日航ジャンボ機事故の不可思議

 森永卓郎氏が、毎日新聞に「日航123便はなぜ墜落したのか」(8月12日)という文章を書いている。この事故は、世界史上最大の民間飛行機事故であり、かつ、原因が不明であるにもかかわらず、きっちりとした分析記事が、大メディアに掲載されることは珍しい。そういう意味で、この森永氏の文章は大きな意味がある。その意味は、ここで、自衛隊のミサイル誤爆が原因として仄めかされていることである。
 この事故には、いくつもの原因の推定がある。
・ボーイング社による修理ミスで、尾翼の一部が吹き飛び、油圧系統が破壊されて、操縦不能になった。
・アメリカによる誤爆
・自衛隊による誤爆

 最初の推定が、とりあえず公式の説明になっている。そして、一時アメリカの誤爆説もあったが、今は完全に消えていると思われ、被害者に近いひとたちの間で、最後の自衛隊誤爆説が強く残っている。
 さて、公式説明は、普通に論理的に考える人には、とうてい受け入れられないことが多々ある。
・尾翼が吹き飛び、油圧系統が破壊されると当然おきる現象が、機内で起きていなかったことがわかっている。この事故では、生存者が4名いたし、そのなかにはCAもいた。だから、機内での様子は比較的正確にわかっている。
・ボイスレコーダー等の事故原因がわかる可能性がある物的証拠が、一切開示されておらず、隠蔽されたままである。
・ジャンボ機に並走して飛んでいた飛行機があったという目撃情報が複数ある。
・ボーイング社は修理ミスを認めたが、単なる謝罪で終わり、賠償責任など一切果たしていない。そして、その後日航とボーイング社との取引が縮小したこともない。
・墜落現場は当日すぐにわかり、(墜落していく様子を見ていた人も少なくない)現場に近いひとたちが救援に赴こうとしていたのに、政府によって阻まれたし、アメリカのヘリコプターが救援のためにやってきたが、何故か何もせず引き返している。
・翌日になっても、実際には、当日にわかっていたにもかかわらず、墜落現場の特定が困難であるというような報道がさかんに流された。
・やっと現場が確定され(たといわれ)救援隊が到着すると、既に自衛隊がいて、作業をしていた。
 以上のことは、周知のことである。このわかっていることだけでも、かなりの疑問を生じさせる。しかも、救援隊が到着したときには、4人だけではなく、もっと多数が生きていた可能性かあるとも言われているのである。しかし、生存者の確認と救援が重視されたようには思われていない。
 
 この事故は、私が大学に就職した年に起きたので、授業準備等に追われ、その後の展開は詳しくニュースを追いかけることはしなかったのだが、当日から数日間のことはよく覚えている。夏休みだったので、テレビでずっと放映されていたからである。まず、当日、ジャンボ機が、通常運航できなくなっていることは、すぐにニュースに流れたと記憶している。そして、ダッチロールを繰りかえしているといわれていた。ダッチロールとは、操作不能になって、あちこちさまようようなことだが、その後の運航をみると、決して操作不能になったわけではなく、機長たちは、住民に被害を及ぼさず、軟着陸できる場所を探していたと思われるのである。もし、山の下降斜面に軟着陸できれば、かなりのひとが助かったと思われるし、それを目ざしてなんとか飛行機を操縦しようと奮闘していたと、私には思われる。しかし、下降斜面にまで機体を上昇させることができず、上昇斜面に追突してしまったのではなかろうか。
 そして、翌日になると、生存者が発見されたということで、そのなかに、地方の共産党市議の娘(12歳)と、スチュワーデスがいた。この二人が回復した時点で、いろいろなことがわかるかと期待されたが、とくに、スチュワーデスの人は、日本航空に囲い込まれて、自由な発言ができないままに過ぎていった。共産党は、事故をあいまいにしないという姿勢を一時見せていたと記憶するが、少なくとも、事故調査に大きな影響を与えることはできずに、調査委員会は、ボーイング社の修理ミスということに、収斂していったのである。
 もし、本当に、ボーイング社の修理ミスが原因であれば、ボイスレコーダーやその他の客観的証拠をすべて開示すれば、より事故原因が鮮明になって、今後に役立てることかできたはずである。そして、ボーイング社は莫大な補償金を、遺族に支払う必要があったはずだ。しかし、実際に、日本政府や日本航空がやったことは、ボーイング社の責任を追求することよりも、事故後の状況証拠の隠蔽だった。そこで、それ以外の原因に対する憶測と、独自の個人による調査、推定が出てくることになったのである。
 これに関しては、その後いくつかの本を読み、私なりに原因を考えた。ネット上での議論も活発であるが、私自身は、いろいろな状況と、主張を比較検討して、自衛隊によるミサイル誤爆説がもっとも、矛盾なく事態を説明できると思っている。これは森永氏と同じである。
 被害者家族がいくつかの本を書いているが、そのなかで、ジャンボ機に対して、アメリカ軍が救援の意志を示し、横田基地への着陸を許可する寸前だったが、何らかの理由で、それが実行されなかったという話がでている。それは、確かにジャンボ機のダッチロールの軌跡をみると、頷けるのである。相模湾沖で何らかの事故が発生し、その後ジャンボ機は引き返すような行路をとり、そして、その後北上して群馬の山中に墜落している。一端横田基地に着陸しようとしたということを納得させるような行路なのである。アメリカ軍基地が着陸を許可したのに、それを阻止することができるのは、日本政府以外にはないだろう。これは、翌日、墜落現場に飛んで行ったアメリカのヘリコプターが引き返したことも、同様の事情だったと考えるのが合理的だ。そして、現場を抑え、証拠となるものを管理したのが自衛隊であることも、この推定を裏付ける。つまり、自衛隊機が、ミサイルの発射訓練をしているときに、日航機に命中させてしまうという、とんでもないミスが発生し、それが明らかになると、とんでもない国家的スキャンダルになるので、政府と自衛隊はそれを徹底的に隠蔽する策に出たという「推定」である。
 
