河野太郎氏の二重国籍案

 河野太郎氏が、日本も二重国籍を認めるべきだと発言して、保守層からの非難が高まっているそうだ。解説記事は、「「二重国籍」騒動、河野太郎氏がブログで真意「議論する余地がある」」であり、
河野氏自身のブログでの釈明のような文章は以下である。
 河野氏の趣旨は、要するに二重国籍を認めている国があるのに、日本が認めないと不利になる人が出てくる、だから認めるべきであるが、国会議員など、国の要職に就く者には認めるべきではない、というものである。
 国籍問題は、国際関係が複雑に絡み合っていて、極めてやっかいな問題であるし、河野氏に対して「国賊」などという言葉が浴びせられることをみても、感情的な反発が起きやすい問題でもある。河野提案が実現すれば、国籍問題が解決するわけでは決してない。

 
 私が理解している限りで、これまでの経緯をまとめてみる。
 国際法の基本は、一国籍主義であって、二重国籍は認めないものだった。先進国では、外国籍の者に対する差別をなくすという方向性で、国籍によって生じる問題を緩和してきた。基本的人権を外国籍にも認めれば、二重国籍にする必要はないわけである。
 しかし、戦後旧植民地からヨーロッパに移民する者が増加し、かつ、定住するようになり、更に帰化すると、元の国籍を離脱しなければならないが、その際に大きな問題が生じた。途上国や独裁国家では、外国籍の財産所有や職業、居住等に大きな制限をかけている国が多い。つまり、国内に土地と家をもっているが、ヨーロッパに移民労働者としてわたり、帰化すると、その土地や家を取り上げられてしまうという事例が多発した。先進国のほとんどは、外国人でも不動産を取得できるから、そうした問題は生じないのだが、世界には外国人の権利を認めない国は少なくないことが露になったわけである。そこで、二重国籍を認める国が増えてきた。しかし、今でもアメリカや日本は二重国籍を認めていない。どちらにしても、問題をもっているからである。
 
 思いつくままに、国籍が問題となることをあげてみよう。
 まずは、国際結婚や帰化によって、外国籍になったときに、それまで保障されていた権利が喪失してしまうことがある。しかし、まったく同等の権利が維持されるということも問題となるかも知れない。
 不動産の所有、職業や居住等の自由権に属する内容は、外国籍でも保障することで、国籍による差別を回避することができる。だから、原則的には、そうしていない国家をなくしていけばよい。だが、自由権ではなく、社会権については、単純ではない。医療保険や年金などは、国によってかなりの相違があるので、先進国同士の国際結婚であっても、調整はなかなか難しいはずである。帰化した人と元々生活していた人とでは、社会保険料の支払い額が大きくことなるだろうが、そうした差をつけてよいのか、それは不当なのか。外国籍の人にも、医療保険や年金を権利として認めるのか。
 若いころから二重国籍だったひとは、社会保険料を双方の国に支払い、双方から年金支給を受けられるのか、住んでいる国で支払い、そこから受けるのか、途中で移住した場合どうなるのか。こうした相違を、強制力のある国際条約でルール化しない限り、国よって、また相手国によって異なる制度になる。
 
 第二に、属地主義と属人主義の問題がある。属人主義を採用しない国はおそらくないので、属地主義をとるべきか、という問題になる。私は、属地主義をとることに、特別のマイナス点は考えられない。ただ、成人になったときに、ひとつを選択させるか、ずっと二重国籍を認めるかは、二重国籍をどうするかによって決まるだろう。アメリカ国籍をとるために、出産時にアメリカに滞在するという人もいるが、ほとんどの人は、そこに住んでいたから、二重国籍になったのだろうし、学校教育や医療について、住民として権利を認める必要がある。
 日本では、属地主義を排除してきたために、戦前日本の植民地だった人たちを、戦前は日本人扱いしていたにもかかわらず、強制的に日本国籍から排除してしまった悪影響が、現在でも続いていることを考慮すべきである。従って、日本は、属地主義をとりいれ、アメリカのように、成人したら国籍の選択をさせることは、最低限実行すべきであろう。そうすれば、在日問題は、すべてではないが、かなりの程度解決されるはずである。
 
 第三に、国籍と政治との関係がある。
 河野案によれば、日本人が日本の上級の公務員や政治家になるためには、二重国籍であった場合、日本以外の国籍をすてなければならないとなっている。その理屈は理解できるが、では、政治家を止めたら捨てた国籍を再取得できるのだろうか。しかし、それは相手国に決定権があるはずだから、トラブルになる可能性はある。
 逆の例として、国連の機関で働く上級の職員は、特定の国籍をもっていてよいのか、という問題につながっていく。アメリカや中国など、派遣国家は、自分たちに都合のよい国籍の人をポストにつけようとする。コロナ禍でWHOの事務局長が中国寄りだと大分批判されたが、国際的に中立・公正でなければならないとしたら、国籍離脱も考えねばならないかも知れない。しかし、国籍を立場上離脱して、国籍をもたないことを受け入れるだろうか。また、国連籍を創設したとして、国籍をもっていることと同等の保障を、国連が実現できるだろうか。
 ウクライナ戦争で、ロシアは、ウクライナに住むロシア系住民に、どんどんロシア国籍を付与している。もし平時に、ウクライナ国籍の活用を阻害せず、ロシア国籍の権利を享受できるようにするのであれば、問題ないだろうが、ウクライナ人をロシア人に強制的にしてしまう措置であるといわざるをえない。形を変えた植民地化というべきだろう。
 国籍を政治的次元で「利用」しようということは、いろいろな面で考えられる。河野案もそういう色合いを感じる。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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