしてはいても、平蔵はかまわずにいたのである。盗賊改方の長官として、部下を信じることができなくなったから、もはや、(この役目はつとまらぬ)と平蔵は思っているからだ。
 平蔵と部下、密偵たちが黒沢を尾行していたあるとき、お吉との密会のあと、浪人二人が黒沢をつけているのを発見する。お吉がお金で雇った者で、黒沢の殺害を依頼していたのだ。小柳が黒沢逮捕を躊躇することに対して、「辛いのは、わしのほうじゃ」という。浪人に襲われ、殺害されそうになったところで平蔵が救う。しかし、黒沢も捕縛し、結局、切腹を命じられる。
 「あのとき、かの浪人者に黒沢が斬って倒されるまで、わしが、ひそかに見まもっていたなら、黒沢はお役目に殉じたことになったろうし、黒沢の罪科も表にあらわれずにすんだであろう。」と平蔵は述べている。そして、一端はそうも思ったが、黒沢のやりかたが酷すぎる、他の与力や同心への手前、隠しておくことはできない、と判断した。切腹させたのだから隠蔽ではないともいえるが、少なくとも上に報告していれば、何らかの平蔵の責任を問うはずであるから、少なくとも、すべてが報告されたわけではあるまい。黒沢は、お吉から300両ものお金を恐喝していたのだから、その犯罪は小さなものではない。

殺しの波紋
 「鬼平犯科帳」に登場する与力・同心のなかで、最も悪事に染まってしまったのが、富田達五郎である。ある暗夜に、与力の富田は、舟のなかで、橋本屋と船頭を殺害する。それは、富田がかつて喧嘩になった武士を切り殺してしまった現場を見られて、ゆすられていたからである。しかし、今回も富田の殺害現場を、富田に恨みをもつ竹松がみており、富田に100両を要求する。その要求の手紙を読んでいるときに、偶然平蔵が部屋にはいったのに、富田がまったく気づかなかったことに平蔵は不信をもち、あとで、手紙を届けてきた者について調べると、手紙を仲介したが殺害される。そこで、平蔵は富田を怪しみ、密偵を使って尾行させる。富田は100両をつくるために、辻斬りを始める。それを察知した平蔵は、待ち伏せをして、富田を逮捕しようとするが、富田が反抗して切りかかってきたので、やむなく切り捨ててしまう。
 平蔵は亡骸を運ぶように指示し、「人というものは、はじめから悪の道を知っているわけではない。何かの拍子で、小さな悪事を起こしてしまう、それを世間の目にふれさせぬため、また、次の悪事をする。そして、これを隠そうとして、さらに大きな悪の道へ踏み込んでいくものなのだ。おそらく、富田達五郎もそうだったのであろう」と密偵、かつての盗賊に語りかける。富田は、かなりの人数を切り殺しており、強盗も働いている。それが発覚すれば、平蔵は済まないはずである。

あばたの新助
 若いころの平蔵に、親を殺害された盗賊網きりの甚五郎は、執拗に平蔵の命を狙っているが、別の形の復讐も何度か試みている。そのひとつが、あばたの新助こと佐々木新助を、強引に引っ張りこんで、盗みの手伝いをさせたことである。
 佐々木新助は、筆頭与力佐嶋忠介の姪と結婚している、実直な同心である。甚五郎は、お才という女を、新助に近づけ、虜にさせてしまう。まじめな新助は、最初は躊躇しているが、手慣れたお才の罠にまんまとかかってしまう。そして、盗賊一味が、現場を抑えて、仲間に引きずり込んだわけである。盗賊の女と色恋沙汰になれば、同心として大きな罰を受けなければならない。そうして脅された新助は、同心の夜の見回り場所を教え、それを避けて、甚五郎一味、盗みに入るという押し込みを繰り返す。
 たくみに見回りを回避して盗みに入るやり方に、平蔵は疑念をいだくが、まさか新助が関与しているとは思わない。ところが、以前偶然に、新助が女と一緒のところを垣間見ていた平蔵が、あるとき、「新助、浮気はやんだかえ?」と話しかけたところ、悟られたと思った新助が、飛び出し、お才のところにかけつけて、自首を迫り、外に出たときに、盗賊一味に見つかり、切り殺されてしまう。
 平蔵は、この事件を完全に隠蔽した。
 「佐々木新助は、なにか大物をねらって探りをいれていたらしい。おれにも、そのことをもらさなかったのは、よほど、自信をもっていたのであろう。おそらく新助は、このところ市中をおびやかしている、あの盗賊のことをさぐっていたのではあるまいか。それにしても、惜しいことをしたものだ。」
 平蔵は、新助が密告者であったことを、おのれの胸ひとつに秘めてしまった。佐嶋への遺族への手当を充分にするようにいったのみである。この事例が、平蔵の隠蔽の最たるものだ。他の事例は、みな部下や密偵の一部が真相を知っているが、新助が密告者であることを知っているのは、平蔵だけだ。そして、それを部下たちにも隠してしまう。新助が、佐嶋忠助の姻族ということも理由になっていたかも知れない。

春の淡雪
 同心大島勇五郎は、賭博で100両以上の借金をかかえてしまい、盗賊と知らずに密偵として使っている雪崩の清松に、盗賊池田屋五平の娘を誘拐して、身代金をとる企みに誘い込まれる。浮かない顔をしている大島を怪しんだ平蔵は、おまさに尾行させ、尾行のうちに、別の密偵から清松、そして、別の盗賊の日野の銀太郎とがあっていることを突き止める。探索の最後に、五平一味が捕らえられ、身代金を支払うということで、清松と会わせ、その場で一味も捕まってしまう。そして、身代金引き渡しの現場にいた大島は、平蔵に悪事がばれたことで、自決する。しかし、平蔵は、この事件を隠蔽することに決める。
 「大島は、おのれ一人の思案にて、盗賊どもの中へ入り込み、いのちがけの探りをしていたことになっている。」
 「心得ております。」
 「そうしておかぬと、この平蔵へ責任がおよぶゆえ、な」
という会話が佐嶋との間で交わされる。そして、大島の罪状が明らかになったら、自分は解任される。それを望んでもいるが、今は諦めたと述べるのである。平蔵は、唯一、ここで隠蔽の理由を語っているのである。
 最初の「あごひげ三十両」でも、辞めさせてくれればどんなにいいことか、と期待するようなこともいう。火付盗賊改という役職につくと、膨大な私費負担が生じて、できるだけ短く務めて、次に実入りのいい役職に昇進することを、みなが望むという。実際に、江戸時代の火付盗賊改の平均任期は、2年未満である。平蔵のように9年も勤めたものは他にいない。だから、平蔵はいつも辞めたいと漏らしている。しかし、他の誰もが、自分ほどにこの仕事を満足に果たすことができないとも思っている。だから、平蔵の隠蔽は、決して自分の利益を守るためのものではない。一種の使命感の結果といえる。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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