私は、このブログの読者は十分承知しているように、クラシック音楽以外はまったく聴かないので、小山田圭吾という人は、まったく知らなかったし、開会式の音楽で騒ぎになっていることは、一月万冊で初めて知った。念のため、ネットで調べていると、これはあまりに酷いということ、しかも、彼がいじめをやっていたのが、和光学園であるということで、書かざるをえないと思った。和光学園というのは、リベラルな教育で知られており、そういう方面では評価が高い。大学だが、私の尊敬する先輩が務めていたこともある。その和光学園の小学校から高校まで、筆舌に尽くせないようないじめを継続していたこと、そして、更に問題なのは、それを雑誌で2回も、自慢げに語っていたということだろう。ネットでは、有名な事実だそうで、そのことについては、小山田圭吾という人は、いじめ問題での有名人だったそうだ。とくにネット時代になってからは、ずっと非難され続けているという。
教育学を考える25 競争と教育1
競争は、教育にとってどういう意味があるのだろうか。
現在の日本のみならず、先進国では、競争が学校現場に大きな影響を与えていることは誰もが認めるだろう。特に、日本の教育は、競争なしに成立するのかと思われるほどである。しかし、皆が、教育における競争に賛成しているわけではない。教育における競争は、極めて大きな論争課題である。
一方には競争があってこそ、人は勉強するのだから、競争を教育にとって不可欠であるという人たちがいる。多くの大人は、こうした考えに囚われているに違いない。事実、現在の特に「経済的に成功した」と考えている人の多くは、受験競争に勝ち抜いてきたひとたちが多いと思われるからだ。受験のために勉強したという実感と、努力したからこそ勝てたという自尊心が混じっているだろう。
他方には、競争は教育を歪め、受験のための勉強でえた学力は、受験が終わると忘れてしまう(剥落)ので、有効ではないと考えるひとたちがいる。そして、特に、教師をしている人たちの多くは、後者の考えをもっているが、前者の立場にたたないと、教師の使命を果たせないと思っていて、いわば自分の信念とまわりの要請の板挟みになっているのではないだろうか。
雑感3 バッハの中国人発言と酒類騒動
1 メディアの不甲斐なさ 何故バッハの中国人発言をとりあげないのか
日本のメディアについては、多々不満はあるが、最近のオリンピック報道についても情けないことがたくさんある。そのひとつが、バッハIOC会長発言の報道だ。
ネットでは散々話題になった「日本人の安全を」というところを「中国人の」と言ってしまった件だ。驚いたことに、大新聞は、この事実をあまり報道していないのだ。私は、毎日新聞をネット版で講読しているので、チェックしたのだが、「バッハ氏、「日本」を「中国」と言い間違い 「反発招いた」米紙報道 」という記事が7月14日付けであるだけだ。国民のオリンピック反対の声が非常に強かった時期(いまでも強いが)、自分たちの見解を示さず、海外でのオリンピック中心論を紹介していた時期があったが、それと同じ構図だ。バッハ発言そのものは報道しないで、海外で話題になっているというのを紹介するだけというのは、どういうことだろうか。
もちろん、人のミスをあげつらうことは、良くないことだ。しかし、ネットでも少なくない人が指摘していたことだが、あの発言は決して「ミス」ではない。日本にきて、しばらく隔離をしていたあと、最初の公式の仕事として、オリンピック組織委員会を訪れ、会長らと会談をする場での挨拶のなかで出てきた言葉だ。目の前の人が、最も心配していることについて述べる際に、なぜ、まったく異なる内容が出てきたのか。それは、そのことがバッハ自身の頭のなかに、明確にあったからだ。
『教育』2021年8月号 山本論文を読む2
山本論文に限らず、学校が教育的機能の絶対的中心にいるという信念がある。もちろん、そうした気概は教師にとって重要かも知れないが、学校は、人間を教育する場のひとつに過ぎない。学校の中心的存在である信念をもつと、現在のように、塾やネットに脅かされると、不安になる。
