学校教育における演劇教育を考える2

 日本文化のなかで、演劇的芸術が弱体であれば、学校教育で演劇教育が重視されないのは必然的であろう。狂言や歌舞伎を学校教育のなかに、実際に演劇として行なうものとして取り入れることは、あまり賛同を得られそうにない。高校の演劇部ならありうるだろうが。そういう歴史があるにもかかわらず、何故演劇教育的要素を、義務教育段階で取り入れるべきなのだろうか。
 
 直接には関係ないことから始めよう。
 私が中学で英語をならい始めたころ、学習方法は文法的な内容と英語を読む(意味を理解する)ことが柱だった。もちろん音読はしたが、あまり重視されていなかった。単語試験などは頻繁にあったが、いずれも英単語が印刷されていて、その意味を書く。あるいは、日本語が書かれていて英単語を書くという方式だった。それが当たり前だったから、一生懸命スペルを、紙に書いて覚えたものだ。今から考えると、実に非能率的、というよりもむしろ害のある学習法をとらされていたと感じる。音声の学習は、非常に限られていたのだ。もっとも、それも仕方なかったともいえる。当時は、ネイティブの音声を聴くことができる器具がないに等しかったからだ。レコードはあったが、外国語の学習には、とても便利とはいいがたいものだ。後にカセットが出回るようになったが、けっこう高価だったし、既にならい始めの時期を過ぎていた。

 日本人の英語力が低い理由のひとつが、この音声による学習の圧倒的な少なさ、印刷された文字を軸とする学習にあったと思う。岡本綺堂『風俗江戸物語』によると、江戸時代の手習い(寺子屋)では、文字を書く指導をしたが、読む指導はなかったのだそうだ。多いと300人くらいの生徒に、指導していたというのだから、声を出すことは、無理だったのだろう。明治期の英語教育は、読みは各自勝手に読みたいように読んでいたそうだ。今では大分改善されていると思うが、私がまだ学生だったころまでの、日本の英語教師の多くは、スムーズにネイティブと会話することができなかったと言われている。
 国語ではさすがに声に出して朗読することは、どこでも行なわれているが、多くのスタイルは、特に小学校では、一斉に皆で読む形ではないだろうか。これは、言葉のイントネーションを無視するもので、正しく朗読するようには、決してならない。だから、日本の学校では、日本語を適切に朗読する教育を、ほとんどしていないと言ってもあながち間違いではない。たまたま、そうした教育をしている教師に習ったとしたら、かなり幸運だったといえよう。
 もし、全員で朗読をさせたいのならば、それぞれが思う表現で自由に、ばらばらに朗読させるほうが絶対にいい。そして、そのあと、だれか選んで、一人で朗読させる。そして、その朗読に対して、改善させるような指摘をする。
 なにか楽器を先生について習ったことがある人はわかるだろうが、楽器のレッスンは、かならず個人レッスンである。音をだすことを勉強する場合、集団で学ぶことない。バイオリンのレッスンで、30人並べて、一緒に弾かせて、技術的なことを教えることはできない。
 演劇をとりいれれば、それぞれの役は、一人が演じるわけだから、かならず、個人が、声で表現しなければならない。だから、実際に劇を演ずるかどうかは別として、演劇を教材にして学べば、言葉本来の機能を学ぶことになる。
 
 次に演劇教育について考えてみよう。
 演劇といっても、いくつもの要素から成り立っている。
・創作のレベル
・上演のレベル
 ・台詞・朗読
 ・演技をつける
 ・舞台を設定する
 このなかで、創作は高校までの教育内容ではない。舞台設定をして上演するのは、有志や部活などの領域だろう。皆が学ぶべきなのは、「台詞・朗読」であり、可能ならば、「演技」まで含める。ただ、それは、指導力があればすべきである。そして、台詞・朗読は国語教育が中心だが、機能面を考えれば、他の教科でも応用可能であり、また、生活指導などにも活用できる。
 では、台詞・朗読の教育的意味は何だろうか。
 何よりも、声による表現力の育成であることは、誰もが認めるだろう。だから、詳しく書く必要はないだろう。教員養成カリキュラムで、朗読指導などを取り入れることが必要であることだけ、指摘しておきたい。
 第二は、他の人格になって表現することである。通常は台詞をいうのだから、自分の考えや感情を述べるのではない。実は、これが様々な教育効果がある。
 まず、普段は自分の考えや感情が当たり前だと思っていても、他の人格になれば、自分とは異なる考えや感情を表現することになる。それは自分を相対的、客観的に見直すきっかけになるはずである。
 教材としての台詞を語るときには、文学作品だから、決められたものであり、台詞の内容には、掘りさげるべき多くの感情がこもっている。それを解釈しながら、適切な話し方、表現を考えながら行なうことになる。
 また、状況を与えられ、自分で内容を考えながら語る学習法に応用可能である。
 歴史の学習で、歴史的人物になって考えてみることを、学習方法として確立したのが、安井俊夫氏である。中学の教師を経て、愛知大学の教授として教鞭をとられた安井氏は、進歩派の定型的な考えかたで教えていたところ、むしろ成績の低い生徒の質問に答えらなかった。奈良の東大寺を作るとき、駆り出されたひとたちは、権力に強制されて従事したと説明したところ、駆り出されたとしても、何らかの利益があったのではないか、と質問されたのである。資料や学習法を模索するなかで、その時代に登場する主な人物に、それぞれなって考えてみると、その時代が立体的に見ることができるようになることに気付いた。地方のひとたちにとっては、中央の仕事を請け負うことで、権威付けされたし、働く人にとっても、仕事にありつけたという側面があった。こうしたことが、立場の違うひとたちになってみて、自分ならこう行動すると述べあうことで、理解が進んでいったという。
 生徒も、歴史的人物(他人)だから、素直に考え、かつそれを表明するようになった。そして、立場が違えば、考えかたや行動も異なることに気付く。こうした方法は、歴史学習だけではなく、法律を学ぶ模擬裁判、政治を学ぶ模擬議会など、社会科の広い範囲で応用できる。そして、思考力と表現力を同時に向上させることができるはずである。
 ロールプレイや心理劇は、そうした他の人格になることを、カウンセリングの軸とする手法である。そのような技法ではなくても、他の人格になることは、自分を広げることになるし、また、自分が悩んでいることについて、他の人格の立場から表現することによって、解決を見いだすこともあるにちがいない。
 幼児教育、小学校前は、演劇教育がまったく不可能かというと、ママゴトをやる年齢でもある。あれは一種の自発的演劇行為だと考えれば、この段階での、演劇教育の基礎みたいなものは可能だし、とても意味があるのではないか。遊びでもあるから、楽しくできるだろうし、保育士さんとしては、内容を拡大するようにアドバイスしたり、他のひとが、あるグループのママゴトを鑑賞するというのは、どうだろうか。
 
 他の人になってみる、という行為は、演劇の本質のひとつだろう。そして、それは多面的な教育効果があることがわかる。

投稿者: wakei

2020年3月まで文教大学人間科学部の教授でした。 以降は自由な教育研究者です。専門は教育学、とくにヨーロッパの学校制度の研究を行っています。

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