 自衛隊が民間機にミサイルを誤爆するなどということがあるだろうかと、多くの人は疑問に思うに違いない。しかし、はっきりと自衛隊が認めている事例として、雫石の全日空の墜落事故がある。これは、自衛隊機が全日空の飛行機に接触し、全日空の飛行機が墜落して、全員死亡した事故であるが、これは、自衛隊機が、民間機を的にして、接近戦などの訓練をしていて、誤って接触してしまったのである。この事故機には、私の大学院時代の指導教官が乗るはずだったのだが、用事で、友人に代わりの講演を頼み、その友人が帰りに事故にあったということで、何度も指導教官から聞かされた。教授は、大きなショックをうけ、遺族にはずっと厚い配慮を続けていた。
 つまり、民間機を敵機と想定して訓練することは、実際にあったのであり、おそらく、それは日本だけのことではない。
 韓国の大韓航空機事故は、民間の飛行機に、元軍人のパイロットを乗せ、ソ連領内に侵入させて、ソ連の反応をみるという作戦を展開していたのだが、何度も繰りかえされるので、ソ連が反撃して、打ち落とされてしまった事故である。
 
 このようなことを考えれば、もちろん、自衛隊機が日航機を狙ったわけではないが、それが誤って命中してしまったということは、十分にありうるのである。
 500名以上の人命が失われた事だけではなく、私がこのことで日本という国家が陥った苦境も、無視することはできないと思うのである。それは、何か。
 アメリカに対して、政府のレベルで、決定的な弱みを握られたということである。
 1985年というのは、日本経済が頂点に達していたときで、アメリカは深刻な経済危機に陥っていた。なんとか、形勢を逆転させようと、アメリカが躍起になっていた時代なのである。そういうときに、自衛隊の誤爆によって、世界史上最大の犠牲者をだす飛行機事故が起きてしまった。その真相が日本国民に知られることを恐れた日本政府は、一切の救助活動に煙幕をはり、アメリカのボーイング社に、修理ミスを「形だけでも」認めてもらい、アメリカ軍の救援活動をとめ、秘密を守ってもらった。
 当時の中曽根首相は、この事故の真相は、私が墓場までもっていく、といっていたそうだ。偶然という見方もあるかも知れない。この事故が8月12日であり、日本の経済に決定的な影響を与えたプラザ合意が9月末である。日本の輸出構造を支えていた円安を、一期に、円高に誘導することを認めた合意だ。もちろん、これは、長期的にみれは、日本にとって絶対的な不利な合意とはいえないが、少なくとも、日本政府はそうした円高政策を国際的に実施することに抵抗していたはずである。
 その後、いちいち触れないが、かつてのように、対等にアメリカと渡り合う努力をするのではなく、いろいろな領域での譲歩を迫られ、さしたる抵抗もなく受け入れていくようにみえる。貿易不均衡の是正などというが、そういう説明が不可解に思われるようなことも多々あった。
 もし、日航機の事故が、上記のようなことだったから、この日米関係の展開の背景がここにある(ひとつの可能性ではあるが)と考えると、納得できるのである。
 そして、この時期から、日本の首相は、その地位を競争によって獲得した人物ではなく、世襲的地位によって、首相に押し上げられた人物が中心になっていく。そして、日本の指導層の能力が著しく低下してくのである。これも、アメリカにとっては、実に都合のいいことだった。
 あくまでも推測であるが、日本の国力低下を考えるさいに、この日航機事故は、見逃せないことだと思っている。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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