次の「学校外公教育の隆盛」という部分では、学校の地位が低下することへの危機意識を感じる。だが、私からみると、逆に、戦後の数十年間が、教育システムにおける学校の位置が異常に大きすぎた時代なのだ。前近代社会では、学校に行く人間など、ごく少数しかいなかった。もちろん、人間が社会のなかで一人前の大人として生活していくためには、たくさんのことを学習しなければならないから、学校以外の教育が存在したわけだ。多くは、労働に参加することによって、そのなかで必要なことを学んでいたのであり、先輩の働き手が教師だったのである。近代社会になって、国民教育制度が成立してからも、農民などは、学校の価値をあまり認めていなかった。学校社会で勝ち残る人は、だいたいが中産階級以上のひとたちだった。そして、学校社会での競争に参加する人も、限られていた。
『教育』2021年9月号 山本宏樹「超情報化社会における公教育の基本問題--教育・脳育・人工知能」を読む 1
私は、大学勤務中は、教科研などの民間研究団体とまったく関係をもたないまま、学内での教育に専念していたが、定年を一年後に控えた時期に、『教育』を年間講読するようになり、熱心に読むようになって、教科研という団体が、あまりにICTに後ろ向きであることに驚いた。私は、コンピューターにあまり詳しいほうではないが、1991年に、ニフティのパソコン通信に参加して以来、コンピューターのネットワークが将来の社会を動かす基盤になることを確信したし、大学の授業にも可能な限り活用した。
しかし、講読だけではなく、教科研の会員になってみると、不可解なことが少なくなかった。最も驚いたのは、会報が郵便で送られてくることだった。こんな会報は、メールで送信すれば、どんなに手間と費用が軽減できるだろう。年4000円の会費を払っている会員がどれだけいるのかわからないが、それほど多くないはずだ。この会報の印刷と郵送費用は、かなりの部分を占めているのではないかと思うと、これをメール配信するか、あるいはホームページでの情報発信に切り換えれば、ずいぶん会計的にも労働力的にも改善されるのではないと思う。しかし、更に、会員として過ごしていると、私のような新参の一般会員には、この教科研ニュースという会報以外、特別な利点がないのだ。事実、教科研のホームページには、会員になることの利点として、会報の送付があげられていて、それ以外はあまり利点がないのだ。
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雑感3 酒問題2
コロナ対策で、とにかく政府による飲食店への攻撃がやまない。そして、中心は、酒の提供だ。常識的にみて、大勢で酒を飲めば、気が大きくなり、大声で話すようになるから、感染拡大の要因になるというのは、わかりやすい。しかし、他方、飲食店が感染の場になっている事例は、極めて少ないという統計もある。
酒に関しては、ついに、金融機関に、違反している店にはそれなりの対応をせよという申し入れをするまでになっていたが、大きな批判で取りやめにはなったようだが、卸売業者に対して、酒を卸すなという要請は、現時点でまだ撤回していないようだ。両方とも、とんでもない暴挙である。(今日のテレビで橋下徹が、国民が馬鹿だから、こういう無理難題になんら抵抗しないでいる、それを改めねばだめだ、というような発言をしていたが、このふたつの要請については、両方とも、金融機関や卸売業者が問題外として、相手にしていない。国民の批判もかなり強かった。つまり、橋下のいうことは、現実にはまったくあっていない。)
こういう議論のなかで、一月万札だった思うが、禁煙論議が盛んだったころに、ある人(番組では名前が出ていたと思うが、忘れてしまった)が、「次は酒がやられる」と語っていたが、その通りになりつつあるという話をしていた。
雑感2 テレビ局のリモート・酒類制限は?
