昨年、統一教会問題から、宗教二世という側面がクローズアップされた。日本では、宗教自体のなかから、宗教二世への、適切な対応のための改革が現れたことは、ないように思われるが、キリスト教の世界では、いくつかの例がある。再洗礼派は、その代表的な運動であり、弾圧されたが、現在でも、いくつかの教派に受け継がれているという。成人になってからの信仰の自覚と表明を、信者であることの必須条件とすることは、子どもに大人の信仰を押しつけないことを意味する。アメリカ移民当時の生活スタイルを保持しているアーミッシュも、18歳になったときに、共同体に残るか、外に出るかを、自由に選択させるそうだ。
実態はどうかという問題はあるが、少なくともそうした考えが実行されていれば、宗教二世問題は生じない。
日本は、統計的には仏教国になっているが、これは、江戸時代に作られた檀家制度は、一種の住民登録制度の機能を果たしており、出生届けによって自動的に檀家になるシステムだったから、信仰をもつかどうかの意思表示など、存在しなかったともいえる。寺の多くは現在でも世襲制であって、家業を継ぐ意識で僧侶になるひとも少なくない。檀家の側といえば、日常的に寺から税のようなものを徴収されるわけではなく、法事や葬式など必要なときに費用を払うものだったから、特別疑問も生じなかったのだろう。
それに対して、キリスト教では市民革命で近代化されるまで十分の一税が存在していたし、現在でも国によっては、納税のときに教会への寄付を一緒におさめる制度が存在している。そして、神父や牧師になるためには、一定の修学・修業が必要で、資格を伴っている。原則的には世襲制ではない。信者の納付する十分の一税がかなりの割合を占めるが故に、信者の確保が切実なことになっていたのが、以前のキリスト教であり、とくにカトリックは巨大な教会を建設するための費用などの捻出が求められた。逆に、そうしたことへの批判から、再洗礼の主張も生まれたのだと考えられる。宗教二世問題が、献金による収入を組織的な目的としている統一教会で表面化したのは、偶然ではない。
家庭崩壊などの問題は、別の対策が必要であるが、信仰を子どもに強制する二世問題の解決のためには、「信教の自由」は子どもにも認められるという原則の徹底が必要だし、信者であることの認定は、成人になって初めて認められることが、社会的な常識になることが必要だろう。
今回のテーマは、中学受験と宗教二世であり、その共通項は、親の意思で子どもの重要な人生選択がなされる、あるいは強制されるという点である。だが、中学受験は、子どものストレスを生む大きな要因となっていることは、頻繁に指摘されてきたが、親が子どもの生き方を決めていいのかという問題として認識されてはいなかったように思われる。宗教でも、当然自発的に信仰を受け入れる子どももいるだろうが、悩む子どもも少なくないことが、昨年来問題となった。だが、行動を規制される程度は、受験のほうがはるかに大きい。小学校4年生くらいから、毎日塾通いをして、たくさんの宿題をこなさなければならない。宗教二世といっても、週1日か2日のことだろう。しかも、勝ち負けのような試練を課されるわけでもない。
そういう意味では、中学受験での弊害のほうが、よほど大きいと見ることもできるのである。
小学校教師をしている卒業生から聞く限り、高学年で荒れた子どもの多くが、中学受験を予定しているのに、成績が思ったように伸びていない場合である。東京には、同級生の半数以上が中学を受験するようなところが少なくない。もちろん、本人がそれを望み、喜んで受験勉強に励んでいる場合もあるだろうし、そうした場合には、荒れることもほとんどないだろうが、本人は望んでいないのに、親がそれを強制している場合も多いはずである。いやいや受験勉強をしているわけだから、ストレスは大変なものである。特に、兄や姉がレベルの高い中学に合格している場合などは、さらに合格しなければならないというプレッシャーが強くなる。そして、クラスで暴れたりする。実際に、そうした子どもは少なくないのだ。
統一教会のように、恋愛禁止などの非常識な行動規制が課せられたり、家庭破壊が進んでしまうような場合を除いて、単に宗教的な行事に駆り出されるだけであれば、本人が不本意にさせられているというストレスだけだが、中学受験でストレスがたまっていると、同級生たちに弊害が及ぶし、また、受験に失敗すれば、単なるストレス以上の苦痛を味わうことになる。こう考えると、宗教二世問題として語られている弊害は、不本意な中学受験のほうが、ずっと害が大きいというべきだろう。
習い事なども、子どもが望んでいないことをさせられている場合があるに違いない。大学の授業で、早期教育をテーマにすると、かなりの学生は否定的な見解を述べる。それは、親のエゴでさせられるので、挫折感を味わう者が多いという印象をもっているからだ。そういう意見を述べる学生が多いことは、当然そうした経験をもっている者が多いということだろう。
こうして考えれば、問題の本質は明らかである。子どもといえども、なにか学校教育で義務つけられている以外をことを始めるときには、それが親の希望であったとしても、子どもの意思を尊重しなければならないということだ。宗教的行事でも、中学受験でも、習い事でも、それは変わらない。嫌がる子どもの尻をたたいて、ある時期無理やり実行させても、あまりよい成果は望めないし、本人に深く傷が残るだけではなく、親への反発が生まれる可能性もある。子どもの権利条約の「子どもの意見表明権」を、もっと広く、深く理解し、保障していくことが必要なのである。