経済審議会答申の中核は、ハイタレント養成であるように受け取られている。そこで、答申のハイタレントとは、どういう存在なのか、その養成のために何が必要だと提言しているのかを確認しておこう。前回は答申本文を扱ったが、本文のあとに、各分科会報告があり、教育に関係するのは、「養成訓練分科会報告」であり、ここで、ハイタレントを扱っている。
まず、何故ハイタレント養成が必要か。社会的要請と、それに応えられない現状の問題というふたつから主張されている。
必要性は、日本経済の構造変化であり、新しい経済・技術状況への対応が必要だという点にもとめている。そして、その対応には、自主技術を確立する必要がある。つまり、その後もさんざんいわれ続けたことであるが、追いつき追い越せ型の経済では、欧米の先進技術を学び、それを改良することで、国際競争に参加することができた。しかし、今後は、自主的な技術を開発していかなければ、日本経済が成り立っていかないという危機意識である。この答申では、あまり触れられていないが、結局、その後強力になってくるNIESなどに、既存技術の面では、逆に追い越されてしまい、既存の領域では、むしろ敗北してしまうことになる。実際に、この危機意識は、その後の日本経済の停滞によって、証明されたといえるのである。しかし、当時はまだ高度成長の真っ只中であり、日本の国力がどんどん伸びていた時代だから、こうした、あまりに長期的視野にたった提言は、なかなか理解されなかったともいえる。
では、自主技術確立のためには、何が必要なのか。基礎的能力の涵養、創造力、総合力と協同の精神が、求められ、それを実現するのが、ハイタレントというわけである。そして、そういう人材を生み出すためには、能力主義へ移行し、産学協同を推進する必要がある。
しかし、そうした体制への移行の障害となるような社会システムがある。それが、学歴偏重・年功序列・終身雇用慣行である。年功制の欠点は、評価が能力につながっておらず、労働移動を阻害し、能力の判定が企業内で行われ、社会的、客観的な判定がないという点にある。
そのために、人的能力の開発と活用ができないのである。
これが、答申の基本認識である。
ではハイタレントとは何か。「真の独創力をもって科学技術を進歩させる人、あるいは産業社会の組織の主導層」であるが、ここには、3つの説があると紹介している。(p166)
・トップクラスの組織を動かす人
・大学卒、あるいは入学する能力のある人
・知能検査で上位3%ないし5%(2-3%という説も)
答申は、最初の考えを基本に、予備軍を加えて、人口の5~6%程度がハイタレントであるとする。そして、ハイタレントに必要な要素・資質は、
・創造力
・闘志、逆境に強いこと
・指導力と協調性
・社会的責任感
である。そして、後天的な要素が多いとしながらも、学問的領域では、早期の教育が必要で、組織の領域では、社会にでてからの努力や経験が重要だとしている。従って、学問領域で研究に携わる者は早期に発見するために、そうした教育が必要であり、組織におけるハイタレントは、社会に出てからの努力や訓練が大事ということになっている
では、早期に発見する教育の手だては何か。それは、入試以外にないという。しかし、実際の入試には、大きな欠点がある。都市と農村などでは、大学の配置に大きな格差があり、大学進学の経済的負担も大きい。進学には、個人の能力より、家庭の経済力の影響が大きいという指摘もある。(p168)そして、受験機会が一年に一回しかないが、浪人が自由にできる。ここで経済力の差が反映されるというわけだ。この報告は、浪人できる年限を制限すべきだという、珍しい指摘をしている。(p169)
結局、学力は能力の一部に過ぎず、能力を適切に測っているものではないし、各大学が出題するので、問題に偏りがあり、定員があるから激しい競争にもなる。こうしたことを解決するために、資格試験をすべきであると提言している。これは数年後に、部分的に、共通一次試験として実現することになるが、ただ、それは資格試験ではなかった。共通一次試験の導入は、大学紛争時に、過激派に走った学生の出身が、国立の二期校が多かったので、一期と二期の区別を廃止する目的もあったとされているから、答申の提案が実現した部分は、比較的小さいといえる。