1 緊急事態宣言とテレビのリモート
コロナ禍で、リモートの作業が重要視されるようになった。当然テレビでも、そうした話題が出てくる。だが、コロナ禍で、仕方ないからリモートをせざるをえないということに留まっていたら、リモートの最大限活用とはいかない。
そういう意味で、最大メディアであるテレビこそ、リモートワークを最大限活用すべきであると、前から思っていた。というのは、アメリカのCNNは、ずっと前から、対談の多くがリモートで行われていた。ずっと前からというのは、私が知る限りということだが、おそらく、CNNというニュース専門局の誕生からそうだったと思われる。というのは、本社がアトランタにあり、政治番組が多いわけだが、コメンテーターや政治家のほとんどは、アトランタに住んではいない。したがって、遠くから参加してもらう必要があり、当然のこととして、リモートの出演になっていた。若干音声などの質は、正規のスタジオよりは悪いが、必要と思われる人は、時間をあわせさえすれば、どこにいても出演してもらえるわけで、内容の充実を図る上では、多いにリモートが役立っている。
教員免許更新制廃止はいいことだが
文科省が、教員免許更新制度の廃止を決めたようだ。大変けっこうなことだが、それでよかったよかったというわけにはいかない。根本的な姿勢が改められなければ、別の制度が導入されるに過ぎないからだ。
まず、報道によって、何がまずかったのかと文科省が認識しているかを確認しておこう。
・夏休み期間を使うことが、時間的、費用的に大きな負担になっている。
・役にたったと考えている教員が3分の1しかいない。
・教壇にたっていない免許保有者が失効することが多いため、産休や育休の代替教員の確保が難しくなっている。
・うっかり失効も多い。(「教員免許更新制廃止へ 文科省、来年の法改正目指す 安倍政権導入」毎日新聞2021.7.10) “教員免許更新制廃止はいいことだが” の続きを読む
天皇のオリンピック開会宣言
オリンピックは強行開催されるようだが、オリンピック憲章には、元首が開会を宣言するという項目がある。日本の場合、元首は絶対的に明確であるわけではないが、このようなときには天皇ということになっている。そして、天皇はオリンピック・パラリンピックの名誉総裁になっている。
普通であれば、天皇が開会式に出席して、開会宣言をするのだろうが、今回は「普通」ではない。いまだに、中止論が多数ある。そして、注目すべきことに、天皇の意志を拝察するという形で、西村宮内庁長官が、天皇がオリンピック開催によって、コロナ感染の拡大をもたらすのではないかと心配しているという発言をした。そして、その時点で、天皇がワクチンを接種していないことが、明らかになっていた。
こうした状況を考えれば、政府、あるいは組織委員会、IOCが天皇に対して、開会宣言を行うことを要請すべきではないという結論にならざるをえない。
西村宮内庁長官の発言をめぐって、大きな社会的論議を呼んだが、いかに多くの人が、天皇制についての誤解をしているかが、明らかになった。しかも、驚くべきことに、その誤解が、正解としていまだに浸透しているように思われることだ。
読書ノート『「いろんな人がいる」が当たり前の教室に』原田真知子(高文研)
歳をとると、本を読んでもあまり感動しなくなってきたのだが、この本は、とても感動した。教育実践録としては、津田八州男氏の『五組の旗』以来だ。原田氏は、神奈川県で小学校教師を30数年勤めたあと、定年退職しているが、この本は、これまで雑誌などで発表してきた素材をもとに、実践の集大成としてまとめたような感じだ。こんな小学校の教師がいるのかと、正直驚いた。
これほど優れた教育実践書は、滅多にないので、教師のあり方を考えたい人には、ぜひ読んでほしい。
神奈川県のどういう地域で教師をしていたのかはわからないが、出てくる話は、とにかく、手をつけられないと多くの教師や親が考える子どもを、たくさん抱えて、彼等とコミュニケーションをとりつつ、子どもたち同士の繋がりを、通常のクラスよりもずっと強固なものに形成していく話である。しかし、そういう実践が、すんなりいくはずもなく、どの話も、苦労の連続で、暗中模索のなかで、子どもたちと一緒に考えて、なんとか改善しようという姿勢で貫かれている。
どんな優れた実践であっても、表面的にそれをまねることなどはできない。そして、原田先生も、最初からうまくいったわけではなく、また、ベテランになっても、それまでいじめられたり、教師に不信感をもっている子どもたちを、直ぐにまとめられたわけではない。悪戦苦闘を繰りかえして、次第に子どもたちを集団としてまとめていったわけである。その基礎には、全生研の民主主義的学級と班作りの理論があることが、随所でわかる。