日本文化のなかで、演劇的芸術が弱体であれば、学校教育で演劇教育が重視されないのは必然的であろう。狂言や歌舞伎を学校教育のなかに、実際に演劇として行なうものとして取り入れることは、あまり賛同を得られそうにない。高校の演劇部ならありうるだろうが。そういう歴史があるにもかかわらず、何故演劇教育的要素を、義務教育段階で取り入れるべきなのだろうか。
直接には関係ないことから始めよう。
私が中学で英語をならい始めたころ、学習方法は文法的な内容と英語を読む(意味を理解する)ことが柱だった。もちろん音読はしたが、あまり重視されていなかった。単語試験などは頻繁にあったが、いずれも英単語が印刷されていて、その意味を書く。あるいは、日本語が書かれていて英単語を書くという方式だった。それが当たり前だったから、一生懸命スペルを、紙に書いて覚えたものだ。今から考えると、実に非能率的、というよりもむしろ害のある学習法をとらされていたと感じる。音声の学習は、非常に限られていたのだ。もっとも、それも仕方なかったともいえる。当時は、ネイティブの音声を聴くことができる器具がないに等しかったからだ。レコードはあったが、外国語の学習には、とても便利とはいいがたいものだ。後にカセットが出回るようになったが、けっこう高価だったし、既にならい始めの時期を過ぎていた。