研究分野のハイタレントは、先天的資質が大きいために、早期の発見と教育が必要であるという認識を提示しているのに、その具体的施策は、極めて貧弱であるといわざるをえない。特別な才能を示した者の特別な学校は、アメリカやソ連(当時)にもあるから、そうした検討をしてもよさそうであるが、特別な大学創設は考えないと、大学レベルでのみ、一言で退けている。「ハイタレントのための特別な大学を設置することは時期尚早」(p165)というわけである。
また、大学教育そのものについても、あまり厳格な教育がなされていないことを指摘し、少人数のセミナーの設置を提言しているが、それ以上の積極的な提言はみられない。
むしろ、能力主義の徹底を図ることに意味を見いだしている。
では、能力主義の徹底とは何をすることなのか。(以下p170)
まず、「能力とは何かを科学的に研究する必要がある。」という。ただし、この分科会でそうした作業は行った形跡はなく、今後必要となるということだろう。そもそも、能力を科学的に研究するとは、どういうことかもかなり議論の分かれるところに違いない。能力概念そのもののなかに、価値観が含まれるから、科学的研究になじまない部分もでてくるだろう。だから、そこはあまり深入りせずに、「能力は多様だから、教育システムも多様でなければならない。相互間の有機的関連づけと系統化が必要」ということになる。しかし、多様な能力がどのようなもので、それが学校教育とどのように結びつくかという検討はなされていない。
多少話題がずれるが、第一次大戦前後に、哲学や心理学、教育学の分野で、人間の類型論が流行した。それは、それまで階級や階層に分かれた教育機関だったものが、義務教育制度が成立したことによって、かなりの部分が統合され、初等段階では、階級や階層を超えて、同一の学校に通うようになり、そこから、分岐していくシステムになっていった。すると、生まれによって学校が選択されるのではなく、より適性などが考慮されるようになるから、そもそも、人間の能力はどのようなものなのか、類型化する試みがさまざまになされたのである。そして、初等学校移行の学校が、そうした類型化された能力に応じて、分岐していくことがめざされた。
こうした方向性は、日本ではほとんど見られなかった。日本では、多様な学校の種類がつくられた高校では、工業や商業、農業という社会に存在する有力な産業に対応していた。そして、それが適性を考慮して選ばれるよりは、普通高校にいく学力の高低によって、選別される傾向が強かった。だから、多様化した学校が、生徒の適性や資質と関係なく選択されたことになり、この答申の原則は、ほぼ実現しなかったのである。
さて、報告は、能力主義を徹底することが、教育の民主的原則に反するのではないかという疑問に答えようとしている。
「機会均等原則は、同じ能力のある者の教育機会が平等であるということである。こういう意味で、能力主義を徹底する必要がある。能力による区別は差別ではない。また差別にならないような条件を与える必要がある。」
しかし、この文章は矛盾を含んでいる。「能力による区別は差別ではない」としつつ、「差別にならないような条件を与える必要がある」ということは、その条件が欠ければ、差別になるということだから、最初の命題は成立しないのである。そして、能力の発達には、早熟型と晩熟型があるので柔軟性も必要とか、中途退学者を、全段階の卒業と同じに扱わないなどという「条件」を提示している。(大学中退者を高卒と扱っているが、あくまでも高卒と大学中退は区別すべきということ)
具体的に、能力主義の徹底のための方策は、本答申のなかに書いてあるので、前回紹介しているが、箇条書き的に整理しておこう。
・進級・進学条件の強力化 飛び級、スキップアップ 留年
・学歴証明ではなく、検定証明
・能力発見方法の改善 入試だけではなく、高校在学中に何度かの適性試験、勤労者にも開放、第三者の試験も
・教育内容重複の排除
・進路指導の徹底
ハイタレント論は、日教組や多くの教育学者に、強い批判をあびたのであるが、こうして読み返すと、それほどラディカルな改革を示していたとはいえない。むしろ、経済認識と、人材を育てる必要性の認識において、切実なものがあった。
またハイタレントともう一つの眼目である中等教育の完成に続く。