オリビア・ハッセーが映画会社を提訴

 オリビア・ハッセーが、レナード・ホワイティングとともに、パラマウント・ピクチャーズを訴えた。多くの記事がだされているが、以下が比較的詳しく、また1000以上のコメントがついている。
「ヌードシーンが児童虐待、1968年『ロミオとジュリエット』で製作会社訴え」
 こうした話題について書くのは、あまり気が進まないのだが、共感できない部分が多かったので、考えてみることにした。
 まず、有名なフランコ・ゼッフィレルリ監督の映画「ロメオとジュリエット」(1968年制作)で主演を演じたのが二人の提訴者だ。コメントでも多くが語っていたのは、何故今になって?ということだ。50年以上前の映画なのだ。

 それに対しては、ヤフコメで解説しているひとがいた。カリフォルニア州では、開始時期が書いてないのだが、ある時期から、児童虐待への刑罰に時効がなくなっていたが、2021年をもって、それが廃止され、時効が復活することになっていたから、ぎりぎりのタイミングで提訴したというのだ。それで納得するよりは、疑問が大きくなったひとのほうが多いだろう。これを過ぎると提訴できなくなるから、今やりましょうと弁護士に強力にプッシュされたという可能性を考えざるをえない。「何故今?」という疑問には、2019年にゼッフィレルリが亡くなる前の2018年に、ハッセーがインタビューで、ゼッフィレルリへの感謝の念と、ヌードシーンは必要だったと述べていたという事実も関係している。これまで、まったくそうした意思表明をせず、監督が生きていたときには、むしろ肯定的であったのに、亡くなってから提訴するのは、おかしいのではないか、という評価だ。監督が生きているときはやりにくかったというかも知れないが、#me too運動が起きたときには、そうした提訴の風潮が盛り上がっていたのだから、そのときに訴えればよかったと考えるのは、無理もないところだろう。
 
 裁判という側面でみれば、アメリカと日本は根本的に違うので、日本ではありえない訴訟といえる。アメリカは成功報酬制度なので、提訴するために原告が費用を負担する必要がない。勝って賠償をとれたときに、そこから成功報酬として支払うのだ。だから、極めて安易に提訴できるし、また、要求金額が膨大なものになる傾向がある。それだけ弁護士の報酬が多くなるからだ。
 しかし、日本は、提訴するためには、着手金を払う義務がある。通常の民事訴訟で成功報酬方式は禁じられているのだ。そして、着手金は、賠償請求の金額によって決められている。請求額が多ければ、それだけ着手金の額も多くなる。日本で500億円の請求すると、10億以上の着手金が必要である。これは返済されることはない。これだけの費用を負担して、訴訟を起こすひとは、日本にはまずいないだろう。勝っても支払われる絶対的保障はないのだ。
 つまり、訴訟として、いろいろと不自然なところが多いことは、否定できないのだ。もちろん、精神的苦痛があるならば、提訴する権利はあるし、支持されるだろう。そのことまで否定する気持ちはまったくない。
 
 断っておく必要があるだろうが、私は、この映画を見たことはないし、また今後見るつもりもない。原作の「ロメオとジュリエット」という作品自体に、あまり関心がないし、不自然な展開が興を削ぐ。グノー、ベルリオーズ、ベルリーニ、バーンスタイン、そしてチャイコフスキーの音楽はすばらしいので、好きなのだが。
 見たことはないが、大評判を獲得した名画であると認識している。そして、そうした高い評価のなかに、ヌードシーン要素があるとは、まったく思っていなかった。そういうことで売り出している映画とは、認識していなかったし、またヤフコメでも、見ないひとが、ヌード映画という前提で書いていることに対して、見たひとが、そんな映画ではないとたしなめている。宣伝の写真でも、二人は貴族風の厚着をしている。今回の提訴は、映画への視点を逆に貶めてたといえるのではないだろうか。これまでとは違う、低い評価を生まざるをえないような映画だという見方を生んでしまったことになる。
 
 ゼッフィレルリの側から考えてみよう。映画ファンにとって、彼は「ロメオとジュリエット」「チャンプ」「エンドレス・ラブ」の監督として知られていると思うが、私のようなオペラファンにとっては、戦後最高のオペラ演出家の一人である。有名な演出は多数あるが、特にプッチーニの「ボエーム」の演出は、オペラ演出に古典があるとすれば、まさしくこれがそうだ、と言われるもので、世界各国の中心的な歌劇場で、常時上演される際の演出として採用されていた。メトロポリタンでは今でも、使われている。ゼッフィレルリ演出の特徴は、とにかく、費用を節約せず、豪華絢爛な舞台をつくり、たくさんの人物を登場させ、原作の雰囲気を余すところなく現出させることだ。多額の費用を歌劇場がだすのは、成功の可能性が高いことと、ゼッフィレルリ自身が、あまり報酬をとらなかったからだと言われている。
 それが、ゼッフィレルリの自伝で興味深いエピソードで示される。この映画については、あまり紙面が割かれていないが、オリビア・ハッセーのことは触れられている。意外なことに、オーディションに多数の応募があったそうだが、ハッセーは最初落とされている。太りすぎで、爪をかむくせがあって、雰囲気に合わないということだった。そして、まったくぴったりの美少女がいたので、採用を考えていたところ、後日現れたときに、髪をばっさり切って、ショートカットにしていたので、不採用にしたというのだ。貴族の娘のショートカットはありえないということらしい。本人はかつらではだめか、と申し出たが、ゼッフィレルリはそれを許さず、再度現れたハッセーが、ダイエットして、まったく違う雰囲気をもってきたので、採用したというのだ。撮影時のことはあまり触れられておらず、この映画が制作費用は少なかったのに、莫大な収益があり、収益率は映画史上最高で、自分の懐が初めて潤ったというのだ。オペラ演出家としては、世界的な評価をえていたが、先のような事情で、収入面では恵まれなかったわけだ。ゼッフィレルリが金持ちになったのだから、ハッセーも同じだったろう。
 
 ハッセーは、その後映画やドラマに出ていたが、当たり役はほとんどなく、「マザーテレサ」が例外だったらしい。今回の提訴にあたって、ジュリエット撮影のトラウマのために、その後の女優活動が制約されたと語っているそうだが、それは賛成できないところだ。結局、少女時代に爆発的な評価をえてしまったが、大人としての演技力を磨いていたわけではなく、その後の成長が十分ではなかったのだと考えざるをえない。要は、本人の努力と資質の問題だったはずである。ゼッフィレルリが重要なきっかけを作ってくれたのに、その後せっかく得たきっかけを活用することができなかったのは、本人の責任であろう。
 気になるのは、ハッセーは一時、ある宗教にはまっていたということだ。確か、布施明と結婚したとき、ハッセーの宗教のやり方での結婚式に拘ったという話があったと記憶している。特殊な宗教にはまって、ステータスを失う女優は、何人もいる。日本では桜田淳子などが典型だろう。
 今回の提訴は、表明していることとは違う背景があるように感じてしまう。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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